第11話 寿永二年(1183年) 生贄の婿
源氏同士の膠着状態が崩れようとしていた。
下野国で源頼朝と争って敗れた叔父の志田義広が木曽義仲の元に逃げ込んだことが事の始まりである。甲斐源氏は独立勢力に近いが、表向き頼朝への恭順を示していた。
しかし、義仲は頼朝に明確に敵対行為をしている志田義広や、同じく頼朝と喧嘩別れした叔父の新宮行家などを匿った。義仲が頼朝からの引き渡し要求を拒否しすると、怒った頼朝は軍勢を引き連れ、義仲の本拠地である信濃まで遠征した。
甲斐源氏も頼朝に同調する動きを見せたため、義仲は戦うことをあきらめて降伏的な和睦を受け入れることになる。五歳の大姫の婿という形で十一歳になる嫡男・清水義高を人質に出したのである。
叔父を引き渡さなかった義仲の意地の代償は大きく、義仲の家臣団と行家、義広の間に溝を作ることにもなった。
しかし、頼朝と義仲のどちらが己の野望に近づけたかといえば義仲である。義仲は嫡男を渡す代わりに、後方の脅威を気にせず、上洛への歩みを進めた。
この機に義仲を撃破して、上洛することも考えていた頼朝はというと、坂東独立で満足している御家人たちを、まだ説得できていなかった。
坂東武士にとって中央に税を納めなくて良い、今の状況は魅力的だった。それよりも頼朝が京に出ていってしまい、坂東の代表者で無くなることも恐れた。
坂東独立を大きく主張し、上洛に反対していたのが坂東最大勢力の上総広常だった。後に広常はこのことが原因で、頼朝の意を汲んだ梶原景時に暗殺されることになる。
「戦はいつになったら始まるのやら。弓が泣いておるわ」
本田貞親が大倉御所に阿太郎を訪ねてきた。貞親は信濃へ従軍したのだが、阿太郎は江間義時に政子の護衛を頼まれたため残っていた。
「わざわざ、鎌倉までぼやきに来たのか。秩父で弓馬の腕を磨いていたほうが気が晴れるだろうに」
「それが、そうでもないのだ。最近の殿は芸事に熱心でな。管弦を鳴らしたり今様(流行歌)を歌ったり。夙妻太夫が芸の心得があるということで殿が遊廓に入り浸っておる。そうしたら、嫉妬した奥方(義時の妹・貴子)も対抗して芸事を始めた。わしも歌の物真似しかできないと言っているのに付き合わされる。しかもな、阿太郎……」
貞親は頭を振りながら手で耳を抑える。
「殿は歌が下手だ。聞いておられぬほどにな。厩舎の馬も悲しい瞳をして聞いておる。歌と違って管弦は上手いのだから、拍子は取れそうなものなのだがなぁ……」
「そのうち飽きるだろう」
「そうかもしれぬが――おい、俺の話を聞いておるのか? 横を向いてにやにやしおって」
阿太郎の視線の先には、庭で笑っている大姫がいた。
「ここのところずっと大姫様が大はしゃぎでな。子の喜ぶ様を見るのは楽しい」
「ああ、ままごとの相手が来たからか。可哀そうに。あの冠者(元服したての少年)は長く生きられぬ」
「義高様と呼べ。大姫様の婿だ」
「親馬鹿ならぬ姫馬鹿だな、おぬしは。義仲の動きを知らぬわけでもあるまいし」
貞親の言う通り、大倉御所内で義高を婿扱いしているのは大姫しかいない。侍女や郎党たちも、この少年を大事な人質という目で見てはいるが、大姫の将来の婿は違う男だろうと思っている。
義仲が義高のことを顧みず、積極的に上洛へ向けての行動を始めたからだ。当然、頼朝としてはおもしろくない。
「上洛した義仲が御所の御家人になれば問題ない。そうすれば門葉(一族)として大事にされる」
「己が信じてないことを人に言うではない。源氏の血統は並び立たぬ悲しき性と言ったのはおぬしではないか。ん? あれが義高か。ほう、美形だな、父親の血が濃いと見える」
義高が大姫のいる庭に出てきた。貞親が言うとおり、美男と評判の高い義仲に似ている。身体は日に焼け、少しやせていた。美しく薄幸な少年というのは自然と同情を集める。
しかも遊び盛りの少年が、人に嫌われないよう行儀よく周りに接している様が、健気に見えないはずはない。まず、侍女や郎党たちが義高に優しくなり、近ごろでは政子も義高を気に入り始めていた。
「今のように義高様が過ごしていれば、何かあったときに命乞いしてくれる者も出てくるはず。御所を平清盛公から助けた池野禅尼のように」
「おぬしまで義高に同情するのは感心せぬな。碌な結果にならぬぞ。そんな暇があったら義高が逃げたときのことを考えておいたほうが良い。見ろ、あの小僧らの目を。素知らぬ顔で逃げ道を探っている。あれは良い武者になるぞ」
義高に付いてきた二人の少年を指して言った。
「望月、今日の的当ては俺のほうが多く当てた。三日間はお前が弟子だぞ」
「ちぇっ、わかったよ。海野、今度は鳥を射抜く勝負をしよう。俺は動いている的のほうが得意なのだ」
義高の護衛の海野幸氏、望月重隆である。阿太郎は首をかしげる。
「あの子らがが? 俺には無邪気に遊んでいるようにしか見えぬがなあ……」
大姫が阿太郎の元に義高を引っ張ってきた。義高はされるがままに付き合っている。
「阿太郎見て。私と義高様は雛人形みたいに仲良しでしょ。義高様は父さまと違ってお優しいの」
義高は大姫が頼朝の悪口を言うときだけ、どうしていいか分からない顔をする。
「そうですね、姫様。でも御所を悪く言ってはなりませぬ。義高様が困っております」
「困っているの? 義高様、ごめんなさい」
大姫が泣きそうになったので、義高はしゃがんで優しく撫でている。阿太郎は慌てて言った。
「義高様、私が言い方を間違えました。申し訳ございません」
「阿太郎殿の優しさゆえのことです。お気遣い感謝いたします」
――この少年は自分で自分を殺してしまうかもしれぬ。
義高が大倉御所に来てから、義高が大姫のわがままに文句を言う姿を見たことがない。男が興味のないままごとや貝合わせなどにも笑顔で付き合う。ずっと大姫が側から離さないのである。本当は野山で走り回りたい年ごろなのに我慢している。
しかし――阿太郎は思う。自分で自分を殺さずに生き残った場合は、きっと大器になるに違いない。
伊豆、牧の方別邸では暗い顔をした兄妹が向き合っていた。髪も整えず、すっかり痩せた牧宗親に牧の方は言った。
「兄上、頼朝と政子が憎い?」
「ああ、俺は何も悪くない。御台所のために働いた。なのに、なのに……」
「そう、兄上は悪くない。父上といっしょで、悪者にはめられたのよ。政子にね。だから復讐しなければいけない。今までのように怯えていてはいけない。そうでしょ?」
「そうだな。はめ返すことを考えてみるか。仕えていた者たちも去っていってしまった。失う物が無ければ怯える必要もない」
「そうよ。やっと兄妹の気持ちが一つになって私は嬉しいわ。時政殿は許したけど私たちは許さない。頼朝と政子に復讐する。そのためには禿を立て直すの」
「赤禿がいてくれて良かった」
牧宗親は傍らの童女を見る。彼女だけは行くあてもないので宗親の元に残っていたのだ。牧の方は赤禿に振り向いて言った。
「もう禿姿の密偵は終わり。これからは戦うこともできる密偵を作るわよ」
禿姿の童女は無表情なまま頭を下げた。おかっぱの前髪を左右に分けると、隠れていた額から“阿”の字が表れた――。