第10話 寿永元年(1182年11~12月) 義時裁き
江間義時は自分の胸で泣き続ける牧の方をやさしく撫でていた。指でそっと涙をぬぐってやる。美しい泣き顔だ。心が動かされる。義時が初めて牧の方を抱いたときも彼女は泣いていた。湧き上がる情欲を押さえて、優しく語りかける。
「御所も酷いことをなさる。折を見て私からも諫言いたしましょう。だから心を鎮めてください。私も暇をみて伊豆に会いにいきます」
「義時はいっしょに来ないの?」
これで何度目になるだろう。先ほどから義時は牧の方と同じやり取りを繰り返している。
すでに北条時政は北条一族で鎌倉から伊豆に引き揚げると決めた。源頼朝が北条一族をないがしろにしたことに対しての抗議である。無論、溺愛する牧の方のためでもある。
「政子は伊豆には行かないと時政殿に言ったそうよ。兄上があんな目にあったのは政子のせいでもあるのに」
時政は政子も連れて行こうとしたが、夫を困らせるのは妻の行いではない、ときっぱりと断られてしまった。
「義時について来て欲しいの。私の恋人でしょ?」
「あなたを守るために鎌倉に残るのです。御所の側にいることで、あなたの役に立つこともある」
義時は牧の方を持て余し始めた。時政の屋敷でなければ、牧の方の気を鎮めるために抱いていただろう。時政の大きな声が聞こえてきた。
「牧よ、いつまで義時と話しておる。今生の別れでもあるまい。そろそろ行くぞ!」
「ほら、早くいかないと。父上に私たちの仲を勘繰られては面倒です」
義時の安堵した表情に気づいた牧の方は、恨めしげに義時を見ながら部屋を出て行った。
北条の伊豆退散の報を聞いた頼朝は、まず阿太郎と本田貞親を呼び出した。
「おお、二人ともいたか!」
源頼朝は義時の郎党の二人を見ると、ほっとした。
「貞親、義時が屋敷にいるか確認してくるのだ、急げ! 阿太郎は政子が出かける支度をしているかどうか様子を探って参れ」
命じられた貞親は大倉御所を飛び出していった。阿太郎は政子の侍女に、御台所の様子はどうかと聞いてみたが、政子は落ち着いた様子でいつも通りだという。頼朝のところに戻ろうとすると几帳の奥から阿太郎を呼びとめる愛らしい声がした。
「また、父さまと母さまの喧嘩なの?」
五歳になる大姫の顔を見ると、阿太郎は顔が自然とほころぶ。子供好きなのだ。
「貝合わせですか、姫さま。ご安心ください。御二方は喧嘩をしてないですよ」
「母さまは父さまのことが大好きなのに、すっごく怒ったりするの。変よねー」
大姫は塗箱の中から小さな雛人形を二つ取り出す。
「ねえ、これを見て。大姫はいつも二人一緒にしているの。だから仲良し」
「御二方も仲良しだと思いますけどね……。ほら貝遊びがまだ途中です。侍女が順番を待っておりますぞ」
上手くごまかせないまま、阿太郎は大姫の部屋から下がった。
頼朝に政子のことを報告した後に、貞親も戻ってきて義時が屋敷いることを伝えた。頼朝は安堵した表情で脇息にもたれかかると、まずは良し、とつぶやいた。
「義時殿からの御伝言です。“伊豆に戻るつもりはありません。畠山重忠殿が帰順したときの借りをお返しいたします”そうおっしゃっていました。大倉御所へ参ったほうが良いかどうか、聞いて参れとも言われました」
頼朝は手に持った扇子を開閉させながら、しばらく思案していた。
「鎌倉に残ったのは褒めてやるが、この程度で借りを返したとは、少し図々しいの。借りを返したければ、大倉御所には手ぶらでは無く、知恵を持って来いと伝えよ」
畠山重忠の名前が話に出たので、すぐに立ち上がらず不安そうな顔をしている貞親に、
「心配するな。何も考えずに鎌倉に残る男では無い。問われることも想定しているはずだ――」
頼朝の予想通り、義時はすぐに大倉御所にやってきた。
「よく来た義時。裁きは政治の要だ。才を見せよ」
「私が進言できるのは父上と御所との問題だけです。御台所様と亀の前殿のことは御所次第ですので、何も申し上げません。それで構いませぬか?」
「わかっている。話を進めろ」
頼朝は浮気問題など、どこかへ行ってしまえというように、扇子を扇いだ。
「進言通りにすれば、御所は一切謝る必要はありません。父上も機嫌良く戻ってきて御所のために働きましょう。双方の面子が立ちます」
「ほう、代償は」
頼朝はパチリと扇子を閉じる。
「牧宗親殿と伏見広綱殿です。二人の所領の没収いたします」
「伏見もか?」
頼朝は渋い顔をする。処分をすればこれから浮気の世話をするものがいなくなる。
「一時的に鎌倉から離れたほうが伏見殿のためでもあります。先日、伏見殿が私の屋敷に姉上へのとりなしを訴えて参りました。御台所様に腹を切れと恫喝されたので助けて欲しい、と」
「近頃、伏見と亀の前の怯え方が特に酷くなった理由はそれか。これまでにしておくか……」
頼朝はつまらなそうな顔をして納得した。
「伏見殿には後に所領を回復されてやると一言おっしゃっていただければ結構です。処分の名目については牧殿は御所へ何も報告をせずに行動したこと、伏見殿には御所が大事にしている方を守れなかったことで良いでしょう。これからの平家との戦いでは報告を怠ったり、捕虜や預かり人を保護できないと処分される、という見せしめにもなります」
「こじつけ気味であるが――まあ良いだろう。時政はどうやって戻す?」
「父上が気にしているのは、北条一族が侮辱を受けたと世間に思われ、御家人たちの中での重みが減ることです。御所の外戚として大事に扱われている、父上はそう思われたいのです」
「そんなことはわかっておる。だが、時政に頭を下げぬ。どこかの一族が本領に戻る度に許していては、これからの坂東武士の統率に支障が出る」
「御所の言うとおりです。頭を下げる代わりに、牧殿と伏見殿から取り上げた所領をいただきたいのです」
「戻った人間に所領を与えていては、それこそ所領欲しさに、皆、鎌倉からいなくなるわ。間抜けめ! そんな知恵しか出せないのなら、おぬしも伊豆に帰って良いぞ!」
頼朝は扇子で床を激しく打った。義時は動じることなく応える。
「父上にではございませぬ。私に鎌倉に残った褒美としていただきたいのです」
「――何だと? 続きを申せ」
「私も北条一族です。私に所領をくださったとしても、結果として北条一族の所領が増えるのは他家から見ても明らかです。私を通じてですが、父上から牧殿に所領を与えてなだめてやることもできます。その条件で父上は戻るでしょう」
頼朝は少し考えた後、言った。
「――いいだろう。しくじるなよ、義時」
「では、早速」
待て――引き下がる義時を頼朝が引き留めた。
「これからの働きによっては、駿河守も考えておく。そう時政に伝えよ」
駿河は同盟関係である武田信義とその息子、一条忠頼の支配下である。いわば空手形だ。頼朝が切ったこの空手形が時政にどんな影響を与え、時政をどう動かすのか。
伊豆に向かう道中、義時はずっとそのことを考えていた――。