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源氏の子 ~源頼朝に逆らった男たち~  作者: キムラ ナオト
第一部 木曽義仲の子
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第9話 寿永元年(1182年6~11月) 落首騒動 

「義時! 牧の方の言っていることは本当なの!!」


 大倉御所(おおくらごしょ)に政子の怒声がこだまする。今年の夏に嫡子(ちゃくし)頼家(よりいえ)を産んでから、政子は一族であろうと御台所(みだいどころ)という立場で接するようになった。継母上ではなく牧の方、父の時政のことも時政殿と呼ぶ。そのことが牧の方を刺激しているのだが、気に掛ける政子ではない。


「さあ、私は知りませぬ」


「とぼけないで! 御所の共をしているのは、あなたの郎党でしょう。すぐにここに呼びなさい!」


「今日も御所と出かけて、今はおりませぬ」


「御所が浮気をしていることなど、とうに知っておりました。亀の前でしたっけ? 御所が私に遠慮して、遠くに隠していたから、とやかく言わなかったのです。私も妾の一人ぐらいを気にする女ではありません」


 政子は話しているうちに怒りが溜まっていく。義時にはそれが分かる。


「だけど、亀の前を近くに引っ越させたそうではないですか! それに御所が浮気しているのは、私が酷い女で、亀の前が優しい女だからと噂になっています! 義時、私は浮気ではなく侮辱されたことがくやしいのです! このような噂を流されて、どうして御台所として御家人に会えましょうか!」


 政子は怒りを爆発させた。確かにその噂のことは義時も気になっていたのである。数日前から急に広まったのだ。


「姉上、これから鶴岡八幡宮つるがおかはちまんぐうに若君のための祈祷(きとう)に行かなければ。その話の続きは戻ってきてからにしましょう。夜ならば私の郎党も戻ってきます」


 義時は政子を何とかなだめて輿に乗せると鶴岡八幡宮へ向かった。

道の途中、屋敷の塀に人だかりができていた。


「あれは何であろう、止めなさい」


 政子は輿を止めて御簾(みす)を上げた。政子に気づいた群衆は蜘蛛の子を散らすように消えた。御台所として恐れられるのは分からないではないが、逃げる群衆から笑い声が聞こえたのが気になった。政子が塀に輿を近づけさせると、そこには歌が書いてあった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

燃え盛る

御台所(みだいどころ)の火の

(みなもと)

亀に乗りつつ

行くは竜宮(りゅうぐう)

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

荒川の水、浮気癖、政子の怒り、是ぞ御所の心にかなわぬもの

(御所にもどうにもできないものが三つある、荒川の水、浮気癖、政子の嫉妬心)

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 下手くそな落首だが、自分のことを歌っていることだけは政子にも分かる。


「早く消すのだ! 消せ!」


 義時が郎党に命じる。輿からは政子の怒鳴り声が聞こえた。


「腹が痛くなりましたので帰ります! ただし、真っ直ぐに帰らず、この辺りを回って参れ!」


 政子の予想通り、所々に人だかりができており、落首だけではなく、鬼女から逃げる貴族が亀に助けられるなど、からかうような絵まで描いてあった。


 政子の唇からすーっと一筋、血が流れた。政子は一言も発さず、御簾の中から塀と周辺を見ていた。義時も平家の鎌倉攪乱(かくらん)の可能性を考えて周囲を警戒すると、遠くで禿姿の童女がこちらを伺っていることに気づいた。


――たしか、あの童女は牧の方に仕えていたはず。


 義時は輿を振り替える。


 バキリッ!


 輿の中から扇子が折れる音がした。




 大倉御所に戻った政子は、まず義時に鎌倉中の落首を消すようよう命じた。輿のお供をした郎党たちが政子が怒っていることを話したらしく、大倉御所内には緊張が走った。政子の世話をする者の中には震えている者までいる。


「大丈夫ですか! 政子!」


 目に涙を浮かべながら牧の方がやってきた。


「ひどいことを書かれましたね。安心しなさい。この継母が守ってあげますから」


 あんなことを書くなんてひどい、と牧の方が怒っていると、


「牧の方は外に出歩かないわりに、内容にお詳しいのね。どこで知ったのかしら」


「それは……」


 鼻白(はなじろ)む牧の方を政子はじっと見て言った。


「私には誰にも負けませぬ。牧の方、今すぐ牧宗親(むねちか)殿を呼んでくださる? 力になってくれると言いましたよね?」


「……ええ、もちろん」


「それでは、私は部屋で待っていますので、宗親殿一人で来るように伝えてください」



 牧の方は政子が弱みを見せるどころか、瞳の中に炎を燃やしてきたのでおもしろくなかった。そして呼び出されておどおどしている兄の姿を見て腹を立てた。政子の部屋から出てくる宗親を捕まえて牧の方は問いただしたが、宗親は「後で」と言うだけで、すぐに大倉御所を飛び出していった。



 宗親が源頼朝の浮気相手の亀の前がいる屋敷を打ち壊したと、牧の方が知ったのは次の日の昼だった。「鎌倉中に知れ渡るように派手にやりなさい!」と政子に命じられた宗親は、頼朝が屋敷から出たすぐ後に、人数を連れて屋敷を更地にする勢いで破壊した。


 頼朝は憤慨(ふんがい)したが、浮気が原因なだけに政子を怒るわけにはいかない。その怒りは牧宗親にすべてぶつけられた。


 頼朝はある宴会に大勢の御家人を招いた。その中には宗親と亀の前を預かっていた伏見広綱(ふしみひろつな)もいた。わざとらしく広綱と宗親に話を聞いた後、頼朝は宗親を罵った。土下座して謝っても許さず。宗親の(もとどり)を皆の見る前で切った。この当時、武士の髪を切るのは最大の侮辱ともいわれていた。


 宗親は泣きながら北条屋敷にくると、牧の方に「馬鹿な妹のせいでこの様だ。神罰が俺に下ったわ!」と言い放ち伊豆へ帰っていった。


「お気の毒なことで……」


 政子が亀の前事件の後、宗親に関して起こした行動は、この一言を牧の方へ掛けただけだった。宗親への仕打ちについて頼朝に文句一つ言うわけでもなく、宗親をかばうこともしなかった。


 もっともこの事件の被害者は宗親だけはない。亀の前を預かっていた伏見広綱も後に政子によって遠江に流罪(るざい)にされた。頼朝も広綱をかばった形跡はない。



 それまで他人の夫婦喧嘩だと高みの見物をしていた者たちは、とばっちりで牧と伏見が酷い仕打ちをされているのを見て震えあがった。御家人たちは自分の屋敷の塀に落首を書かれないよう、郎党に見張らせるようになった。こうして鎌倉の落首騒動はすぐに治まりをみせた。




 本田貞親と阿太郎は、江間義時への用を済ませ、大倉御所から下がってくるところだった。


「阿太郎、これでようやく浮気の護衛から解放されるな」


「うむ。牧殿と伏見殿は気の毒だったが……」


「まったくだ――おい、聞こえるか? あの笑い声」


 二人は大倉御所の奥のほうを振り返る。


「御所と御台所様の声だな。仲睦まじそうだ」


「お互いに八つ当たりが終わって、すっきりしたのであろう。馬鹿夫婦が!」


「阿呆、声が大きい」


「阿太郎よ。わしは二度と浮気の護衛など引き受けぬぞ。もし我が殿が牧や伏見のように、あの夫婦の喧嘩に巻き込まれてみよ。殿もわしも恥ずかしくて、死んでも死に切れん!」


「わかった、わかった」


 阿太郎は貞親をなだめるために、途中で酒を一壺買わされるはめになった――。

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