戦場と兵士
成長期にある少年に取り月日の流れは早いものだ。
酒場の手伝いで毎日が費やされるエドリンにとっても、それは急激な速度で過ぎ去って行った。
エドリンが仕事を辛いと感じたのは、初めの季節だけだった。もちろん、その時間だけは蝸牛の歩みのようにとてつもなく長く感じられたが、それが過ぎてしまえば時間は急激な加速度を得た。
そして、一年を過ぎる頃になると、もう自分の仕事が楽しくてたまらなくなった。少年の環境に対する適応能力というものは、大人のそれとは比べものにならない。少年はまだまだたくさんのものを吸収することができる。エドリンにとってそれは、まさしく的を射たものだった。
街には森もなければ麦畑もない。あるのは灰色の石で作られたて建物ばかりだった。だが、ここには村では決して得られることのない素晴らしいものがある。それは、人々との出会いだった。
ブラウドの酒場には、毎日お決まりの客たちが溢れている。最初の出会いは彼らだった。恐い顔をした男たちも、化粧をして香水を付けた女たちも、初めてエドリンが抱いた印象とはまるで違った人だった。
「坊や、まあ座ってこいつでも食えよ」
「駄目だよバークさん、僕にはまだ仕事があるんだからさ」
顔に大きな傷のある大男とエドリンは、もう平気どころか、まるで友達のように話していた。
エドリンが近付いていくと、客たちは次々と声を掛けてくれる。話してみるとみんな楽しい人だった。
「ブラウドよ、おまえの甥っ子にしてはちいとばかり出来が良すぎるぜ!」
客の一人がからかい混じりにそう言うと、決まってブラウド叔父さんはこう応えた。
「そりゃ、俺の甥っ子だからな」
ブラウド叔父さんに対する印象も、間違っていたことに気づいた。確かにブラウドは気難しく、厳しい人だったが、決してそれだけの人ではない。
「エドリン、さっさと夕飯を食っちまいな。すぐに客が来るぞ」
ブラウドは決して自分の勝手で、エドリンに仕事を強いることはしなかった。エドリンが自分に割り当てられた仕事をこなしてさえいれば文句は言わない。一度エドリンが熱を出して倒れたときなど、何も言わずにエドリンの分まで仕事をしてくれた。
確かにブラウドがエドリンを誉めることなど滅多になかったが、それは口に出して言わないというだけだった。
街の生活は少年を確実に成長させた。
加速度のついた時間は瞬く間に過ぎていく。
街から見えるのは、かつてのエドリンの知らなかったものばかりだ。
ある晩、見知らぬ客の一団がブラウドの店にやってきた。
四人の客は皆、一度も見たことがない顔ばかりだった。
今までだって初見の客は何人も来ていたが、その四人だけは、他の客たちとは様子がまるで違っていた。
「ブラウド、久しぶりだな」
四人の中で一番年嵩の男、中背で頬に傷のある黒髪の男が、不精髭を生やした顔に笑みを浮かべてる。彼の服は埃で汚れ、所々が擦り切れており、腰のベルトには無造作に剣が刺してあった。
エドリンが叔父の方を見ると、ブラウドの顔にも心からの笑顔が浮かんでいた――こんな叔父の顔を、エドリンは初めて見た。
「みんな、こいつらの為に席を空けてやってくれ。長いお勤めで疲れてるらしいからな」
ニヤリとしてブラウドが言う。それに男の方も楽しそうに笑う。
「そんな言い方じゃ、みんなが誤解するだろうが」
「お前のやってることは、大して変わらないだろうが」
二人のやり取りに酒場のみんなが笑い声を上げる。
エドリン以外の誰もが彼らのことを知っているようだった。恐面の男たちみんなが、快く彼らの為に席を空けている。
エドリンは不思議そうに四人を眺めた。
男たちは皆剣を腰に下げている。それがよく使いこまれたものであることは、料理の手伝いをするエドリンにも解った。まるで使い込まれた包丁のように、柄の部分に手の跡が着いている。
この人たちは剣を使って何をしているのだろう? だいたい何で剣を持っているのかな?
アクタル村だったら、こんな風に剣を持ち歩いただけで大騒ぎになるだろう。だが、他の客たちは別にこれといった反応を見せていない。
そんな風にエドリンが見ていると、不意に四人の中の一人とに目が合った。
「どうしたんだ坊主、剣がそんなに珍しいか?」
もっと年上だと思っていたが、声から意外に若いことが解る。他の男たちと同じように不精髭を生やしていたから、エドリンにはまるで三十男のように思えたのだ。
「どうして、この店にガキがいるんだ? ここは孤児院なのかよ」
おどけた男の声に、エドリンはどうして良いか解らなかった。
無神経な言葉が自分の境遇を思い出せたが、今は沈んでなどいられない。
この人は怒ったのだろうか?
「俺の甥っ子だ。名前はエドリン」
ブラウドの助け船がエドリンには涙が出るほど嬉しかった。
「へえ、ブラウドさんの甥っ子ね」
若い男はそう言うとおもしろそうに笑う。それもまたエドリンを戸惑わせる。
「ようエドリン、俺はカータスだ」
そんなエドリンの内心に気づいてか、男はそう言って右手を差し出してきた。
エドリンが握手をすべきか迷っているのを、周りの大人たち面白そうに見ている。
僕はどうしたらいいんだろう?
エドリンは半ば自棄糞になって、カータスと名乗った男の手を力一杯握り締めた。
肩幅の広い若い男はそんなものには気づきもしないように口を大きく開けて笑う。
「よろしくな、小さなブラウド」
その夜、剣を持った男たちの一人、一番年嵩の男がエドリンたちの家に泊まった。
エドリンは、ブラウド叔父さんとその男が話をするのを、眠い眼を擦って聞き入っていた。
酒場での話から、彼らがこの街からずっと南にある戦場で戦う兵士だということが解った。
彼らはようやく休暇を貰って、生れ故郷のこの街に帰ってきたのだった。他の男たちは家族に会うために家に帰って行ったが、年嵩の男ダランだけはそんなことはしなかった。
「ダランには家族がいないんだ」
カータスの言った言葉をエドリンは思い出した。
家族がいない――そのことでエドリンはカータスに強い共感を覚えた。
だけど、どうして家族がいないんだろう?
もう年を取って死んでしまったのだろうか?
それともエドリンの母のように病気で?
エドリンはそれを聞く気にはなれなかった。自分が母や父のことを思い出すとどういう気持ちになるか――大人であるダランもきっと同じだろう。
「どうした、寝ないのか? 俺たちに付き合う必要はない」
ダランは自分が疲れているなどと口には出さず、代わりにエドリンを気遣った。
「ううん、まだ大丈夫です」
少年は眠ってしまうつもりなど全く無かった。そんなことよりダランの話を聞きたかった。
「そうか……」
それきり、ダランもブラウドもエドリンに何も言わなかった。
ただ、彼らは懐かしむように昔の話、そして今の戦場のことを話し続けた。
エドリンは初めて、叔父の足が戦場で傷ついたものだと知った。
戦場というものが存在することを知ったのは、エドリンがこの街に着いてからだった。それまで、エドリンにとっては街ですら別世界のことのようで、想像だにしなかった。
エドリンにとっては村と森と青い空だけが全てだった。
アルタク村が実は世界のほんの端でしかないことを、酒場に来る様々な人の口から聞いた。
それはエドリンにとって大きな衝撃だったが、新しいものを知るという楽しみを与えてくれた。
しかし、そうした『新しいもの』の中で、戦場だけは違っていた。
戦場では人が人を傷つけている――何故そんなことをするのか、エドリンには理解できなかった。そして見たこともない戦場がまるで現実味の無いものに思えた。
その夜、エドリンは戦場で実際に戦った人から、現実の戦いについて聞いた。
南の彼方に広がる砂漠の国を人々はイスタリアと呼ぶ。そこにはエドリンたちとは全く違う、別の人間がいる。イスタリア人は、エドリンたちとは何もかもが違っていた。彼らはエドリンのような人間を憎み、殺す為に戦いをしている。
だから、兵士たちはイスタリア人と戦わなければならない。今も南の彼方にあるバーニングの砦には、イスタリアと戦うたくさんの兵士がいた。兵士たちはイスタリアから彼らの街を、家族を守る為に命懸けで戦っているのだ。
「どうしてイスタリア人は戦おうとするの? 街の人たちが何か悪いことをしたから?」
思い切ってエドリンは質問した。ダランはそれに驚いたような顔をする。
エドリンは何かまずいことを言ってしまったかと思い、慌てて叔父の顔を見た。
ブラウドは面白そうにダランを見ていた。
エドリンは二人の大人のやり取りを理解できず唖然としている。
ブラウドはそんな少年に真面目な顔で応えた。
「確かに、戦うには理由があるだろう。もちろん、イスタリアにも戦う理由はある。俺たちとイスタリアには、言葉も、習慣も、信じる神も違うという立派な理由がな」
エドリンはダランの言葉をよく考えてみた。
だが、どうしても理解できなかった。
何かが違うということが、戦う理由になるのだろうか?
「納得いかないって顔だな。どうやらお前はまともな人間らしいな」
微かな笑いを浮かべてダランが言うと、エドリンは更に解らなくなるばかりだった。
それを見てブラウドも笑っている。二人の大人が何を面白がっているのか解らないことが、エドリンは嫌だった。
エドリンが難しい顔をしていると、ブラウドが口を開いた。
「奴らの神を信じないことが、奴らには気に入らないんだ。そして、それは俺たちにも同じことが言える」
エドリンにはそれが、まるでブラウドが自分自身に言い聞かせているように思えた。
「イスタリアが襲って来ると言うが、現実はどっちもどっちだ。俺たちだって奴らが気に入らないのさ」
ブラウドの顔は不謹慎にもそれを面白がっているようだった。
「馬鹿げたことだろう? 俺もそう思うさ」
叔父の意外な言葉にエドリンは呆気に取られる。馬鹿みたいに口を開けているエドリンを無視したまま言葉は続く。
「だが、そんな下らないことで始めた戦いでも、その為にすでに多くの人間が死んでるんだ。今さら、馬鹿なことは止めようなんて言っても、誰が聞くというんだ?」
不意に、ブラウドの顔が厳しくなる。
「理由はどうであれ、今は戦わなくちゃならない。それが嫌なら、死んじまうしかないんだ」
これまで、ブラウド叔父さんはいつも気難しげな顔をしていると思っていた。
しかし、このときほど厳しい顔を、エドリンは今ままで見たことがなかった。
「お前の村だって同じだ」
注意深く耳を傾けていたエドリンは、ブラウドのこの言葉に不意を打たれた思いがした。
半ば他人ごとのように話を聞いていたが、不意に、それが自分のことだと言われたように。
どうして? 村がどうして同じだと言うの?
「お前の村には関係ないと言いたいのか?」
まるでエドリンの心を透かし見たように、ブラウドが言う。
エドリンはびっくりして、じっと彼を見つめるしかなかった。
「確かに、初めは関係がなかったかもしれないな。だがな、お前たちがあの村で呑気に暮らしていられるのも、戦場で戦う兵士がいるからだ。もし、イスタリアが攻め込んできたら、お前らの村だって皆殺しだ」
エドリンは叔父の言うことをどうにか理解することができた。
だが、それでも少年は納得などできなかった。
もとはといえば、街の人とイスタリア人が始めた戦いじゃないか。
村の人は、それに巻き込まれているだけだよ。
それが、どうして同じたって言うの?
「まだ納得いかないようだな。何が言いたい?」
ブラウドの言葉に、エドリンは必死の思いで立ち向かった。
少年は以前のひ弱な子供から成長している。それが、わずかばかりの勇気を与えたのだ。
「戦いを始めたのは……街の人とイスタリアの人だよ……」
「だから関係ないって?」
ブラウドの言葉に、エドリンは殴られると思い身を固くした。それ程に叔父の言葉は厳しいものだった。
だが、叔父はその怒りをエドリンに叩きつけることなく、代わりに言葉を投げ付けた。
「兵士だって言いたいだろうさ。この戦いを始めたのは自分たちでなく、もう死んじまった昔の人間だってな!」
それだけ言うと、ブラウドは二人を残して部屋から出て行ってしまった。
後に残されたダランは苦笑しながらエドリンに言う。
「あいつを悪く思うなよ。あんな足にならなければ、ずっと戦場にいた男さ」
エドリンにはダランの言葉など、全く聞こえてはいなかった。
自分に投げ付けられた言葉の重さを、少年は受け止めるだけで必死だった。




