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エドリンとソフィア

他の投稿とは全く違う方向性の話です。4-5話で完結する予定です。



 真っ青に澄み渡る空。微かな雲だけが残る。黄金の太陽の贈り物である光の下。

 それをいっぱいに吸い込んだ木々は深緑色の葉を大きく広げ、地平線の彼方まで続いている。

 大地には全ての生きものを育み育てる肥沃な土が、彼らの子供たちの根や、動き回る足を支える為に優しく広がる。


 春という季節は、全ての生きものの誕生のときであり、成長のときだった。ほんの少しの不純物も含まない新しい生命たちは光を父に、大地を母としてこれから始まる成長の時へと白線を跳び越える。誰もがこの季節を、心まで吸い込むような気持ちで迎えていた。


 全ての生きものが神により平等の生を受けたこの楽園では、人の子もそれに従って生きる。

 アルタクという神の十一番目の子の名を授けられた小さな村には三十戸程の村人が住む。アルタク村からは一番近い街ですら徒歩で二週間の距離があったが、そんなことは彼らにはたいして関心のないことだった。彼らは大地と共に生きているのだ。


 アルタクの人々は大地に麦を作って生活している。太陽が昇るとともに青空の元に広がる大地に起き出し、彼らは汗を流し働いた。眩しい太陽に全身を焼かれ、麻の服は一日働くと土に汚れ真っ黒になる。

 だが豊かな大地は彼らの努力に対して十分なだけの恵みを与えてくれる。だからどんなに一生懸命働いたとしても、村人はそれを苦だとは思わなかった。


 広々とした畑に春に薄緑、夏には深緑、そして秋には黄金色に染まる麦が実る。麦が育ち、豊かに実っていくのを二つの眼で見ることがどんなにすばらしいか、それをまのあたりにしたものでなければけして解らないことだった。


 また、村人たちは他の全ての生きとし生けるものと同じように、夕暮になるとともに家路に着き、その日の出来事全てを神に感謝して寝床に入る。

 彼らに、遠く離れた街のことなどどうして関わりがあろうか。彼らにはこの神が与えてくれた土地を祖先から受け継ぎ、豊かな実りを神に感謝し子供たちに伝えていく、それこそが生の全てだった。


 だか、もちろん彼らも人の子であるから、麦を作ることだけで生活できるわけではない。麦を作ることだけですら大地を耕す為の鍬、麦を刈り取る為の鎌などが必要だった。そういったものはどうするのか。その答えは、半年に一度やってくる行商人にある。この小さな村にも街からたまには人がやってくる。そんな行商人から村人は麦と交換に様々なものを手に入れた。


 もちろん、年に二度しか来ない行商人から多くの物を手に入れることなどはできない。それでもアルタクの村人には十分だった。神に与えられるものを汗を流して働くことで手に入れる彼らの生活にはたいして、街で作られたものは必要ではなかった。それ以上必要なものがあれば、彼らには物を作る二つの手があった。


 だから、アルタクの人々は、わずかばかりの街との関わりはありはしたが依然としてより多く大地と関わっていた。街の出来事など村人にとっては北に連なる山脈の向こうのことのように、まるで違う世界のことだった。そう、まさしくこの村と周りを囲むように広がる森だけが彼らの世界全てだった。


※ ※ ※ ※


 エドリンはやせっぽちの少年だった。


 父親が息子が大きくなるのを見込んで与えただぶだぶの服は、いつまでたってもぴったりにはならなかった。別に家が貧しいわけではない。アルタク村の農夫である彼の家は毎年十分なだけの恵みを受けている。村の他の家と殆ど変わらない生活をしているはずだった。


 ただ、いくら父親が無理遣りにでも息子に食べさせても、一向に痩せた身体は大きくならなかった。母親と二歳のときに死に別れて以来、父と二人暮しの少年は今年の誕生日で六歳になったばかり。だがそれにしても彼は年齢よりも更に幼く見えた。他のアルタク村の子供たちと同じように、エドリンはもう畑に出て父親の仕事の簡単な手伝いをしていた。


 だが、この弱々しい少年は殆ど何の役にも立たなかった。草むしりをさせるとすぐに疲れて座り込んでしまい、種蒔きをさせても歩いているうちにどこかに種を落としてしまう。だから父親ももうすぐに諦めて、エドリンを畑の脇で遊ばせておくのが常だった。

 別にたいして仕事を手伝ったわけでもない少年はいつもぐったりとした様子で、父親に言われるがままに畑の脇に座り込んだ。


「ああ、なんて僕は役立たずなんだ」


 エドリンも子供ながらに父親が失望していることに気づいていた。たった一人しかいない家族に失望されることが、六歳の少年にどれほど苦しいことか。


「どうして僕の腕はこんなに細いんだろう」


 だぶだぶの袖から棒のように伸びた腕を、エドリンはじっと見つめた。母親が残してくれた色の薄い瞳は寂しげに。こうしてずっと見ていれば、そのうちみんなみたいに力持ちになれるかな?


 そんな思いでずっと自分の腕を見ていたが、彼の腕はちっとも大きくならなかった。お父さんは一生懸命働いているのに。僕は何もできないよ。エドリンの口からはこんなとき、決まって深いため息が漏れるのだった。そんなため息ですら、少年が吐き出すものは弱々しかった。


「エドリン!」


 一人うつむいていたエドリンに、不意に声が掛けられた。その声が誰のものなのか、エドリンにはすぐに解った。今までの沈みきった顔がまるで嘘だったかのように、澄みきった青空を鏡に映したような顔で声の主を探し求めた。それはすぐに見つかった。エドリンはこれ以上できないという程に満面の笑みを浮かべて彼女を見上げた。


「どうしたの? お腹が痛いの?」


 少女の声は春の訪れを告げる暖かな南風のように辺りに流れた。けして力強さを感じない声は、何にも増してエドリンの心に染み渡る。少年の顔を覗き込んでいるのは栗色の髪の少女だった。

 エドリンと同じ歳の少女とは思えない程に、その姿は彼とは対照的だった。大きな褐色の瞳にも、日に焼けた健康そうな身体にも、子供が持っている生き生きとして輝きが宿っている。


 農夫の子供が着る何の変哲もない麻の服も、彼女が着るとその為だけにこの世に生まれた物のように見える。エドリンにはそれがとても羨ましかった。少女の大きな瞳はうずくまるエドリンにゆっくりと近付きながら、心配そうに彼を見つめていた。


「ソフィア!」


 そう言うなり、エドリンは飛び起きた。その拍子に危うく少女とぶつかりそうになり、慌てた様子で引っ繰り返る。


「痛い!」


「だいじょうぶ!」


 今度はソフィアが慌てて尻餅を着いたエドリンを抱え起こそうとする。優しげでいたわるような眼がエドリンは好きだった。


「うん、何ともないみたい」


 にっこりとして応える。こんなこと何ともないよ。ソフィアが来てくれたんなら。

 エドリンがそう応えても、ソフィアはまだ心配そうにエドリンを見ていた。まるで姉が幼い弟にしてやるかのように身体に着いた土を優しく落としてやる。


「そんなもので怪我などせんさ」


 力強い声にエドリンはびくっとする。エドリンの父親は仕事の手を休めるともなく少し離れた処から言ったのだが、エドリンにはすぐ側から聞こえたように思えた。お父さんの声は何て大きいんだ。


「やあ、マグダスさん」


 また一人大人の声が加わった。この人が側にいることは初めから解っていた。ソフィアが来たんだから。


「おう、テルダーさんと奥さん」


 エドリンの父親マグダスはようやく仕事の手を休めて声に応えた。大きな身体をゆっくりと動かし彼らの方に向ける。

 エドリンからは父親とちょうど反対側に二人の大人がいた。茶色の髪の髭を生やした男と少し太った女。二人とも穏やかな笑みを浮かべてマグダスを見ている。


 二人が着ているのはみんなと同じ麻の仕事着。服に土が着いているので今まで仕事をしていたのが解る。女の方がそれからゆっくりと顔を動かしてエドリンを見た。三十歳を過ぎたばかりの彼女はソフィアとはまた違った暖かな眼で少年を見る。するとエドリンはいつものように眼を反らした。


 エドリンには彼女の暖かい瞳が好きになれなかった。どうしても大人の女の人を見ると、母親のことを思ってしまうから。エドリンが眼を反らすと彼女は決まって哀れみと慈愛、そして淋しさの交じった顔を微かに見せて視線を移す。彼女の夫は親しげにマグダスのもとに寄っていた。彼を見るマグダスの顔も心なし穏やかになったように見える。


「今年はどうかい?」


「何、まだまだ解らんよ……」


 この決まり文句で二人の男は腰を降ろした。いつも二人が決めて座る畑の脇に生えた大きな木の影。これが昼ご飯の合図だった。そういえばお腹が空いていたっけ。アリスおばさんのお弁当の時間だった。


「お母さん!」


 ソフィアは二人の男が座る木陰へゆっくり歩いていく母ににそう叫んだ。


「後でエドリンと遊んできていいでしょう?」


 エドリンはようやく起き上がり、期待を込めた眼でアリスおばさんを見た。その視線がゆっくりと父親の方へ動く。微かな不安が少年の常としてこぼれ落ちている。


「ええ、いいわよ」


 優しげにアリスおばさんが言う。それが聞こえぬかのように父親が何も言わないのを確認すると、ようやくエドリンは安心して笑顔を取り戻した。この少し離れたお隣さんがやって来るのを、エドリンが待ちわびているのはこの為だった。ソフィアと一緒に遊びに行く。少年にはそれが何よりの楽しみだった。


 エドリンは畑仕事は苦手だったが、麦畑を見ているのは好きだった。整然とした緑色の麦もきれいだけれど、一番好きなのは秋の麦だ。黄金色の麦が風に吹かれるとき、まるで全ての麦が一つのものであるかのように一斉に流れる。真昼の太陽は光を投げ掛け、麦がきらきらと輝く。


 そのとき一つ一つの麦が重なってサラサラと音を立てた。まるで黄金の草原のようなその眺めを、エドリンはうっとりと見つめるだった。そしてエドリンはその麦畑と同じくらいに美しいものをもう一つ知っている。それがこの森だった。


 木々は大地に根を力一杯張り、両腕を太陽にかざすかのように枝を広げている。その枝の一つ一つに同じように大きく広げられた、光に透き通る葉っぱが着いている。木達が光を求めて手を広げすぎたので、森の中は少し薄暗くなっている。それでもほんの少しでも光があれば、今度は草や花が大地に顔を出す。


それだけじゃない。森には他にもたくさんのものがいる。そう、耳を澄ませなくたって小鳥たちの鳴声が聞こえてくる。みんながおしゃべりしているのが。ちょっと気をつければ鹿の足音だって、野兎が草をかじる音だって聞こえてくる。年を取った木の小さな穴から、栗鼠が顔を出すのだって。


「あれはクイナスだよ!」


 嬉々とした声で、叫ぶかのようにエドリンは声を出した。その声が大きかったので、エドリンの小さな手が指差した暗青色の小鳥は逃げ出してしまった。慌てて口を押さえたが小鳥はあっという間に見えなくなる。


「ごめんね」


 エドリンは今度は微かな声で、小鳥の消えた森の方へと呟いた。そんなエドリンの気持ちが伝わったか、他の小鳥たちが少年を慰めるかのように集まってくる。いつの間にか二人の周りには小鳥たちが集まっていた。木々に囲まれた小さな空き地。大きな木が誰かの為に空けてくれた場所に、二人の小さな姿がある。


「あの子を驚かせちゃったよ」


 エドリンはソフィアの方に振り向いて舌を出した。それが悪戯小僧そのままだったので、ソフィアは思わず吹き出しそうになる。それを懸命に堪えながらソフィアは思う。


「誰も知らないのよ、こんなエドリンもいるんだってことを」


 足をすっぽりと隠してしまう民族衣装のスカートを広げて、ソフィアは広場の端の方に座っている。


「あの鳥は何て言うの?」


 にっこりとしてソフィアが指差すのに、エドリンは周りの鳥を驚かせないようにしてそちらへと顔を向ける。そして眼を止めると、エドリンは輝くような笑顔で応えた。


「マルタリだよ、ソフィア。緑の羽にある二本線が解るよね?」


 叫んでしまわないように必死に努力していても、エドリンの喜びを小さな身体に押し込めておくのは不可能だった。握り締めた拳を踊るように小さく振る。そして気づかわしげに驚かしてしまわなかったか、自分の周りの鳥たちに眼を配る。誰も慌てて逃げ出したりしていないのを知ると、そのままソフィアの方に振り向いた。


「今度は大丈夫だったよ!」


 ソフィアはそんなエドリンに彼女ができるかぎりの笑顔で応える。心からの、けして脚色のされていない子供らしい笑顔で。


「飛んでいくよ!」


 エドリンは再びマルタリの方へと眼を戻した。ちょうどそのとき、緑の羽の小鳥は再び青空へと飛び立って行こうとしていた。小鳥はまるで彼らに挨拶するかのように頭の上を一回りすると、森の上に何処までも広がる世界へと飛び立って行った。そんな小鳥の後を追って、エドリンは視線をゆっくりと空に向けた。森の隙間から見える空に心を吸い込まれるかのように、エドリンは憧れるような眼差しを向けている。


「飛んでいくよ……何処までも……何処までも……」


 遠く、悠か彼方まで飛んでいく鳥を見つめる。薄い色の瞳には、今までとはまるで違うものが浮かんでいた。自由に大空を駆け回るものへの、少年らしい憧れが。そしてこんなときエドリンと一緒にいることが、ソフィアには嬉しくてたまらなかった。


「僕は麦畑だって森だって好きだよ。村の人たちが言うようにね」


 エドリンは森の中で決まってこう言った。少し歩くのに疲れたのでソフィアの隣に腰掛けている。広場の端に座る二人の視界には森と空で戯れる小鳥たちの姿がいっぱいに広がっている。


「でもね、僕は鳥になりたいんだ」


 この話が始まると、ソフィアはじっとエドリンを見つめた。そして優しげな視線にもう一つの感情の色を乗せ、何も言わずにただ微笑む。


「森よりも、ハルーンの山よりも、もっとずっと遠くまであのきれいな空を飛んでいけるなんて……どんなにか気持ちがいいだろう!」


 まるで自分自身が鳥になってしまったかのように、エドリンの視線は悠か彼方の山の向こうまでも見渡していた。鳥を見ていると、まるで自分が鳥になったような気分になれる。そうだよ、僕も鳥になりたい。


 少年の何者にも縛られない、翼を持った夢にソフィアは幸せそうに寄り添う。エドリンがこんなにもすばらしい夢を持っているのは、ソフィアの誇りだった。私のエドリンは、鳥の心を持っているのよ。


「エドリン、あなたは本当は鳥なのよ。きっと神様が間違えて人間にしてしまったんだわ」


 ソフィアの風の囁きに、エドリンは夢見心地のままぼんやりと頷く。森は優しく、他の生きものたちと同じように二人を包んでくれる。エドリンには森が母親だった。夢見る少年を、その胸に抱き締めて暖かく見守ってくれる。そしてソフィアは、この少年の側で同じ夢を語る唯一の理解者だった。


「いつか、きっとあなたは鳥になるのよ。神様がきっと鳥にしてくれるわ。そしてね……」


 褐色の瞳はゆっくりとエドリンを通り抜ける。少年の眼を通して悠か彼方の空へと。


「そのときは、私も一緒に鳥にしてもらうの……」


 眩しい光が全てに降り注ぎ、何もかもが輝いている世界。夢見る子供たちにとり、この安らぎの地はけして変わることないものだった。どの子供もそう思うように、ソフィアもこの時間がいつまでも続くことを信じて疑わなかった。


もし、これが終わりになるとすれば……そのときは二人で大空に羽ばたくとき。二人の夢を神様が叶えてくれたときに決まっている。鳥になって、二人は大空を自由に飛んで行く。


 いつまでも……。




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