老人からはじまる意識改革(三十と一夜の短篇第29回)
体が重い。目を開けたばかりだというのに、すでに体全体がずっしりと重たい。
体をあずけているベッドから身を起こすことさえ、億劫だ。
そうは言っても、寝ころがって天井をながめてばかりというのも退屈だ。横になったまま、視線だけで部屋のなかを見ようとするけれど、視界はせまく、あらゆるものがひどくぼやけている。目を凝らしたところで見えるものは増えず、不確かな景色に気が滅入ってくるばかり。
「よっこら、せ」
手をついて体を起こした際に思わずもれるかけ声は、耳にするたび年寄りくさいと思っていたものだ。それを自分が口にするようになるとは、考えてもいなかった。
「うん? おっとっと」
しかも、体を起こしそこなって布団のうえでよろけるなんて、信じられない。
そうは言っても、あお向けに寝た状態から起き上がれずにいるのが現状だ。ひじやひざは自分で思っているほど曲がらず、腹筋で起き上がろうにも体が重くて持ち上がらない。ひざの悪い母さんがちょっとした動作で時間をかけるのは、こういうことか。
布団に倒れた姿勢のまましばらく考えて、ごろりと横になってから両手と両ひざをついて、ゆっくりと時間をかけて立ちあがる。
ここまでで、やったことといえば布団から立ちあがっただけ。
だというのにすっかりくたびれて、早くもいすに座りたくて仕方がない。
「はあ、つかれた……」
思わずこぼれた年寄りくさいぼやきが、自分の耳にとおく聞こえる。テレビの音量をずいぶんあげていたじいさんの姿が思いだされて、いまなら自分もおなじように大きな音でテレビを見るのだろう、となんとも言えない気持ちになった、そのとき。
「はーい、おつかれさまでしたー!」
明るい声とともに視界が晴れ、体の重みが取り払われる。
不意にくっきり見えるようになったあたりの鮮明さに目をまたたかせて、軽くなった体に息をつく。
「いやあ、すっごいしんどいですね。布団から起きるだけでひと仕事した気分です」
正直な感想を述べるおれの前には、にこにこ笑うスーツ姿の人。その手には、おれがさっきまでかけていたVRゴーグルがある。
ここはVR老人体験ができるブース。老人、ということばがあるからだろう。うまい具合に子どもや学生が興味をなくすため、ひとがあふれる大型ショッピングモールのなかでは、比較的ゆっくりできそうな空間に見えた。成人して十年も過ぎたころから、すぐに椅子を探してしまうくせのついたおれは、そこに並ぶベッドと、無料体験です、という呼び込みにつられてふらふらと入ったわけだが。
「みなさま、そうおっしゃるんですよ。体が動くうちにベッドに変えようか、すこしでも筋肉がおとろえないように体を動かそうか、なんて考えてくださって」
ゴーグルを置いてふたたび差しだされたスタッフの手に、ずしりと重たいジャケットをわたす。筋力が低下することで感じる、体の重みを再現するためのものらしい。
おれの手足は重り入りのジャケットと、肘と膝につけられたサポーターのせいで動かしづらかっただけだが、実際には痛みをともなう重さ、動かしづらさだろう。それが想像できたのだから、このブースに来たことはおれにとって意味があったのだと思う。たとえ、それがブース企画者の思惑どおりだったとしても、悔いはない。
「ありがとうございましたー」
見送るスタッフからわたされたのは、意外なことにたったいち枚のパンフレット。もっとバサバサと袋いっぱいに渡されるものだと覚悟していただけに、その薄っぺらい紙をまじまじと見て、苦笑いがこぼれる。
「お待たせ。あんた、なに笑ってるの?」
ちょうどやってきた母さんに聞かれるけれど、おれは答えずにパンフレットをズボンのポケットにねじ込んで、母さんの手の荷物を引き取った。
「なんでもない。ところで、母さん布団で寝てたよな。ひとつしたのフロアに、寝具屋があるらしいんだけど、ベッドでも見に行ってみない?」
唐突なおれの提案に、母さんは目をぱちくりさせる。
「あらー。あんたが言われる前に荷物持つだけでも珍しいのに、あたしを店に誘うなんてねえ。なあに、その言い方だと、もしかして買ってくれるつもりだとか?」
冗談めかして言い「まさかね!」と笑う母さんに、おれはすこし口をどがらせたくなるけれど、これまでろくな親孝行なんてしたことがないから、そう言われても仕方ないとも思う。
「……そのつもりだよ。ベッドのほうが寝起きが楽だろ」
みょうに気恥しく思いながらそう言えば、母さんはおどろきながらも笑ってくれた。うれしそうなその顔に、ついついおれまで口もとがゆるむ。
母さんがどんなベッドがいいかあれこれと希望を言うのに相づちを打ちながら、杖はまだいらないようだ、と考える。立ったり座ったりの際には痛むようだが、歩く姿はしゃきしゃきしている。杖をあつかっているのは今いるフロアだけれど、今日は用がない。
老眼鏡、はどうだろう。母さんはもともと近視でめがねをかけているけれど、遠近両用めがねを作るならば、一階の北口あたりだったか。
さっきの体験をもとに、母さんに必要そうなものを考えながら思い浮かべるのは、ポケットのなかの紙。スタッフに渡されたいち枚きりのその紙は、このショッピングモールのフロアガイドだった。
(そりゃ、いち枚あればじゅうぶんだよな)
これが、いろいろな店に足を運ばせようというショッピングモール側の策略ならば、うまくいっていると思う。じっさい、おれのとなりで体験していた中年男性は、もらったばかりのフロアマップを広げて、スポーツジムの場所をスタッフに聞いていた。
それを思い出しながら、店側の策略に乗ってみるのもわるくない、と母さんにあわせてゆったりと足を進めつつ、頭のなかではおれ自身の運動計画をねりはじめるのだった。
むかーしむかし、作者が老人体験をしたときのことを思い出しながら書きました。