雨降る喫茶店
ちょっと某氏の小説を読んで意欲が刺激されたので更新します。
竹内は好きな人が居た。しかしてその人を口説く、だなんてそのような崇高な事が出来るはずもなかった。
言葉にはどれほどの魔力が宿っているだろうか。天地を動かすことが可能で、猛き武士に涙を流させることが可能で。人々の仲を和らげる事が可能なのだ。それほどの魔力で以てしても、その人の心が手に入るとは思えなかったのだ。
その日は変な雨模様だった。無論人は雨を厭な物と見るだろう。事実、竹内も嫌な物として見ていた。しかして、もっと雨が続いて欲しいとさえ思っていたのだ。
曇天の空。しとしとと激しくない雨が降って。しかしてその人は退屈そうにそれを一瞥するだけで本に視線を戻すのだ。膨大な言葉の海に抱かれて、フゥ、と暗い瞳を本に向けるのだ。それが美しく、竹内の心に触った。
惚れた腫れたなどと、あまり経験した事の無い竹内にとって、それは障りとも言える。恋の病とは、だからこそ辛く苦しいのだ。なぁ、そうであろう?
恋は下心と言う。愛は上心なのだそうだ。
しかして竹内はとある一つの言葉によってそれに疑問を抱くようになったのだ。そう「Love」と言う言葉。
「Love」とは「愛」と訳される。これは事実だろう。だが、ソレはどこまでも空っぽらしい。
テニスを見た事はあるだろうか? テニスだ。ソフトでもそうで無くとも、恐らくそうだとは思うのだが、その得点の数え方を聞いた事はあるだろうか。耳を傾けていると、「フィフティーン、ラブ」と聞く。フィフティーン。十五と、ゼロ。そう、「Love」は「ゼロ」も表しているのだ。勿論、浅学故に、諸説あるだろうと言う所も解しているが。
詰まる所、この国で時折言われている「愛」は虚無に近しい所に在る。ならば、凡百の言葉でその人を手に入れられる訳がなかった。
だが、その人を好む気持ちに関しては真実と言うより他は無いのだ。
例えば、その濡れた鴉のような黒い髪。
例えば、人外とも思える白い肌。
例えば、夜闇を切り取った以上に黒い瞳。
黒く在る事に固執した服装。
人と違う、纏う雰囲気の気高さ。
ああ、どれを、何処を切り取ったって、この人の素晴らしさを伝えられよう。現にその人を知る他の者にどう思うか尋ねた所、陳腐な回答しか返って来なかった。曰く「怖い」。曰く「近寄りがたい」。ああ、彼奴らの目は節穴であろうか。その読み取りにくい表情で、時折浮かべる微笑みの柔らかさを知らぬとは。恥知らずとも近しい愚かさではなかろうか。
竹内はすっかり参ってしまっていた。しかして言葉で伝わる想いでも無かった。果たして、この気持ちを吐き出すには、五臓六腑を全て吐き出して……それで足りるモノであろうか。
――そう。その日は喫茶店に居た。
雨降る中、少々の用事を済ませ、入った喫茶店で偶然出会ったのだ。こんな所に居る驚愕もあったが、しかしてこの光景はその人にとても似合いであると言えた。
その人は基本的に自らの家から出る事は無い。二人は所詮、仕事で繋がった縁だ。その儚さを思うと、思わず笑んでしまいそうになる。
その人は実に気紛れである。竹内がこうして突然の雨にずぶ濡れ寸前で喫茶店に入って来た時も、視線一つ上げない。その癖にして窓際のカウンター席に座るその人……雨雅は一度だけ窓の外に視線を向けて竹内に言ったのだ。
「因みに私としては、山垣よりは武林に頼みに行くのが良かったと思うのだがね?」
そう言ってもう一度その人は本に視線を落とした。その、美しさと言ったら。隣に座るのが、竹内と認識していたのだ。
その人は読書を始めると、基本的に読み終わるまでは顔を上げない。一冊読み終えるまでに、大体二時間。本当ならばもう少し早く読み終えられるのを竹内は知っていたが、その人は小説を読む時はじっくり読むのだ。それが例え何回目に開く本であったとしても。
読書中のその人は、例え爆撃が怒っていても気にせず読むような。そう言う性質の人だ。そして焼け野原になった周囲を見て「あら、面白いの」と呟く。そうした人だ。
だからこそ、気に留めて貰えたのが純粋に嬉しい。
竹内はその日、上司に言われて山垣なる人物にとある頼み事をしに出向いていた。だが、あえなく断られる。その帰り道に予報に無かった雨に降られ、雨宿りにこの喫茶店に立ち寄ったという次第だ。
勿論、この深謀智略の雨雅が何かの布石にその頼み事を武林にさせる為にわざわざここに立ち寄った可能性も、否定は出来ない。
竹内にその思惑を読み取る事は出来なかった。しかし、それでいい。
竹内は既にその雨雅の策の手足になって良いと、そこまでの信仰心に近いものを抱いていたのだ。
愛とは。恋とは。一体何なのだろうか。
目の前の雨雅は、それらの存在を否定はしない。しかして自分がそれらを誰かに向けるのは遠慮しているような人間であった。――もしかしたら、その青と紫の瞳を持つ何某かが忘れられないだけかもしれないが。
だが、雨雅に忘れられない人が居たとしても、竹内は雨雅を好いているのは事実であった。ならば、この五臓六腑を吐き出して尚表現しきれないその衝動を、どうやって示せばよいのだろうか。
この静かな喫茶店には、実に似合わない物騒なことをしても、きっと、足りない。
誰だかの小説に「好きな物は咒うか殺すか争うかしなければならない」と書いてあった。ああ、竹内は諸手を挙げて賛成したい気分だった。そうなのだ。そうしたって構わないほど参っているのだ。
竹内はどちらかと言うとそうした読経も無ければ腕っぷしが特別強いわけでもない。だが、もしも他の誰かが雨雅を想うなら……殺めてしまうかもしれない。それほど好きなのだ。
今までの経験の中で、これほどの感情に支配されたことは無かった。あまり多くない昔の付き合った人は、ハテ、何処が良かったのか……それが思い出せないでいた。一番初めの恋は中学だったか、小学だったか……
顔も、何をしたのかも、一応思い出せる。だが、雨雅を前にするとそれらが一瞬で色あせる。可笑しな話があったモノだ。雨雅が色褪せたような(外見に白か黒かの二色しか持っていないという意味で)人だと言うのに、雨雅以外が色褪せているなんて。
雨雅には好きな人が居るのだろうか。
いたら、嫉妬で狂ってしまいそうだった。雨雅の蕩けるような、可愛らしいであろう笑みを受け取るのは誰だろうか。……ああ、きっと、時折見え隠れするあの二色の瞳の男なのだろう。
聞いた事は無いが、そうした確信がある。
「……雨雅さん、あんたって本当に神出鬼没ですよね」
竹内はホットのアールグレイを飲む。……美味しいのだろうが、雨雅の淹れたそれに敵うことのない紅茶がやや哀れに思えてきた。
竹内は雨雅と会うまでは、コーヒー派だったのだ。だが、雨雅と出会ってからは紅茶を飲むようになっていた。生活に少しずつ雨雅が侵蝕している。その心地好ささえも伝えられたら良いのに、とは思う。
だが、不可能だ。
「僕、山垣さんの所へ行くって言ってましたっけ? それに雨が降るなんて聞いてませんし」
「バカめ。空を見ればそれくらいは分かる。この国の天気予報はね、二十パーセント程度は外れるのさ。もう少し少ないかも。多いかも。ともあれそれくらい。十回予報する間に二回は外すんだから、自分の直感の方を信じる方が正しいでしょうに」
――それで外れてバカを見るのは自分なれば。
雨雅がそう本を閉じた。栞を挟んだところを見るに、未だ半分程度しか読めていない。だのに本を閉じた。
何のために。
竹内と話す為に。
理解すれば、歓喜に頬が熱くなる。思わず横を見れば、雨雅はカップの中に視線を落としていた。いつもならば顔を見て話したがる雨雅にしては珍しい。
「でもこの喫茶店に入るとは限らないじゃないですか」
「雨の強さなどを計算に入れたまでだ」
「……そう、なんですか?」
それにしてもまだ少し謎が残る。別に竹内に言わずとも竹内の上司に直接言えば良い。それとも竹内の上司には言えない事なのだろうか。分からなかった。
雨雅は言う。
「夜に、桜に囚われるのも実に構わないが……火遊びは程々にしておけばいい」
「火遊び?」
その言葉に首を傾げる。雨雅と竹内には歴然たる差があり、雨雅の言葉を竹内が理解しきれない事はよくあった。
雨雅は恐らく忠告したいのだろうが、何に対しての忠告なのかが分からない。
「正直言ってね、最大の愚を犯す心算もサラサラ無いのだが、それにしたってどこか最近のキミは目に余る。――自覚していないのかい?」
「いや、何にだよ。流石に主語が曖昧なまま聞かれても知るかっての」
「皆まで言うな、の話題だから避けていたと言うのに……」
雨雅は肩を竦め、やれやれと首を振る。そして竹内を見ることなく言った。
「キミ、私の事が殺したいくらいには好きだろ」
「……あんたが死ぬかはさておいて」
「万物は流転する。ある意味合いでは死ぬ事もあるよ。一応だが。失敬な奴だなぁ」
実に的を外した返答だが……そう笑う雨雅は、言う通りに殺しても死ななそうな様子ではあった。
知られていたとは思っていなかった竹内も、雨雅の言葉で納得をしてしまった。そうだ、竹内は雨雅を完全に自分のモノとしてしまいたい程に好きなのだ。
その瞳が見るのは自分以外要らないだろう。微笑むのは竹内にのみにしてもらいたい。嗚呼、醜い。醜悪だ。
それを知られていたなんて。
「本当に、どうしてこうも上手くいかないのだろうねぇ」
「あんたでも上手くいかない事ってあるんです? 僕としてはそっちの方が意外ですよ」
竹内は雨雅の横顔を鑑賞しながら言う。事実だ。竹内からしてみれば、雨雅は完全無欠。出来ない事がないと思っていただが。
雨雅はソレを聞いてから顔を上げる。カップを磨いていたらしいマスターがその視線を受けて小さく頷いた。
白髪が交ざり、灰色にも見える髪をオールバックにした喫茶店のマスター。物語的に、実に似合っている彼は、雨雅の視線を受けては静かにコーヒーを淹れ始める。
「さて、主題から段々反れ始めているな。悪い癖だぜ? 本質を見失うのはイケナイ事だ。常々教えているだろう? 今ここで重要なのは、俺の事では無く、キミの言葉だよ」
「僕の?」
見当が付かない。
雨雅はいつだってそうして竹内に問題を投げかけるのだ。しかして、そのどれも竹内が雨雅の助けなしに正解した事は無い。
雨雅の出した問題に、雨雅の助けを必要として、そうして雨雅の満足する回答を出す。
端々まで雨雅の色に染められているようで、快感であった。だが、その快感に酔っている時間は無い。雨雅は思わぬ所で短気なのだ。
「僕の、何の言葉です」
「アタシは、」そう語る雨雅は、いつだって真面目な話をするのだ。「色々な事を知っているし、知っている事を集めて推理だって出来る。でも、それだけじゃあ足りないの」
物足りないの。
そう付け足す雨雅は退屈そうに眼を細めてカウンターに肘をついた。頬杖を右手でついて、左手で竹内に見えるように本のカバーを撫でた。書店の名前が見える。買ったばかり、なのだろうか。
雨雅は遠い過去を見ているような顔をした。
「どの世界を見渡したって、今の所<たけうち>君にしか言えない言葉なのだよ。それなりに長い間オレの傍に居る癖に、鈍感な男ね」
何かを竹内に期待しているかのような、そうした物言い。それに竹内が心の底から首を傾げれば、雨雅は溜め息を吐いた。
雨雅が溜め息。似合わない。そう思えばカバーを指先でなぞっていた動きが止まる。トントントン、と軽い動きで表紙をリズミカルに叩く雨雅は言う。
「精神的な物だけが上品なものとは言わないけれど、ここまでとなると寧ろ下品な手段に訴えたくなるわね。それとも私はそこまで神聖視されていたのかね。止め給えよ、俺はただの<悪夢>さ。現在進行形でキミを悩ます、ただの悪夢じゃあないか」
「……あんた、僕に好きって言われたいんですか……?」
何となく思い付いた事を口にすれば、雨雅はようやく僅かに苦笑を浮かべた。
「寂しいと、口にしたらいけないのかね?」
分かりにくい求愛を、辛うじて理解できたのは奇跡だと思った。
よくよくその横顔を見てみれば、確かに寂しがり屋が浮かべる表情にも感じられる。
あの雨雅が寂しいと口にする。驚天動地にも程がある。
「あんたも寂しいと思うんですね」
「一応人間だからね」
ようやく竹内を見た雨雅の顔は、確かに迷って心細い子供の顔をしていた。
コーヒーを淹れ終わったらしいマスターが、カップを二つほど差し出してはそれぞれの紅茶が入っていたカップを片付ける。
それを上品に飲む雨雅に倣って、竹内も飲めば……今まで飲んだコーヒーよりも深い味わいのソレが胸に沁みた。
「……本当なら苦いのは好まないんだけどね」
そうして目元を擦りながら笑った雨雅は、間違えようのない微笑みを浮かべた。