死んでしまった街
トーフー。トーフー。
そう言う風に聞こえると言えば聞こえるような音が笛から漏れ聞こえてくる。寒くて渇いた空気の中にこんもりと漂ってくる湯気の香り。がらがらとリヤカーを引っ張る中年男が現れる。街の豆腐屋だ。
「どう? 面白い街でしょ?」
リースがはにかみながら、フーに話しかける。
ふたりの表情は、ものの見事に正反対で、リースがどれだけにこやかな顔でフーに話しかけようが、フーは無表情のままだ。先程まではへそを曲げていたのはリースだというのにいつの間にか立場が逆転してしまった。
『あ、面白いこと考えついた』
フーの母親に会ってくれという願いを足蹴りにして、自分の興味を優先にして無理矢理彼女を街の中へと連れ出したからだ。返事をはぐらかされたのだから機嫌を曲げるのも無理はない。
フーとしては、豆腐屋のことも古ぼけたノスタルジックな街並みのことも二の次でしかないというのに。なおもリースは、嬉々として街の案内をし続ける。
「駄菓子屋、入ろっか」
見かけどおりの純粋な子供としてはしゃぐリースを、フーは濁った瞳で見つめる。どうしてこうもこのふたりは違うのだろうか。
「やぁ、いらっしゃい。今日は友達を連れてきたのかい」
駄菓子屋のど真ん中に、手回し式のレジを置いた机がどっかと置いてあり、そこに座るのが気の良さそうなお婆ちゃんの店主だ。
「そうだよ、何やってんのさ。こっち入りなよ」
リースが手招きするのを見て、仕方なしに駄菓子屋の引き戸の敷居をまたぐフー。フーはこの場所が初めてなのか、しきりにあたりを見回している。日本の指でつまめるほどの小さな箱に入った風船ガム。5円玉の形をしたチョコレート、串に刺さったするめいかの干物の酢漬け。チューブに入った果物ゼリーなど、駄菓子屋でなじみの深い品物が並ぶ店内。
リースにとって、これは見慣れた光景なのだが、フーにとっては違うらしい。
「もしかして、駄菓子屋ははじめて?」
リースがそう問いかけるとフーはそっと首を縦に振る。
「じゃあ、練ると色と味が変わる飴は?」
「知らない」
「自分で作って食べるグミも?」
「知らない」
「ちっちゃい木のスプーンで食べる変なヨーグルトも?」
「知らない」
知らないという言葉が繰り返される度に、リースの顔は驚いたような顔つきになる。
「そ、そんなの人生損してるよ!」
「知らないものは知らない」
あまりにも駄菓子屋のことを知らなさすぎるフーに対し、リースの口調は激しくなってしまう。
どうやらリースの中では、駄菓子屋というのは同年代の間で共通の認識だったのが、フーの中では違うというズレが驚きだったようだ。その驚きはやがて、リースの中でフーに対する同情に変化しつつあった。
「好きなお菓子とかはないの?」
「――ない」
「好きな食べ物や飲み物は?」
「ないよ、そんなもの」
ここまで来ると、世間知らずどころの話ではない。
フーは確かに無表情で態度も素っ気ない。しかし、好きな食べ物が何ひとつないというのは、まるで感情自体が存在していないようなものではないか。
「どうして……?」
「――知らない。知らないものは知らない」
詰め寄るリースにフーは少し顔を歪める。
リースのあまりにものしつこさに嫌気がさしたというよりは、琴線をまさぐられているような嫌悪感が、その表情からは読み取れる。
だがそれでも、リースはしつこく食い下がる。
「知らないじゃわからないよ、教えて」
「……駄目」
無表情だったのが、痛みをこらえるような表情になっており、目尻にはうっすらと涙が滲みだしてきている。どうやら、フーの感情は完全にないというわけではないらしい。そして、今にも泣きだしそうな、フーを攻めるリースの表情は、興味深々というわけではなく、むしろ真剣そのもの。
「どうして? なんで? なんで?」
「うるさいっ! どうだっていいでしょ!」
だが、そんなリースを突っぱねるため、ついにフーは怒りの感情を露わにする。
フーの感情は、むしろ起伏が激しいくらいかもしれない。だが彼女の感情からは、喜びや嬉しさなどのポジティブな部分が欠如してしまっているようだ。怒りに声を荒げ、肩を上下させて荒い息を立てるフー。
ふたりの尋常ではない様子に駄菓子屋の店主も目を丸くする。
「呼び出し人は、死者とむやみに関わっちゃいけない。わかってください! これは掟なんです! 私はあなたを連れ出して、あなたにこの身体を託す。私は……、そのための道具でしかないのです! だからっ、だから……、こんなところは早く出て行きましょう。あなたのお母さんのところへ――」
「それで、あなたはいいの?」
自分は単なる道具だというフーの発言に、リースは食ってかかる。
「じゃあ、あなたはお母さんにもう会いたくないんですかっ!」
癇癪を起したフーが、今度はリースの心の琴線をまさぐり始める。
もう死んでしまったと自分のことを述べるリースにとって、これは答えたようで表情が一変して物悲しく憂いを帯びたものになる。だがそれはすぐに渇いた微笑みに変わった。
「――会いたいけど、会っちゃいけない。それが死んだってことだと思うの」
リースのその返答に、フーは眉をしかめて口をぽかんと開ける。
彼女にはその意味が解りかねたようだ。そのままふたりは黙りこくってしまい、いつもなら子供たちの笑い声が聞こえるはずの駄菓子屋に似合わない、緊迫した空気が立ち込める。その緊張感を断ち切ったのは駄菓子屋の店主の声だった。
「ほらほら、何があったのかは知らないけど、これでも食べんしゃい」
駄菓子屋の店主が出したのは、ソースのかかった串に刺さったカツレツ。駄菓子屋の奥にあるフライヤーで揚げたものだ。駄菓子だけでなく、フライドポテトやから揚げ、串カツ、コロッケなどもこの駄菓子屋では売っており、中でもコロッケや串カツは人気の商品だ。それをただでふたりにご馳走してくれるというのだ。にもかかわらず、リースはなぜかふくれっ面を浮かべる。
「また鯨肉じゃん」
衣から透けて見える独特の赤黒い色に感づいたのだ。
「文句を言うな、こっちでは安物でも向こうでは高級なのじゃぞ」
「それはそうだけども」
不平を言いながらも結局は串カツに手を伸ばすリース。
ひと噛みすればサクサクの衣の向こうから肉汁じわりと溢れ出て、肉のうまみが口の中いっぱいに広がり、さらに噛めば、筋肉の繊維質と脂身の絶妙なバランスにより生まれる至高の食感などと形容したいが、残念ながら安い鯨肉というものはそんなものではない。衣こそ店主の腕でサクサクに仕上げられている。だが噛めば、歯は衣の中の肉の表面で地滑りを起こして、衣だけが無残にずるりと剥がれてしまう。これは鯨肉の肉質が非常に固いからだ。歯を必要以上に跳ね返し、ガムのように何度も噛まなければ小さくならず、口の中でボロボロになり、舌の上に奇妙な塊のようなものが残る。それをぐっと飲み込んだ後でも、血生臭さが口の中に残ってしまう。そんな安い鯨肉の難儀さをリースはよく知っていたため、ふくれっ面をしたのだ。
だがぶつぶつ文句を言いながらも、ぺろりと平らげてしまう。
「でも、いつもの味で美味しかったわ」
「どうも、ありがとう」
安い鯨肉であることに変わりはないものの、揚げ加減は店主の熟練の腕で絶妙だったようだ。
だが、唇に揚げ粕をくっつけてにこやかに笑うリースとは対照的に、依然としてフーの顔は晴れない。串カツにも一切手を付けずに両の手をだらりと垂れたまま、下を向いている。
「どうしたんだい、食べないのかい?」
「私は呼び出し人よ、たいていの死者はそれを口に出しただけで、私から逃げる。でも、どうしてあなたたちは逃げてくれないのですか」
「そんな暗い顔をしてる子供を無視してちゃ、子供に笑顔を与える駄菓子屋の名が廃れちまうわい」
「私は、ここの子供ではないから、あなたに笑顔とやらを与えられる謂れはありません。お気持ちは嬉しいですが、こんなもの――私は受け取れません。掟に反しますから」
「いいから食べるんだよ」
店主はしびれを切らし、掟に反すると何度も繰り返すフーの制止を押しぬけて、無理くりフーの口の中にカツを入れてしまう。そして口を閉じるとともに、舌の上にカツの表面があたる。するとにじみ出た旨みの入った脂が舌の上の味細胞の上をぬらりと這い始める。それが電気刺激となり、脳神経を駆け巡ると、やがてフーの渇いた心の中に今まで感じたことのない甘美な感覚が、頬を濡らす泉とともに湧き上がってきたのだった。
「……、……おいしい……」
「なに、初めてのことみたいに言ってんのよ」
思わずそう口走り、涙を流すフーをリースは大袈裟だと笑う。だが、その笑い顔も続くフーの言葉によって、再び驚きの表情に塗り替えられてしまった。
「……初めてだよ。本当に。私はものを食べたことがないから」
その瞬間にリースの中にある企みが浮かび上がる。
彼女は微笑み、はぐらかしていた答えをやっと出したのだった。
「――わかったわ。あたし、お母さんに会いに行ってあげる」