第五話 デザートはやっぱり桃缶?
「なあモモ」
「なんでしょう?」
「今日、泊まってくか?」
ふきんで水気を取っていた厚手の器がゴンッと鈍い音をたててテーブルに落ちる。慌ててテーブルが凹んでないか器が欠けてないかと確かめた。
「そんなあからさまに動揺されるとさすがに凹むぞ」
器を持ち上げて下を覗き込んでいた私を見下ろしていた嗣治さんが大きな溜息をついた。
「動揺したって言うか、私そんなつもりで来た訳じゃなくて。ほら、えーっとお見舞いのつもりだったんですよ、実際は勘違いでしたけど。それでですね、いきなりお泊りってのはやっぱりどうなのかなって。それと嗣治さんの心はともかく、テーブルの方は凹んでないので御心配なく」
うちの人間が詳しく調べたらきっと凹んでいると思うけど、それは内緒。
そりゃたまに思ってたんだ、私と嗣治さんって付き合っているのかなって。でも一緒にご飯を食べるというか、一方的にご飯を食べさせてもらっているのって付き合っているって言って良いのかなってちょっと疑問でもあった。ほら、世間一般のカップルさんでは女の子が彼氏さんの為にお弁当作ったりクッキー焼いたりするわけで……。
「あっ」
「なんだいきなり」
「私と嗣治さんって世間の一般的な男女とは立場が逆転してるなって」
「逆転?」
嗣治さんが洗い物を終えてこちらに体を向け、私が拭き終わった食器を片付けはじめる。
「だって普通の付き合い始めた頃のカップルって、女の子が男の子にお弁当作ったりクッキー焼いたりするのがデフォじゃないですか。だけど私と嗣治さんの場合って全くの逆で、嗣治さんがお弁当作ったりご飯作ってくれたりしてるし。あ、もちろん付き合っているとすればってことですけど」
「この状態で誰かに俺達は付き合ってない唯の飯友ですと言って信じてもらえると思うか?」
「信じませんかね」
デートとかもしたことないんだよ? それでも付き合ってる? 会うのは仕事帰りに寄るとうてつさんでのみと言っても良いぐらい。たまに商店街でお買いものしている時に会ったりしてお茶しながら喋ったりすることはあるけど、その時も大抵はちゃんとご飯食べてるか?みたいな話だし。たまたま顔を合わせた日に商店街の中のお店をひやかしたり、駅ビルの中にできた新しいお店を探検しに行こうなんていう超近場へのお出掛けはデートに含まれる?
「どう考えても無理」
「そういえば職場では彼氏どころか、モモにゃんが嫁を貰ったらしいって話になってます」
「俺が嫁か……」
「噂では飯激ウマのできた嫁だそうです」
私が嗣治さんに作ってもらったお弁当を持っていった初日にさっそくチェックが入ったんだ。そしてモモニャンにどうやら嫁が来たらしいぞって話になったわけ。まさか徹也さんが冗談めかしで言った事と同じ事を職場で言われるとは思わなかったけどね。
「しかしモモニャンってなんだ。お前の職場っていい年をした公務員の集団だろ?」
確かに五十歳を超えた所長に初めて『モモニャン』と呼ばれた時には私もさすがに衝撃を受けた。衝撃というかとにかく破壊力が半端無くて眩暈がしたくらい。だけどそれも最初のうちだけで今ではすっかりその呼び名に馴染んでしまっている。って言うか慣れてしまった。慣れって本当に凄い。
「それはきっと私がつけてるシールのせいだと」
「シール?」
「ちょっと待ってて下さいね、今、見せますから」
そう言ってソファに置いてあったカバンの中から携帯を取り出すと、その裏に貼り付けてあるシールを見せた。
「うちの職場って持ち込まれる証拠物品の数が本当に多くて。管理はシッカリしてますけど万が一自分の私物が紛れ込んでしまったら大変なことになるでしょ? だから私物にこのシールを貼って目印にしてるんです」
ピンク色の猫。ここに配属された時にそういう話が出たので作ってみたのだ。けっこう気に入ってしまって職場に持っていかないものにまで貼っている。
「なるほどね。それで?」
「それで? え、まさかシール、欲しいんですか?」
「違うって。泊まっていくかって話」
「私は明日と明後日がお休みですけど、嗣治さんは明日も仕事でしょ?」
「モモと違って職場はすぐそこだしゆっくり出られるから問題ない」
「お泊りの道具、なにも持ってません」
「大体のものは俺んちで揃うだろ」
「……洗濯とか」
「それも出来る。一緒に洗うのが嫌だって言うなら分けても良い」
何を言っても断る口実にはなりそうにない。
「もしかして、泊まっていって欲しいとか?」
「だからそう言ってるだろ」
「いえ、泊まっていくか?と質問されただけです。あの場合は私が泊まらないという選択肢もあるような感じでしたけど、今はそれが全く無い気がします」
「まったく警察関係者っていうのは皆そんな揚げ足取りをするのか?」
ちょっと嫌そうな顔をされてしまった。私は事実を言ったまでなんだけどなー、なんでそんな嫌そうな顔をするのかなー。
「だって泊まっていくかと尋ねられて、そこで泊まるって即答したら図々しい女とか軽い女とか思われませんか? 京都のぶぶ漬け伝説のこともあるわけですし。あ、別に勿体ぶっているわけではなくて」
「俺は京都の人間じゃないし、桃香に泊まっていって欲しいだけだ」
「そうなんですか……」
ふむ、と考え込む。
「よし、決まりだな」
「え? まだ何も言ってませんけど」
「顔が泊まりますって顔になった」
「どんな顔」
「泊まりたくないのか?」
「そんなことありません、お泊りしたいです」
だろ?って顔をする嗣治さん。
「なら問題ないだろ? 今夜は寝かさないから覚悟しろよ?」
「え?」
「なに顔を赤くしてるんだ。ちゃんとした食生活を送る為のレクチャーをするんだよ。いい加減に子供みたいな食生活は改めないと体を壊すからな」
「ああ、そっちで寝かさない、ね」
「なにやらしいこと考えてるんだ」
「考えてませんよ、そんなこと」
嘘です、思いっきり考えました。あんなことやこんなこと、ちょっと人様には言えないような光景が頭をよぎっちゃいました。これはきっと最近読んだ恋愛ものの小説のせい。普段の私の頭の中はDNAの塩基配列とかそういう記号めいたものしかありません。
「でも顔が赤い」
「うるさいです、そんなこと言うなら帰ります」
「可愛いなあ、モモにゃん。あ、そうだ、デザートの桃、今から食べるか」
「桃缶ですか、いいですねー」
嗣治さんはお皿を仕舞い終えると私の手にあったふきんを取り上げてシンクに放り込んだ。そして私を何故か猫つかみしてリビングへ連行。
「桃缶はあっちですよ? それに猫つかみはやめて下さい」
「誰が桃缶を食べるって言ったんだ、さっき改めて完食って言ったの忘れたのか?」
「え?」
「ん?」
「寝かさないのは食生活のレクチャー……」
「それはゆっくりとベッドの中でな」
「は?」
「先に言っておくか、ご馳走様♪」
「へ?」
いや、それより猫つかみ解除をお願いしたいんですが。
「ああ、男女立場が逆転ってことは、桃香が俺を食うのか」
「まさか私に嗣治さんをお姫様抱っこしろとか言いませんよね?」
「出来るのか?」
「無理です」
「だよな」
そう言うと嗣治さんは笑いながらキスをしてくれて、私のことをちゃんとお姫様抱っこして運んでくれた。もうちょっと重くても良いかもな? それは余計なお世話ですっ!