第五十話 慣れない日常と七海ちゃん
「……」
「どうした、モモ」
その声に顔を上げると、仕事に行く準備をしていた筈の嗣治さんが私のことをジッと見詰めていた。私はと言うと普段よりちょっと遅めの朝ご飯を食べているところ。
「ん? なんでもないけど何で?」
「もしかしてお腹が痛いとかじゃないよな?」
「それは全然だよ。まだ陣痛が来るにはいくらなんでも早いから」
「なら良いんだがじゃあ何でそんな顔してるんだ?」
「どんな顔?」
「そんな顔」
そう言って人差し指が眉間にピタリと当てられて軽くグリグリされる。ん? なに? もうツボ押しは結構だよってかそんな場所に妊娠に関係するツボなんてあっかな?
実のところ嗣治さん、台湾でツボ押しをしてもらってから何気にツボに興味津々らしい。特に肩凝りとか腰痛とか。考えてみれば板さんという仕事は基本立ち仕事で私みたいに椅子に座ることなんて休憩時間以外は皆無だし腰痛になったら深刻だものね。だけど実験台にされる私としてはちょっとありがた迷惑なところもあるんだ。もちろん今はお腹に赤ちゃんもいるから無茶な実験はされてないけど。で、今は私の眉間をグリグリ、んー? どうやらツボ押しをしているわけじゃなさそう。
「?」
「しわになってる。痛くないなら何か心配事か?」
しわ? そんなに難しい顔してたかな私。嗣治さんが思っているような深刻なことを考えていたわけじゃないんだけどな。とにかくちゃんと話さないと話すまで尋問されるからここはさっさとゲロっておく方が良いかもしれない。ゲロだって。芦田さん語になっちゃった。
「なんかね、慣れないの」
「慣れない?」
「ほら、こんな風に長い期間のお休みなんて初めてでしょ? なんだかさぼってるみたいで落ち着かない」
そんな私の言葉に嗣治さんは腕時計をはめていた手を止めて苦笑いをしながら溜息をついた。
「普段は食べるより寝てたいって言ってるくせに。いざ休みになると落ち着かないとか困ったもんだな、まだ二週間も経ってないんだぞ」
「だって本当に落ち着かないんだもん。自宅で仕事が出来る職種なら良かったのになあって思ってるところ」
「在宅で仕事なんてとんでもない。そんなことになったらモモのことだから食事することも忘れて一日中仕事漬けになるだろ」
「そんな仕事中毒じゃないよ私……」
「いやいやいやいや」
嗣治さんは首を振りながら寝室に行ってしまう。ちょっと嗣治さん、その態度って何気に酷くない? そこまで仕事中毒じゃないよとブツブツ言いながら春キャベツで作ったポタージュスープをグリグリかき混ぜていると、出勤の準備完了な状態の嗣治さんが戻ってきた。
「それで? 今日の予定は?」
それは私が産休に入ってからお決まりになった出掛ける前の嗣治さんのセリフ。この朝のやり取りは以前の何食べた?が復活したみたいでちょっと楽しいかな。だって少なくとも猫掴みされる心配はないから安心して答えられるものね。
「特にないよ。お掃除して洗濯して、それから読みかけの本の続きを読むぐらいかな。気が向いたらお散歩に出掛けるかも」
「散歩に出かけるのは良いがあまり遠くに行くなよ。予定日まであと一ヶ月もないんだから」
「うん、分かってる」
大きくなったお腹じゃそんなに遠くまでお散歩する気にもなれないし、商店街の中を歩いていると誰かしらに声をかけられてそこで座ってお喋りをするのが最近の定番になっている。どちらかと言えば歩くのが目的と言うよりも気晴らしみたいな感じかな。
「遅くなっても良いからちゃんと用意しておいた昼飯は食べろよ」
「分かってるー。私のことより嗣治さん、早く行かないと仕込みの時間が無くなっちゃうよ」
「大丈夫だよ。ここ暫くは徹也さんの親父さんも来てくれているから」
「自分がしなきゃいけない仕事を人任せにしちゃいけませんー」
「はいはい。モモは本当に仕事の鬼だな」
全国を旅行して回っていた徹也さんの御両親が戻って来たのは確か去年の暮近くだったかな。そのお二人がお店を手伝ってくれるようになったから籐子さんや嗣治さんのお休みもちょっと増えた感じになっているらしい。最初は気が付かなかったんだ、とうてつで働いている人が新しく入ってきたバイト君やパートさん以外に増えていたこと。いつだったか仕事帰りにお店に寄った時に嗣治さんの代わりに私にご飯を出してくれた見知らぬ板前さんがいて、それが徹也さんのお父さんでそこで初めて徹也さんのお父さんがお店をお手伝いしているってことに気が付いた。食べながら親子二人のやり取りを何気なく聞いていると、千堂のお父さん程じゃないけどちょっとツンデレってぽい? そんな感じのお父さんだ。
「だって手が変わると味が変わっちゃったりしないの?」
「そういうところはちゃんと手順が決まっているから変わるにしても普通なら分からない程度だな」
「ふーん」
「だからって調べようだなんて思うなよ?」
「何も言ってないじゃん」
「以前に持ち帰ってきた孝子茶を職場に持って行って調べただろ」
「ああ、あれね。未だに未解決事件だよ、あれ」
いつだったかトムトムで飲んだ孝子ちゃんのお茶。普通の手順で煎れているのに何故か苦くなっちゃうという謎の飲み物で、その謎が気になってこっそりと持ち帰ったことがあるんだ。で、職場に持って行って成分検査してみたんだけど結果は普通のお茶の成分しか検出されなかったし、同じ材料を揃えて同じ手順で煎れても苦くならないし。もう孝子ちゃんがこっそり魔法をかけたんじゃないの?って言うしかないまさにお手上げ状態。今ではこっそり科捜研の未解決事件の一つになっている。
「美味しさを科学するってのもなかなか面白そうなテーマなんだけどな。あ、産休の間はそれやってみようかな」
「却下」
「えー……」
「だいたい赤ん坊が産まれたらそんなことしている時間は無いだろ」
「だから生まれるまで」
「却下。そんなことしたら台所に立ち入り禁止にするぞ? 元気なのは結構なことだが産休の意味、ちゃんと考えろ」
ちょっとだけ嗣治さんの顔がこわいものになる。
「ぶう……」
「ぶうじゃない。俺は本気だからな」
「……」
「モモ、返事」
「分かりましたあ。せっかくお料理について私の得意分野からアプローチして造詣を深めようと思ったけど諦めますう」
めちゃくちゃ不本意が丸分かりな口調で返事をすると嗣治さんは仕方ないやつだなあと笑いながら出掛けていった。もちろん、こっそり俺に隠れてコソコソとやろうだなんて思うなよ?って言い残して。完全に読まれちゃってるよ……。
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「桃香ちゃんは本当に元気だもんね。嗣治お兄さんが心配するのも分かる気がするよ」
私の愚痴を聞いて笑ったのは七海ちゃん。急にアイスが食べたくなったからコンビニまで行ったら久し振りに顔を合わせたので家に御招待したのだ。ここに七海ちゃんが来るのは初めてで新しい家に興味津々って感じ。特に子供部屋に予定している部屋に入ると可愛いを連呼しながらあれこれ楽しそうに見ていた。更には我が家にももう一人ぐらい赤ちゃん来ないかなぁって何気に怖い発言をするし。課長さん御夫妻、そのうち七海ちゃんから妹か弟が欲しい発言されて慌てることになったりして。
「そうかなあ……」
「そうだよ。私の時はどうだったか知らないけど、智之の時はうちのママちゃん、お腹が重たくて出産前からひーひーふーふー言ってたよ? 夜がちゃんと寝られなくて産まれるまでお昼寝ばっかしていた記憶があるかな」
「そうなの? 私、そこまで感じてないよ。お医者さんでは標準的な赤ちゃんだねって言われてるけど。もしかして智之君は大きかったの?」
その質問にどうだったかなあと考え込む七海ちゃん。今の智之君は見た感じそれほど大柄ってこともないよね、元気いっぱいでよく走り回っているのは見掛けるけどさ。
「小さく産んで大きく育てるのが理想だよねってママちゃんが言ってたから、もしかして赤ちゃんの時は大きかったのかも。今は特に大きいってわけじゃないけどね」
「へえ……もしかして男の子と女の子じゃ違うのかなあ」
「どうなんだろ。だけど産む時は私の時も智之の時もスッポーンって感じだったって言ってた」
「スッ……」
思わず吹き出してしまった。奥さんらしい言葉かも。
「よくさ、出産は大変って聞くけどうちのママちゃんの発言を聞いていると物凄く軽いんだよね、一体どっちが正しいのか悩んじゃうよ」
あ、もちろん私は受験生だし当分そんなことないけどねって付け加えている。まあ赤ちゃんが当分先なのは分かっているけど七海ちゃん、何やら彼氏さんらしき人ができたって話をチラッと耳にしたんだけど私の記憶違い?って尋ねたら顔を真っ赤にして首をブンブン横に振るのが可愛いよね。そんなに激しく振ったら頭がクラクラしない?
「えー? 私の聞き間違いなのかなあ」
「桃香ちゃん、それ、誰から聞いたの?!」
めちゃくちゃ動揺しているよ。ってことは聞き間違いでも記憶違いでも勘違いでもなく、それなりに真実に近いってことなのかな?
「え? 情報源は明かせません、守秘義務があります」
「わ、何もそんなところで仕事モードにならなくったって良いじゃない」
「ダメダメ、そんなこと言っても明かせないものは明かせないの。で?」
「尋問だあ……」
「さっさとはいちゃった方が気持ちも楽になるよ?」
「桃香ちゃん、それ違う」
七海ちゃん曰くその人はトムトムさんでバイトしている人で、そこでお友達とお勉強会をしていた時に物理を教えてもらったのが御縁で受験勉強を見てもらうことになったお兄さんってことなんだけど、その口ぶりからして七海ちゃんがそれ以上の感情を抱きつつあるなってのは感じられるわけで。これはもしかしてもしかする?な感じ? なんだかニヤニヤが止まらない。私と嗣治さんが付き合いだした時もこんな風に誰かに噂されていたのかなって考えると、ちょっと恥ずかしいんだけどね。
「それなりに年上なんだね。ああ、だけど私と嗣治さんぐらいの年の差なのか。全然有りだよね」
「だからー、そんなんじゃないんだってば!!」
「はいはい。そう言うことにしておいてあげます」
「桃香ちゃん、言うことがうちのママちゃんと似てきたよ……」
何だか楽しみなことが一つ増えたと喜んでいる私の前で七海ちゃんがぼやいた。
そして出産の始まりを知らせるおしるしが来たのはそれから二週間後のこと。さすがに七海ちゃんのお母さんみたいにスッポーンなことにはならなかったよ、うん。