第四十八話 桃の節句と薄焼き玉子
「……こ、焦げた……」
菜箸で持ち上げた薄焼き玉子の裏側が茶色くなっているのを確認してガックリする。うーむ、嗣治さんが焼くみたいに綺麗な玉子色には程遠い。やっぱり砂糖を入れすぎたのかそれともまだ火加減が強いのか、三枚連続で裏側が茶色い薄焼き玉子が焼き上がってしまった。
「どうだモモ、出来るようになったか?」
嗣治さんがカウンター越しに私の手元を覗き込んできた。お箸で持ち上げた玉子を嗣治さんの目の前に差し出した私の顔はきっと情けない表情をしていたに違いない。
「ふむ、もう少し火を弱くしないと駄目だな」
「でも弱すぎると固まらないし」
「だけど最初に比べたら上達したじゃないか」
薄焼き玉子焼き暦半日。生まれて初めて作った薄焼き玉子は見事に少し甘めのスクランブルエッグになってしまった。それに比べたらこうやって菜箸で持ち上げることが出来るまでになったのだから、焦げてはいるものの多少は上達しているんだと思う、多分。
で、どうして私がガスレンジの前に椅子まで引っ張り込んで半日もキッチンで頑張っているかと言うと、この薄焼き玉子を雛祭り用のちらし寿司に使う予定だから。嗣治さんにお寿司を作るなら私も何かやるって言った結果、薄焼き玉子を焼く係に任命されたんだけどよりによって私に薄焼き玉子を焼けとか嗣治さんもかなり思い切ったことを考えたものだよね。
「お砂糖、もう少し減らした方が良い? その方が焦げにくいんだよね?」
「だけどモモは甘い玉子焼きが良いんだろ?」
「うん。だけどさ、ちらし寿司に茶色い錦糸玉子も変だし」
しかも、薄焼き玉子を焼いただけで私の任務が終了って訳じゃなくてこれを錦糸玉子並みに細く切るところまでが私のお仕事。とにかく玉子を用意しないとちらし寿司作りが始まらないから私としては結構なプレッシャーではあるんだ。カウンターの前のテーブルにはすし飯を混ぜる為の桶も用意されているし冷蔵庫の中には混ぜる具も出来上がっていて、後はご飯が炊き上がればいつでもちらし寿司づくりが開始できる……私が錦糸玉子の用意さえ終われば、だけど。
「モモ、そろそろ俺と代わるか?」
「ごめんなさい。さすがに待ちくたびれちゃった?」
「いや、そうじゃなくて。頑張っているのを途中でやめさせるのもどうかと思ったんだが、それだけ椅子に長時間座り続けたら足が浮腫んでよくないだろうから少し心配になってきた」
仕事中も作業に没頭して長時間同じ姿勢でいたりすると所長や菅原さんに注意されることがあって、玉子焼き任務を開始してからもかなりの時間が経っていた。浮腫み解消の靴下を履いてるからまだ大丈夫だけど、そろそろ腰が痛くなってきちゃったかもしれない。ただそれを言っちゃうと心配してあれこれ煩く言われてまだ残っている玉子焼き任務を完全に取り上げられちゃうから黙っていることにする。
「まだ大丈夫だよ、せめて一回ぐらい裏側が茶色くない薄焼き玉子を作りたい。今のままだと茶色いところがある錦糸玉子になっちゃって絶対にちらし寿司の中で異端児扱いだよ」
「別に誰かに見せるわけでもないだろ? 俺とモモしか見ないんだら良いじゃないか」
「でも写メ撮りたいもん」
「盛り付けの時に目立たないように工夫すれば問題ない。桃香はこっちで足を高くして休んでろ」
最後の言葉が命令形になってる……。
「でも……」
「今すぐ上手に焼けるようにならなくても問題ないだろ? これから先も雛祭は何度でもあるんだから上達するまでのんびりチャンレンジすれば良いじゃないか」
「そりゃそうだけどさ……」
「ほら、文句を言わずに交代。今からここは俺の陣地。モモはあっちに行ってろ」
嗣治さんがキッチンに入ってきて渋る私のことを椅子から立たせてリビングの方へと押し出した。押されて歩きながらブツブツ文句を言い続けると溜息をつかれてしまった。
「せっかくの誕生日に具合が悪くなりでもしたらどうするんだ? せっかく用意した冷蔵庫の中のケーキ、食べられないぞ」
「もし病院に行くようなことになったらケーキ持っていくもん」
「却下。ケーキは病院になんて持っていかせないから。だから食べたいんだったらそっちで休んでろ、大人しくしてないと今年の誕生日はケーキ無しだぞ」
ちなみにお誕生日のケーキはいつもの如く食べるまでは見ちゃいけないらしくて私は昨日の夜から冷蔵庫に近づくことを禁止されていた。本当なら今朝からはキッチンに入ることもダメって言われていたんだけど、それだと薄焼き玉子を焼くことが出来ないから今回は嗣治さん曰く“特別”にキッチンに入ることが許されたってわけ。その代わり冷蔵庫には『開けたらお仕置き』の大きなメモ書きが貼られていたりするんだけど。
「えー、酷いよ嗣治さん」
「酷くない」
断言口調でそう言うと、嗣治さんは私の肩に手を置いてそのまま無理やりリビングのソファへと私のことを押していって座らせた。あ、そうそう、炬燵は二月の最終日に片付けて我が家のリビングは再びソファが戻ってきてそこに座る生活に戻っている。嗣治さんはお腹が大きくなってきたんだから炬燵よりもソファの方が立ったり座ったりが楽で安心だろ?だって。確かにそれは言えてるかな。まあ炬燵に入ってゴロゴロするのも捨てがたいんだけどね。
そしてソファに座った私の前に置かれたのはニンジンジュースが入ったグラスと読みかけの本が二冊、それと足の下に置くためのクッション。私がソファに座ったところで嗣治さんが置いてくれたもの。
「嗣治さん、至れり尽くせりは嬉しいけど私としては嗣治さんが玉子を焼くところが見たい」
「それは次の機会で。今はそこでジュース飲んでのんびりしていろ」
「ニンジンジュース嫌い……」
「一週間人参三昧にするぞ?」
「……ノミマス……」
ここ暫く何故だかニンジンジュースが急に食卓に現れるようになった。仕事の帰りとうてつさんに寄ってもニンジンジュース。紫色のスムージーはどうしたの?って尋ねてみたら暫くはお休みでその代わりにニンジンジュースを飲むようにって言われ、私てきには今まで飲んでいたブルーベリーのスムージーの方が好きなんだけどなって言ってみたんだけど嗣治さんには却下されてしまった。なんでもニンジンはお肌に良いから飲むべきなんだって。そう言えばクリニックで貰った冊子の一つに妊娠線ができにくくする為に食べると良い食物の中にニンジンが含まれていたっけ。もしかして嗣治さん、あれを読んだのかな。
だけど実のところ私、ニンジンがあまり好きじゃないんだ。出来る事なら避けて通りたい食べ物の一つで、冊子を読んだ時も妊娠線については気にはなったけど頑張って食べようって気にはなれなかった。だから最初に出された時のニンジンジュースがかなりニンジンの自己主張が激しいものだったから内心では泣きそうになってた。今は最初のに比べるとリンゴの味が強くなっているのでそこまで泣きそうになることはないんだけど、やっぱり苦手。
「ところでモモ、名前はどっちにするか決まったか?っていうか、どんな飲み方なんだよ、それ」
グラスを口にしてチビチビとジュースを飲む様子を見て苦笑いをする嗣治さん。
「頑張って飲んでるんだから邪魔しないで」
「半分ぐらいはリンゴになっているから既にニンジンジュースじゃないんだけどな、それ」
「でも色が立派なニンジンだし」
「味も匂いも殆どリンゴだろ?」
「そりゃそうだけと……」
だけどニンジンが苦手な私にとっては色がニンジンなだけでも苦手なの。
「それで? 話は戻って名前の件」
「うーん、まだ迷ってる」
お腹にいる赤ちゃんが女の子だって分かったのは先週の健診の時。それまではなかなか男の子か女の子か分かる部分が見えなくて先生もどっちかしら?って明言は避けていたんだよね。だから赤ちゃんの為に用意するものは男の子でも女の子でも大丈夫なようにって黄色とかそういう色の物を買い揃えていた。だけど名前だけはそうもいかないから両方の名前の候補を幾つか考えていたんだ。それが女の子だってハッキリしたことでようやく候補が絞れて今は最終候補の二つが残っている状態。どちらも私と嗣治さんで決めたものだからどっちにしようか凄く迷っちゃうんだよね。嗣治さんは最終決定はモモがしてくれたら良いぞって言ってくれているけど、それって嬉しい反面すっごく困る。
「嗣治さんは本当にどっちでも良いの?」
「ああ、どちらも気に入ってるからな。だけどお腹の中にいるのは一人なんだから」
「もうちょっと迷ってても良い?」
「もちろん。それに、生まれたら男の子でしたってことだって絶対に無いとは言い切れないだろ?」
「いやあ、さすがにもうそれは無いと思うよ? だってエコー写真見たでしょ? ついてなかったじゃん」
ついてなかったっていうのは男の子だって証しで嗣治さんにもついているものね。
「何事にも絶対になんてことはないだろ」
「でも急に生えてくることはないと思うんだけどな……」
「見落としているってことも無いとは言えないんじゃないのか?」
なんかそんなこと言われたら心配になってきちゃった、次に健診に行った時にもう一度先生に念押しで確認してもらおう……。
そして出来上がったちらし寿司、大皿に盛りつけられたお寿司の真ん中には嗣治さんが作った錦糸玉子が散らされていて、私が焼いたものに関してはそれを囲むように散らされている。ピンク色のデンプやエビのお蔭でそれほど茶色が目立ってなくてちょっとホッとした。
「ねえ嗣治さん、来年のお雛様はこの子も一緒だよね。お雛様、飾るの楽しみだね」
「ああ、そう言えば桃香は飾ってないもんな」
「うん。だから今から選ぶのも凄く楽しみ」
「多分うちの親父とお袋が用意したいって言ってくると思うから」
「え?」
あれって私達で用意するものじゃないの?って首を傾げたら、お雛様って母方の実家、つまりは私の実家が贈る習わしらしい。だけど私には当然のことながらそういうことをしてくれる実家が無いから、嗣治さんのお父さんとお母さんがその代わりに贈るつもりでいるって話みたい。
「だけど高価なものだし申し訳ないよ」
「うちは男兄弟だろ? そういうことをしたことが無いものだから今から楽しみで仕方がないらしい。だから申し訳ないが付き合ってやってくれ」
「せめて折半ぐらいじゃダメかな?」
「モモの気が済まないっていうならそれで良いと思う。どちらにしろまだ先の話だから、その辺のことは子供が産まれてから話し合えば良いさ。ま、きっとモモが押し切られると思うけどな」
そう言って嗣治さんが笑った。
「えー?」
「だって桜子さんにだって勝てないんだ、二人がかりでくる俺の両親に勝てるわけないだろ?」
なんだか凄く説得力があり過ぎて反論が出来ないよ……。




