第四十二話 師匠も走る十二月 ③
「ね? 言った通り何ともなかったでしょ」
病院から出ると隣を歩いていた嗣治さんにそう言った。結局のところ昨日の晩は嗣治さんにしらを切りとおせなくて白状するはめに。そしてそれを籐子さんにも聞かれちゃって明日にでも病院に行ってきなさいと断固たる口調で言い渡されてしまった。
嗣治さんに言われたんだったら、でもだってと言いながら先延ばしに出来たんだろうけど、籐子さんにきっぱり言われてしまうと逃げられないって言うか。なので次の日の今日、クリニックに来て先生に診てもらったところ。何で嗣治さんまで同行するかなって不思議に思っていたら、先生からの説明が何かあった時に私が報告をごまかさないようにだって。失礼しちゃう、そんなことしないってば。……多分。
「澤山君と清香さん、これでホッと出来るよね」
そう言うと嗣治さんがちょっとだけ怖い顔をした。
「そう言う問題じゃないって籐子さんに言われただろ。モモは気の遣い方を間違えてるって」
「……ごめんなさい」
「だから怒ってるわけじゃないんだから。他人に気を遣う前に自分の体のことをもっと大事にしろってことだろ」
「ごめんなさ……」
「謝るのはもう良いから。とにかくモモにも赤ん坊にも何事も無いということがはっきりして俺も安心した。まさかモモの同僚とカノジョを捕まえてきて三枚におろすわけにはいかないからな」
「さ、三枚におろす?」
「自分の嫁と子供に害をなされて黙っている男とでも?」
嗣治さんの言葉にギョッとなる。三枚におろすってお魚をさばく時にしているあれだよね? 澤山君とカノジョさん、三枚におろされちゃうの? 最近どこかのテレビで流れていた怖い映画の流血シーンが浮かんできてスーって血の気が下がったような気がした。嗣治さん、私、なんか気分が悪くなってきたよ……。
「俺はモモほど優しくないから……って、おいモモ、大丈夫か?!」
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「せっかく何ともなくて喜んでいたのに、まさか俺の言葉で気分が悪くなるなんてな……」
気が付いたら出てきたばかりのクリニックに逆戻り。目を開けたらベッドに寝かされていて嗣治さんが心配そうに覗き込んでいた。私は気分が悪くなったことしか覚えてなかったんだけど、嗣治さんによると三枚におろすとかブツブツ言いながら倒れちゃったんだって。嗣治さんは自分が口にした言葉のせいで私が気を失っちゃったものだからこれ以上はないってぐらい落ち込んでいる。
「ごめんなさい……」
「謝るのはこっちの方だ。モモの気分が悪くなったのは俺の言った言葉のせいなんだから」
「でも、これまでは血を見ても平気だったし、こんなことで気分が悪くなったことなんてなかったんだよ」
「妊娠している時とそうでない時の違いっていうのはそういうところにも出るんだな」
自分でも予想外のことでちょっとビックリ。
「もう家に帰れる?」
「先生は今晩一晩泊まっていくようにって」
「え? 何ともないんだよね?」
「念のためだ。赤ん坊も桃香も健康優良児の太鼓判を貰っているからその点は心配ない」
「本当に?」
「ああ」
「そう……良かった。あ、嗣治さん、午後からの仕事は?」
一安心したところで壁にかかっている時計を見れば既にお昼を過ぎている。確か今日は私に付き添うからってことで午前中だけのお休みを貰っていた筈なのに。
「気を失ったままのモモを置いていくわけにはいかないだろ? ちゃんと意識が戻るまでは付き添ってろって籐子さんにも言われたし」
「知らせたの?」
「黙ってるわけにはいかないだろ? 午後から仕事には出るって言ってたんだから」
「それはそうなんだけど……もう大丈夫だから仕事に行ってくれて良いよ? あ、でもその前に……」
「ん?」
「お泊りなら、そのう、ほら、あれとかこれとか持ってきて欲しいかなあ……とか」
自分の顔の辺りで手をひらひらさせながらそう言うと嗣治さんは了解したという具合に頷いた。
「モモが寝る前に使っているものを持ってこれば良いってことだよな?」
「うん、そんな感じ。朝に使ってるものはこっちのカバンの中に入ってるから大丈夫だし。あっ」
「今度はなんだ?」
「うちの職場には?」
「安心しろ。そっちにも今日は休ませるって連絡いれておいたから。そんな顔をするな、気分がすぐれないのは昨日の事とは関係ないからって念押しはしておいたから」
「そう……」
私がお願いしたものを嗣治さんが自宅に取りに行ってくれている間にバッグに入れておいた携帯電話を取り出してメールをチェックすると、わあ、澤山君から目茶苦茶な数のメールが入ってる! あ、これは彼女の清香さんだ。二人して示し合わせたかのように交互にメールが入ってるよ……。嗣治さんはうちの所長にちゃんと話したって言ってたけど、一体、澤山君にはどんな風に伝わっているのやら。それからカノジョさんにも。これって絶対に尾びれ背びれがついて伝わってるよね……。
とにかく返事を送っておかなくちゃと、昨晩のことでは異常なしって言われたことと、午後からも休むのはそれとは関係なしに気分が少し悪いだけだから心配しないようにって返信をした。これで安心してくれると良いんだけど。
それから暫くして嗣治さんがお願いしていたメイク落としとか歯ブラシとかその他諸々のものを持ってきてくれた。それとスウェットの上下とカーディガンも。病院の中は適度な室温になっているからそんなに寒くないし、トイレに行く時に寒ければ昼間に来ていたコートを羽織っていけば良いやと思っていたのでちょっと嬉しいかも。
「明日は迎えに来るから、一人で帰ってきたりするなよ?」
「うん、分かった」
「ちゃんと大人しくしてろよ?」
「分かってるよ」
嗣治さんてば私が病院で一騒動起こすとでも考えているのかな。刑事モノや探偵モノのドラマだと刑事や主人公が入院していると決まって殺人事件が起きたりするけどそれはあくまでもドラマの中だけのことだし、幾ら私でも一晩泊りぐらいで退屈なんてしないよ。ここは個室でテレビもあるんだから一日ぐらい何もすることが無くても大人しくできる。そう言うと“いや、モモのことだから油断は出来ない”だって。本当に失礼しちゃうんだから。
「……」
「どうしたの?」
しばらくあれこれと話している途中で何とも言えない顔でこちらを見ているのに気が付いて、どうしたのかなって不思議に思って尋ねると嗣治さんはちょっと苦笑いを浮かべた。
「いやさ、桃香と別々に夜を過ごすのって久し振りだなと思って」
「ああ、もしかして結婚してからは初めてかも」
「しかも桃香が病院に一泊でとはなあ……ごめんとか言うなよ、今回は俺が悪いんだから」
「まだ何も言ってないよ」
「言いそうな顔してた。さてと、そろそろ帰るな。いつまでもここに居ると仕事に行くのが嫌になっちまう」
「うん。籐子さん達にも心配しないようにちゃんと説明しておいてね」
「分かってる」
「それとね……」
「ん?」
「私もね、寂しいよ、一人だと」
ちょっと恥ずかしかったけど自分の気持ちを言ってみる。その言葉を聞いた嗣治さんはちょっとだけ困った顔をした。あれ? 何でそんな顔をするの? 今のって単なる私の我が儘に聞こえちゃった?
「……モモ」
「なあに?」
「それって反則だぞ、不意打ちするなんて卑怯だ」
「え? 卑怯なの?」
どういう意味なのか分からなくて困惑していると嗣治さんがいきなりキスしてきた。
「嗣治さん、ここ、病院」
「そういう可愛いことをいうモモが悪い」
「えー、私が悪いの?」
「こういう時にこそ、ごめんなさいだろ」
「えー……なんか違う気がする……」
ブツブツと異議を唱える私を置いて嗣治さんは仕事に戻っていったんだけど、その日の深夜、何故かこっそりと病室に戻ってきたのは内緒……の筈。