第三話 桃香と桃缶
今日は思っていたより早く作業が終わり珍しく定時に職場を出ることが出来た。明日と明後日は休みだし、ちょっと得した気分だ。この時間からお店に顔を出したら嗣治さん驚くかな。
最近、朝の通勤時間にとうてつの前を通ると嗣治さんが立っていてお弁当を持たせてくれる。仕事が終わるのが遅いのに朝早くから起きて作ってもらうのが申し訳なくて、そんなことしないで下さいって言ったんだけど何故か聞き入れてもらえなくて。お弁当に入っているのは片手で食べられる手毬風のおむすびだったり小さな一口サイズのいなり寿司だったり様々。職場では『桃ニャン、嫁でももらったのか?』ってからかわれてちょっと恥ずかしい。
そして必ず野菜がたっぷり使われたおかずが一緒に入っていて、お米はともかく、そちらを残したりしたら物凄く怒られちゃうんだ、栄養が偏るからちゃんと食べろって。野菜ジュースじゃダメなんですか?って一度尋ねたら凄く怖い顔されたので、それ以降は聞いてない。
「こんばんはー」
お店の暖簾をくぐって顔を出すと、いつものように女将さんの籐子さんがいらっしゃいと出迎えてくれた。カウンター席の向こう側のいつもの場所に目をやるとそこには嗣治さんじゃなくて徹也さんが立っている。
「えっと、お弁当箱を返そうと思って寄ったんですけど、つぐ……千堂さんは……」
「ああ、嗣治は今日は休みだ」
「お休みですか。あの、お弁当箱を返しに行きたいんですけど……自宅への道順って教えてもらえます?」
そう言うと女将さんはレジのカウンターで簡単な地図を書いて渡してくれた。私はそのメモ書きを手に、途中でお店に寄って色々と買い込んだレジ袋を提げて嗣治さんが住んでいるマンションへと向かう。私が住んでいる所よりちょっと規模は小さめな感じ。家族向けというより単身者向けなのかな?とか考えながらオートロックのところで嗣治さんの部屋を呼び出した。
『はい?』
しばらくして声が聞こえる。あ、思ったより元気そう。
「あの、西脇です」
『……西脇?』
「えっと、西脇桃香です。お弁当箱、返しに来たんですけど……」
『……』
「あのぅ……」
『あ、悪い、上がってきてくれるか?』
ちょっと間があってから入口のドアが開いた。お休みしているのに悪かったかなあなんて今更ながらちょっと後悔しながら上がっていくと、ドアが開いていて嗣治さんが顔を出していた。
「お弁当、御馳走様でした。美味しかったです」
「そうか、それは良かった」
「あの、これ」
「?」
私が差し出したレジ袋を不思議そうに見下ろしている。
「風邪の時って何食べても美味しくないけど水分補給はしなきゃいけないから、スポーツドリンクとかゼリーとか……こんなのしか無いですけど」
「……俺、風邪ひいてないけど?」
言われてみれば風邪をひいているような感じには見えない。いたって普通だ。普通どころか元気そう。
「え、でもお店が開いてるのにお休みしてるんですよね?」
「あーそれは……定休日以外にもたまに休みがあるってやつで」
「なんだ……風邪じゃないんだ」
「心配してきてくれたのか? すまないな病気じゃなくて」
「いえいえ、そういう意味じゃなくて。でもこれ、あげます。もしかしたら本当に風邪をひく日が来るかもしれないし。じゃあ……」
レジ袋を嗣治さんの玄関先に置くと、そのまま帰ろうとした。
「せっかくだから上がっていけば? お茶ぐらい、いや、飯ぐらい食わせてやるぞ?」
「そんなつもりで来たんじゃないんで……」
「今日は早いが夕飯は?」
「まだですけど……」
「何を食べるつもりでいる?」
「えっと……特に何も考えてなくて」
うわあ、いきなり尋問タイムが始まっちゃったよ。あまり深く質問してこないでほしいなあ。今日は特に何も考えてないから家にある冷凍のパスタをチンして食べようぐらいしか思いつかないし。あ、野菜は近くのコンビニでサラダを買うよ?
「だったら食っていけばいいじゃないか。どうせ作るのは一人分も二人分も大して変わらないし。どうぞ?」
「あうぅぅ……」
お店で向き合うのと違って、男の人の住まいにいきなり上がり込むのってどうなのかなとか思うんだけど。これでも一応、私は女子ですし、女子力ないけど。あ、もしかして無さ過ぎて女として見られてないとか? うーん、なんか複雑だ。
「いまさら遠慮もないだろ、弁当作ってる仲なんだから。ほら、上がってけ」
そう言ってレジ袋を手にすると“なんでこんなに重いんだよ”と文句を言いながら奥へと行ってしまった。
「それじゃあ……お邪魔します」
もそもそと呟くようにして何となく周囲の目を気にしながら玄関に入るとドアを閉めた。自分の家とは違う匂いがして何となく不思議な感じ。
「モモ、なんでこんなに色々と買ってきたんだ?」
「えーと……」
部屋の方でそんな声がしたので靴を脱いでそちらへと行く。テーブルの上にレジ袋の中に入ったものを並べて顔をしかめている嗣治さん。
「風邪ひくと何となく冷たくて甘いものが食べたくなるって同僚が言っていたので。それでゼリーとか買ってみたんですけど。あと栄養ドリンクも」
「で、なんで桃缶まで」
「あ、これは私が好きなんでもしかしたら嗣治さんも好きかな、とか」
でも料理人さんが桃缶食べるわけないかぁ、食べるならやっぱり本物の桃だよね。
「まさかとは思うが晩飯がこれとか言わないよな」
「……そういう時もあったかな。でもほら!! 今は晩御飯は殆どとうてつさんで食べてるから桃缶なんて滅多にないよ?」
途中で怖い顔されたので慌てて付け加える。休みの時のお昼はこれを食べながら録画しておいたドラマを見てるなんて言ったら絶対に怒られるよね?
「滅多にってことはあるってことじゃないか」
「えっと、それは、その、あ、あとで桃、食べます?」
「は?」
「桃、ご飯の後にでも食べますか?」
「……いま食べるかな」
「いま? じゃあ、缶切りありま……っ」
気が付いたら嗣治さんの唇が私の唇にひっついてた。後ろに引っ繰り返りそうになった私の腰のあたりに腕が回されて引き寄せられる。
「あ、あの、なんでキス?」
唇が離れたところで息を吸いながら私のことを抱き寄せている嗣治さんを見上げた。
「だって桃を食べるかって聞いてきたじゃないか。だから先ずは味見させてもらった。完食するのはまた改めてってことで」
「それ桃違い……」
「この桃も甘くて美味いぞ?」
ペロリと唇を舐められてビクッとなった。きっと変な女だなって思われてるよね。こういう時って普通の恋愛力がある女の子ならどんな反応するんだろう。
「それは……きっと塗ってるグロスがハニーローズってやつだから、だと思いますよ?」
「まあ桃を食べるのは後にして晩飯の用意するか。いわしの梅煮を作るつもりで魚をさばいていたんだが、食べられるか?」
なんだか切り替えが早すぎてついていけない。こっちは何でキスしたんだろうって一生懸命に考えているのに嗣治さんは既にいわしのこと考えてる。もしかして私の反応が変だったからガッカリしちゃったのかな。
「私、好き嫌いはないですから」
「そりゃ結構。そこでテレビでも見て待ってな」
「手伝いますよ?」
「……」
そんな微妙な顔しなくても。
「ちゃんと何をするか指示してくれたらお手伝いくらい出来ますよ。私だって一応一人暮らし歴長いですし、それなりにちゃんと習ったりしてるし…」
「じゃあ、こっちで白和えつくる下準備、してくれるか?」
「……邪魔じゃないですよね? ほら、板前さんだから台所は俺の聖域だとか……」
「そんな頑固オヤジじゃないよ、俺は。じゃあ手順を言うから……」
そんな訳で初めて嗣治さんの家にお邪魔したっていうのに、私ったら早々に夕飯を御馳走してもらうことになったわけ。なんだか絶対に男女の役割が逆転していると思うんだけど、そう思うのは私だけなの?