第三十七話 桃香の憂鬱と水族館 side - 嗣治
桃香の妊娠が判明して三ヶ月になろうとしていた。尋常ではない睡魔以外の悪阻に苦しむこともなく、少しばかり元気すぎるマタニティライフを彼女なりに楽しんでいるようだが、そこはやはり妊婦らしく最近では何かと感情の起伏が激しくなっているような気がする。いわゆるホルモンのバランスのせいらしい。
怒りっぽくなるのではあればツンデレ親父の相手をしてきたせいかそれなりに対処のしようがあるのだが、落ち込むという桃香らしからぬ状態になるとどう接してよいのか分からない。籐子さん曰く話を黙って聞いていればそれだけで本人は満足するらしいのだが、だんまりを決め込んでしまった場合はどうすれば良いんだ?
「なあ、桃香」
「なあに?」
こちらの問いかけに気の無い返事をする桃香。さっきからテレビをつけてソファに座ってはいるが、果たして流れているバラエティ番組の内容が頭の中に入っているかどうかは疑問だ。
「最近は澤山さんと女子会しないのか?」
「澤山君は男だよ」
「そっちの澤山さんじゃなくてBlue Marrowの澤山さん」
「十月にしたばかりだよ」
つっけんどんな答えが速攻で返ってきて溜息をついた。
「十月ってもう一ヶ月は経ったぞ?」
「いいの。璃青さんはユキ君とラブラブなんだから女子会なんて興味ないの」
「そんなことないだろ? クッキー届けた時はまた女子会しようって話をしてたじゃないか」
「それはそれ、これはこれなんだから、男の嗣治さんには関係ない」
その言い草に内心で溜息をつく。澤山さんと何かあったというわけじゃない。ここで籐子さんや下の森崎さんの奥さんの名前を出して話を振っても恐らく同じ反応が返ってきただろう。つまりは今の桃香の御機嫌は超低空飛行状態ということだ。こういう時は何を話してもダメ、とにかく普段の桃香とは百八十度違う反応が返ってくる。気分が上向きなるのを待つしかない。
「桃香、何処か出かけないか?」
「お出かけ? 今から?」
「こうやって二人の休みが重なるのもなかなか無いじゃないか。気分転換も兼ねて駅向こうに出来た水族館、行ってみないか? 鏡野さんが言っていたがなかなか見応えがあるらしいぞ」
「でも、バスが出ている駅まで歩いていくの疲れる」
普段なら喜んで飛びつく筈なのに本当に真逆な反応だなこういう時は。ある意味分かりやすいと言えば分かりやすいんだが。
「ここの少し上にコミュニティバスのバス停があるじゃないか、あれのルートに水族館とプラネタリウムも入ってるんだ。知らなかったのか?」
「そうなの?」
「ああ。バスの時間も分かってる。さっさと用意して出かけよう」
「でも嗣治さん、お昼ご飯の準備してる途中なのに」
こちらを振り返った桃香が俺の手元をに目を向ける。確かに昼飯の支度の途中だった。だが今の桃香の状態だときっとどんなに怒っても宥めすかしても半分も食べないだろう。先ずはその落ち込んでいる気分を上向きにすることが先決だ、昼飯の支度が無駄になることぐらい何でもなかった。
「これは明日でも問題ない。ほら、早く用意しろ」
「……うん」
桃香はのろのろと立ち上がると寝室へと向かう。ここで憂鬱の虫と同居していても良いとなんて何にもない、外に出れば少しは気が晴れるかもしれない。用意していた昼飯の食材をタッパに入れて冷蔵庫に入れる。機嫌が上向きにならなければ夕飯になる可能性もありだが、桃香が疲れない程度に今日は出来るだけ外で過ごすつもりだった。
「本当に水族館に行きたいの?」
マンションを出て近くのバス停に向かう途中で桃香がこちらを見上げてきた。
「ああ。リニューアルしたプラネタリウムもなんだが、そっちの方は流星群を見たばかりで取り敢えずは満足しているしな」
「作り物の映像と実際に見るのとでは感動が全然違うもんね」
「そういうこと」
山手にある病院や大学、そして駅向こうの図書館やプラネタリウムなどの公共施設を結んだコースを循環しているコミュニティバスはこの辺りに住んでいる住人にとっては大事な足だ。運行時間が昼近くに集中しているので普段はなかなか使う機会が無いのだが、高齢者や主婦層には重宝がられている。
「桃香、このバスを利用すればクリニックも楽に行けるんじゃないか? 近くに止まるみたいだし」
「そうなの? だけど私は診察の時間が早いからバスが無いかも」
小さなバス停に着くと時刻表を覗き込む。なるほど、確かに早い時間帯には無いみたいだ。
「残念だな、時間さえ合えば楽できそうなのに」
「そうだね、お腹が大きくなったら勤務時間とか調整したりして利用できるようになるかな」
そう言いながら携帯を取り出して写メを撮っている。気分が低空飛行でもこういうところは桃香らしいと思う。バス停で待っているとやってきたのは小さなバス。この時間は病院からこちらに戻ってくるお年寄りが多いらしいく乗っているのは殆どが高齢者だ。このバスは市営バスとは違って運賃が百円と安い代わりに高齢者の敬老パスも使えない。それでも便利さからか利用者は多いとのことだった。
水族館前で降りると子供達の姿が目についた。どうやら周囲の緑地公園に遠足にやってきた幼稚園児達らしい。自分達の子供もこんな風に遠足に来たりするんだろうかと想像すると何となくにやけてきた。桃香も子供達を見て少し気分が和らいだのか口元に笑みを浮かべて先生に引率されてワラワラと歩いていく彼等の後ろ姿を眺めていた。
「可愛いな」
「皆がお利口だから良いけど、ちょっとしたことでカオスになりそう。先生も凄いね、きちんと統率できるなんて」
何処までも現実的な考えの桃香だった。
水族館に入るとそこは外ほど混んではいない。薄暗い施設の中に小さな水槽から大きな水槽まで様々な大きさの水槽が展示されその中には地域ごとの珍しい魚が展示されている。
「目玉は施設中央にある大水槽だって」
入口で貰ったパンフレットに目を通していた桃香が写真をこちらに見せてきた。
「凄いね、内陸でこれだけ規模の大きな水族館ってここだけみたいだよ」
「そうだろうな。大体の水族館は海の近くにあるもんな」
施設の中央にある大水槽は天井までが強化ガラスになっていて、そのフロア一面が水槽になっている。もちろん大きなマンタなどはいないがたくさんの魚が回遊していてなかなかの見物だ。
「すご~い、回遊できるぐらいの広さなんだ。あ、下に張り付いてる子もいる」
「これ、アンコウじゃないかな。で、あそこで回っている大きいのはクロマグロ、そこの下でヒラヒラしているのがヒラメ」
そんな説明をしている桃香が微妙な顔をしてこちらを見た。
「なんか嗣治さんが魚の名前を口にしていると、全部、美味しく食べられるお魚みたいに思えるよ」
「少なくともマグロとヒラメは間違いなく刺身だな、それとアンコウは鍋」
「大群で泳いでいるのはイワシ?」
「だな」
「最初に嗣治さんちに泊まった時に食べたのってこれだよね」
水族館の大水槽の前でなんて会話をしているんだろうなとお互いに顔を見合わせて笑い合う。桃香も少しは気分が良くなってきたようだ。口元に笑みを浮かべながら、これはなんて魚だろうと指で水槽の中をさしながら手前にある解説板でその魚を探している。しばらく彼女が魚の名前を調べるのに付き合っているとふいに動きを止めてこちらをチラリと見上げてきた。
「……嗣治さん」
「ん?」
「ごめんね、気を遣わせて」
「何のことだ?」
「私の気分が落ち込んでいたからわざわざ水族館に来ようって言い出したんでしょ?」
「んー……それもあるがここに来てみたいと思っていたのは本当なんだ。それにこうやって桃香とデートする機会もなかなか無いから良い機会だろ?」
そう言って桃香と手をつなぐ。普段はお互いに仕事の都合で外していることの多い結婚指輪が水槽からの光でキラリと光ったのは単なる偶然なんだろうか。
「デート?」
「そう。結婚前もなかなか出来なかったからな、誰かさんの仕事中毒のせいで」
「むー、それは私のせいじゃなくて仕事を持ち込んでくる一課の芦田さんのせいだもん」
むくれる桃香の様子を見てホッとする。どうやら普段の桃香に戻ったようだ。
「今は岸和田さんのお蔭で早くモモを手元に返してもらえるから良いけどな」
「岸和田……どうして所長の苗字を知ってるの?」
「それは男同士の秘密」
「えー、ずるいっ」
「どうしても教えて欲しいなら、代わりにモモが何かを俺にくれないとな。これって司法取引?」
「そんな取引ないよ」
「ここをくれてもいいぞ」
そう言いながら指で桃香の唇に触れた。
「嗣治さん、ここ水族館……」
「暗いから大丈夫だよ」
「えー……」
「真相を知りたくないのか?」
「……知りたい」
「だったら」
桃香は素早く左右と後ろを見て誰も自分達の方に視線を向けていないことを確認している。本当に真相が知りたいんだな、桃香らしいと言えば桃香らしい。それからこっちを見てちょっとかがむようにと俺の服を引っ張る。
そして俺がかがみこんで二人の唇が触れようとした途端に後ろで控えめな咳払い。慌てて体を起こしてお互いにわざとらしいとしか言いようの無い仕草で水槽の中を覗き込むふりをする。
「お客さん、平日でお子さんは少ないけど人目があるんだから、ほどほどにね」
人の良さそうな係員の男性が視線を外しながら俺達の後ろをゆっくりとした歩調で歩きながら囁いた。
一体いつの間に?! ここは忍者集団の集まりか?