第二十七話 食欲の秋に粉モン現る
たかはし葵さんの作品【Blue Mallowへようこそ】とのコラボ作品です。
「……」
璃青さんとの約束が目の前に迫ってきたある日の夜、嗣治さんが今日はお休みということなのでとうてつさんに立ち寄ることなく自宅マンションに戻ると、何やら一階のテナントが入るところで工事をしているようで騒がしいことになっていた。ここのマンションが建ってから空きスペースになっているところがやっと埋まるみたい。一つはここのマンションの管理もしている不動産屋さんの支店が入っていたんだけど、残りが埋まらないのは重光先生の事務所のお向かいだから気を遣ったのか、条件が色々と厳しかったんじゃないかっていうのが商店街でのもっぱらの噂だった。
「なにが入るのかな……」
そんなことを考えながら前を通り過ぎようとしたところで、中からエプロンをして大きな箱を持った奥さんが飛び出してきた。ぶつかりそうになったところでこちらに気が付いて慌てて立ち止まる。
「わっ、ごめんなさい!! 気が付かなくて!!」
「いえ、こちらこそ御免なさい。あの、ここのお店の方ですか?」
「そうなんです。三日後に開店するとかうちの旦那が言い張っていてテンヤワンヤなんですよ、もう困っちゃう」
奥さんは笑いながら箱を道路の反対側の重光事務所の前に止めてあった軽トラに放り込んだ。重光先生のところの事務所も既に閉まっているようで電気が消えて誰もいない様子。店舗の中をチラリと覗くと何だかドラマで見たような鉄板のついたテーブル席が幾つか。壁際にはお座敷席っぽいスペースもあるみたい。食べ物屋さんだってことは分かるんだけど何屋さんだろう、焼肉屋さん? いや、マンションのテナントでそれは無いか。だけど鉄板があるよね……。
「あの」
「はい?」
「私、実はここのマンションの住人なんですけど、こちらは何屋さんでしょうか……」
「ああ、そうだったんですか? ……あ、もしかして505号室の千堂さん?」
「え、はい、どうして?」
「今日ね、お引越しの御挨拶に伺ったんですけど千堂さんだけお留守だったものだから。初めて見る顔だし、もしかしたらって」
奥さんはニッコリと笑った。
「あ、私は店のすぐ上の203号室に引っ越してきた森崎です、初めまして」
「ああ、そうだったんですか。こちらこそ初めまして。うちは旦那さんも私も仕事で不在にしていることが多くて」
そう言いながら内心では首を傾げていた。あれ? 確か嗣治さん今日はお休みだった筈なんだけど。もしかしてお買い物でも出ていたのかな?
「そうなんですね。あ、そうだ、お引越しの御挨拶にってお渡ししようと思っていた粗品があるんですけど、今、時間あります?」
「帰ってきたところなので上がりますけど」
「だったら途中下車でうちに寄っていただけます? お持ちしたら良いんですけど今はそれどころじゃなくて」
お店の方に手を振ってから苦笑いする。お店の中からはなにやら男の人の苛立った声が聞こえてくる。どうやら声の主が旦那さんらしい。
「本当に三日後に開店なんですか?」
「ええ。その日がいい日だからって聞かないんですよ。今の時代にゲン担ぎなんておかしな人でしょ?」
「いえ、そういうのも大切かなあとか思ったりしますよ。この辺りは信心深い人も多いし」
「あ、それって近所にある氏神様のことですよね? 不動産屋さんにも一段落したら御挨拶に行くと宜しいですよって言われました」
森崎さんの奥さんはお店の方に走っていくとちょっと家に戻ってくると旦那さんに声をかけてからこちらに足早に戻ってきた。
「早くいきましょう、グズグズしていると余計な用事を言いつけられちゃうから」
悪戯っぽく笑うとエントランスへと逃げるように走っていくので私も慌てて後を追った。なんだかお店の方から怒鳴り声が聞こえたような気がしたのは気のせいだと思いたい。
「良かったんですか? 旦那さんほったらかしにしちゃって」
「もうね、朝からずっとなんで私も息抜きがしたくて。千堂さんが声をかけてくれて良かったですよ」
「でも何だか……」
怒ってましたよ?と続けると手をヒラヒラさせながら笑っている。
「怒鳴らせておけば良いんですよ。黙っていたら死んじゃう人だから」
「それって回遊魚……」
「それですそれ。ジッとしていたら死ぬとか本気で言ってますからね、うちの人。そんな感じですから怒鳴っているのを目撃しても御心配なく」
御心配なくと言われても……。まだ顔は見てないけど声は超怖そうだったよ、ちょっと会うのが怖いかもしれない。2階でエレベーターを降りると森崎さんはエプロンのポケットから鍵を取り出した。
「ちょっと待ってて下さいね、直ぐに戻りますから」
カギを開けると玄関先に置いてあったらしい大きな縫いぐるみをドアのところに置いて中に入っていく。これってドアストッパーの代わりだよね? なるほど、こういう感じで使うのもアリなのかと感心しながらドアに挟まれている牛さん(多分)の縫いぐるみを見下ろした。ちょっと手で触れてみるとなかなか硬くてしっかりしている。普通のドアストッパーは玄関ドアに標準装備されているけど、こういうのを使うのもお洒落だな。そんなことを考えていると奥さんが戻ってきた。
「お待たせです。あ、それ可愛いでしょ? ちゃんとドアストッパーとして売られていたんですよ」
「そうなんですか?」
「ええ。だからしっかり綿が詰まっていて硬くてふにゃふにゃしてないでしょ?」
「可愛いですね、こういうの」
「家具を扱っている雑貨屋さんにならあるんじゃないかな。私は前の家の近くで買ったんだけど」
「へえ……」
あ、もしかして璃青さんのお店でもこういうの扱っているのかな? 一度聞いてみよう。そして戻ってきた奥さんは可愛い紙袋を手にしている。
「これもそのお店で買ったんですけどね。ガーゼ地のタオルとハンカチ、使ってくれると嬉しいな」
「わあ、有難うございます。ガーゼの柔らかい感触が大好きなんですよ私」
「良かった。じゃあ改めて下のお店ともどもヨロシクお願いします」
奥さんはそう言って頭を下げると嬉しそうに笑った。
「あ、そうだ」
「?」
「下のお店、開店は三日後なんですよね?」
「旦那の血圧が急上昇して倒れない限りはね」
「その日のお昼、伺っても良いですか? お友達とお昼食べようって約束はしたんですけど何処に行くかまだ決めてなくて。あ、その友達も商店街に住んでいるので近くなんです」
「本当に? じゃあ何が何でも三日後にはオープンしないとね」
さあ、もうちょっと頑張ってきますね♪と気合をいれながら森崎さんは階段を降りて行った。私はそんな彼女を見送ってからエレベーターに乗る。お好み焼きなんて食べるの久しぶりだなあ、なんだか凄く楽しみだ。あ、璃青さん、お好み焼き、嫌いじゃないよね?! 家に帰ったらメールして確認しておかなくちゃ!
玄関に入ると何処かで嗅いだ覚えのある匂いが漂ってきた。こ、これってもしかして松茸ちゃんですか?!
「ただいま~~」
キッチンを覗くといつものように嗣治さんがご飯を作っていた。
「おかえり」
「嗣治さん、なんだか高級な匂いがしてるけど」
「残念でした、いくら俺でもそんな高級なものは買えません。松茸ご飯の素です」
「ガーン」
とは言え、松茸は松茸なんだから。
「ちょっと璃青さんにメールしてても良い?」
「大丈夫だ。モモが帰ってきてから秋刀魚を焼こうと思っていたから」
「じゃあメールしてくるね」
そう言えば去年の今頃は初めて嗣治さんのお父さんに戻り鰹の角煮を食べさせてもらったんだっけ。そう考えると時間が経つのも早いなあ……。あ、メールメールと。ベッドに座ると璃青さん宛にメールを打つ。女子会の日のお昼、マンションの下にオープンするお好み焼き屋さんはどうですか? んー……色気なさすぎかな? メールを送ってからちょっと心配になった。璃青さん、もっとお洒落なお店の方が良いかな? 駅ビルにあるカフェとか? 駅向こうのレストランとか? そんなことを考えているとメールが返ってきた。
『あ、いいですねぇ! お好み焼き、久しぶりなんですよ♪ 是非そこにしましょう!!』
良かった、粉モンはちょっと~とか言われたらどうしようかと思ったよ。安心してじゃあ決まりですね、楽しみにしてますと返信して携帯をベッド脇に置くと部屋着に着替えてキッチンへと戻った。
「ねえ、嗣治さん、下のテナントにお好み焼き屋さんが入るんだって知ってた?」
キッチンに入ると焼いた秋刀魚用のお皿を食器棚から出してシンクの横に置き、大根とおろし金を手にテーブルの方へと回り込んでスツールに座る。こういう時に対面式キッチンって便利だよね。
「そう言えば昼間から下で何やら作業してたな」
「ここの2階にお引越ししてきた森崎さんってお宅なんだけど、そこのお店なんだって」
「へえ……ってことは、璃青さんとの昼飯はそこにするつもりか」
「げっ、なんで分かったの?!」
「そんな顔してた」
「どんな顔……」
そんなに私って単純な思考してる? そんなことを考えてちょっと落ち込んでいたら、ちゃんと食べて感想を聞かせろよと嗣治さんが言った。