第十三話 やっぱり嫁は桃香
プクプクと鼻の下までお湯につかりながら少しばかり悶々とする。逃げ出すことも無かったかなあとか、もっと女子力ある人ならあの場でもっと上手に気の利いた一言でも返せたのかなあとか。ブクブク……つくづく私って女子力皆無っていうかコミュニケーション能力が絶望的に足りない気がする。
お風呂場の向こうに置いてある携帯電話が鳴っているようだけど後でかけ直せば良いやと聞こえない振りをする。お気に入りの入浴剤の香りに包まれてのんびりとお湯に浸かっていると今度はドアチャイムの音がした。しかも連打してる。
「ゲームみたいに連打しても何も出ませんよお……」
そんな私の呟きが聞こえたのか忙しない連打がやんだ。その代わりドアの鍵がガチャリと外される音。げっ!! 合鍵を渡している人がいたの忘れてた!!
「モモ?!」
「つ、嗣治さん、私、お風呂中なんですってば!!」
女子力無くても仮にも年頃の乙女……乙女ってほど若くないけど、とにかく人の家にいきなり上がりこむのもどうかと思いますよ? そりゃ合鍵を渡したのは私だけど。お風呂場のドアが開いたので思わずギャーとか言って手にした風呂桶を投げつけてしまった。パコンッてやけに軽い音がお風呂場に響き渡ったのは言うまでもない。
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「まさか命中するとは思わなくて……痛かったですよね」
「至近距離であんなもの投げたら普通は外さないし避けられないぞ」
私の投げた風呂桶は嗣治さんの額ど真ん中に命中していた。とにかく冷え〇タを当てて冷やしてもらっているけど明日には腫れちゃってるかもしれない。お客さんの前に立つのに申し訳ないことしちゃったよ。
「ごめんなさい……」
「まあ風呂場に踏み込んだ俺も悪かったんだから気にするな」
それからアレ?と今更ながら未だ閉店時間じゃないことに気がついた。
「嗣治さん、お店は?」
「あんな風に飛び出していったモモを放ってはおけないだろ。ちゃんと籐子さんにも徹也さんにもことわって早引きしてきた」
嗣治さんは溜息をついた。
「まさか逃げ出すとは思ってなかったからちょっとショックだったんだがな」
「ごめんなさい。ああいう時に気の利いた返しが出来れば良いんだけれど、私、そういう能力が皆無みたいで……」
「嫁に来てくれって言えば良かったじゃないか」
「いくら立場が逆転していてもそれって何か違うと思う」
「俺と一緒になりたくないのか?」
「そうじゃなくて、私にだって一応は憧れのシチュエーションみたいなのがあって、あそこで軽いノリみたいな感じでそんなこと言うのはやっぱり違う気がする」
「ふむ……」
嗣治さんは何やら考え込んでいる。そしてしばらくしてから脱いでソファに置いていた上着を引き寄せてポケットの中から何やら取り出した。手の中に何かを握っているみたいだけどグーにしているので何かまでは分からない。何を持っているのか気になってそれを目で追ったけど嗣治さんは何も言わずに手を握りしめたまま私の方を見詰めてきた。
「じゃあ桃香」
「はい?」
「俺がモモのところに嫁に行くんじゃなくて、モモが俺のところに嫁にくるか?」
手に握っているものが何かってことは薄々気が付いていたけど、こうやって改めて言われると何だか目がウルウルしてきちゃって胸まで苦しくなってきちゃった。
「本当に、私で良いの?」
「何で今更そんな質問が出てくるんだ?」
心外だという表情でこちらを見下ろした嗣治さんは、私の手を掴むと自分の方へと引き寄せて膝の上に座らせた。
「だって今日お店に来ていた元カノさんなんて美人だしお嬢様なのに料理も上手なんでしょ? そういう人の方が良くない? 私みたいなハズレ物件女なんて貰ったらきっと嗣治さん、いつかどこかで恥ずかしい思いをするんじゃないのかな……」
「だから、モモはハズレ物件なんかじゃないから二度とそんなこと言うなって以前に言ったし、オヤジにも言われただろ?」
「でも……」
「じゃあ聞くが、モモが自分のことをハズレ物件だって言う理由はなんだ?」
そう問われて真っ先に浮かんだのは料理のことだった。
「えっと、先ずはお料理が出来ないこと」
「それに関しては問題ないだろ? 俺が教えた料理は普通に作れるんだから。マニュアル通りにしか出来ないって言うが、それすら出来ないのが料理が出来ないってことだ。だからモモは料理が出来ないわけじゃない。よし、それはクリアだな。次は?」
「家族がいないこと」
それを口にした時、私の手を握っていた嗣治さんの手の力が少しだけ強くなった。
「そればかりは俺にもどうしようもしてやれないな。だけど俺の嫁になればうちのオヤジ達がモモの家族だ。正直言って俺の嫁にならなくても家族扱いされると思うけどな。だから千堂家の人間は血がつながってはいないがモモの家族だ。だからモモに家族がいないなんてことはないんだよ。それもクリアだな。次は?」
なんだか凄く簡単に私のあげる理由を片づけてくれるんだね嗣治さん。今まで何で悩んでたのかなって気にさえなっちゃうよ。
「えっと、女子力が無いこと」
「……女子力ってなんだ女子力って。そんなもので人の値打ちが決まるのか? モモは腕利きの科捜研の研究員なんだろ? だったらそれで十分に埋め合わせが出来ているだろうが。だからそれもクリア。まったく問題無い。次は?」
えっと他に何かあるかな……。
「……気の利いたことも言えないし、人とのお付き合いとかもあまり得意じゃなくて苦手だし」
「下手に社交的過ぎたら俺が心配で仕事に手がつかない。今のままの桃香でいてくれ。他は?」
「……」
「無いな?」
「うん、思いつかないから無いんだと思う」
「だったら今あげたことは全て解決済み。つまりは桃香はハズレ物件ではない、以上。何か異論はあるか?」
「無い、です」
なんだか今の嗣治さんってうちの研究所にくる一課の人みたいだよ。絶対にNOと言わせない時の芦田さんの口調そっくり。
「だったら何も問題ないよな。桃香、俺のところに嫁に来てくれるな?」
「……うん」
「ちゃんと言ってくれ」
「嗣治さんのところにお嫁さんに行く」
答えを聞いた嗣治さんは安堵の溜息らしきものをついて私のことをギュッと抱きしめてきた。
「店を飛び出していった時は肝を冷やしたぞ。呆れられて絶対に振られたと思ったから」
「それで追いかけてきたの?」
「電話しても出ないし、これは切られたのか?と焦っちまって店を早引きして追いかけて来たんだ」
ふうっと頭の上で溜息をついている。
「そしたら当の本人は呑気に風呂に入ってるし」
「だって、あんなところでたくさんの常連さんに見世物にされてるみたいな状態で恥ずかしいに決まってるじゃない。そんなその場の軽いノリみたいな感じでお嫁さんに来てくださいも行きますもないもん」
「そうだよな、こういうのはちゃんと二人きりの時にすべきだったよな、すまない」
そこで嗣治さんは手に握っていたものを私の前に差し出してきた。ずっと握っていたせいで温かくなっている指輪。それと一緒にシルバーのチェーンも。
「仕事場でははめないって言っていたからこいつも用意したんだが。手を出して」
手を出すと嗣治さんが指輪をそっとはめてくれた。
「どうやってサイズはかったの?」
「桃香が寝ている時にこっそりと」
「え、全然気が付かなかった」
「桃香、一度寝ちまったらなかなか起きないからな」
そう言いながら笑うと、そうそうと付け加えた。
「明日から大変だぞ、しばらくは常連客達にさんざんからかわれるからな、覚悟しておけよ」
「え?! やだ、そんなの。私しばらくはお店に行くのやめる」
「何言ってるんだ、俺は一日中からかわれるんだぞ? 夜ぐらい一緒にその苦痛を味わえ」
「えー、やだあ……」
「なにがやだあだ。夫婦になったら一蓮托生だろ。苦楽を共にするのが夫婦ってもんだ」
「まだ夫婦じゃないよぉ……」
「気持ちは既に夫婦だろ」
「それ、おかしいから……」
そんな訳でそれから暫くは常連さん達に散々からかわれて身の置き場がないような状態だった。腹が立つのは、一蓮托生とか一緒に苦痛を味わえとか言っていた割には嗣治さんは全く平気な顔をしているってこと。いや、平気な顔って言うか、からかわれて逆に喜んでいるって感じ?なんだか納得いかない。
そして魚住の御両親からは式はどうするんだ?とか。桜木茶舗の御隠居さん夫婦からはお祝いに振袖を作りましょう?とか。更には籐子さんからはこっそりと二次会はここでする?と尋ねられるし、皆、気が早くて私はついて行けないよ……。