第一話 行き倒れの女と料理人
ここは松平市にある希望が丘駅前商店街――通称『ゆうYOU ミラーじゅ希望ヶ丘』。国会議員の重光 幸太郎先生の事務所があり先生の自宅のある、いわゆるお膝元というやつだ。
この商店街は実に様々な店舗が入っていて、其々に個性豊かなメンバーが揃っている上、商店街の住人達も非常に仲がいいのである。
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……めちゃくちゃお腹がすきました。
今日も残業だった。今の日本が世界で一番平和だなんて誰が言ったんだろう。公務員試験に合格して本庁の科捜研に配属されて一年、定時に帰れたことって数えるぐらい。やりがいのある仕事だし今のところ終電には間に合っているけれど、そろそろまともな時間に帰りたい……。それにしてもお腹すいたなあ。カバンの中の非常食チョコレートも底を尽いた。本当にひもじくて辛い……。
駅から自宅へと向かう途中で通る商店街もこんな時間に営業してるお店はコンビニぐらいしかなくて、駅の北側のコンビニと言えば商店街にある中央広場を少しいったところまで行かなければならない。とにかくそこまでの我慢。少なくともそこに辿り着けば、何か食べる物が手に入る。
「お腹すいたなあ……はあ……」
何だか今日はやけにコンビニまでの商店街の道のりが長く感じるよ。いや、もともと結構な長さなんだ。だけど今日は更に長く感じる。あ、もしかして本当に伸びたのかもしれないとか? この商店街はとうとう自然科学の法則まで超越した存在になったとか?
私の横をご機嫌な様子で鼻歌を歌いながら千鳥足のおじちゃんが歩いていく。いいなあ、きっとお腹いっぱいで幸せなんだよね、おじさん。その手に持っているものはなあに? もしかして家族の皆さんへのお土産のお寿司? それ、一口で良いから少し私に分けて欲しいよ……。
なんか地面がフワフワしてる。もしかして千鳥足なのはおじさんじゃなくて私? あれ、なんか目が回ってきた。もしかして何処かで気が付かないうちにお酒でも飲んだかなあ……それにしてもお腹すいたよぉ……。
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「女将、なんかここにいる」
居酒屋とうてつでそんな声がしたのは閉店時間が迫ってきた深夜近く、会計を済ませた最後の客が店の外に出ようとした時だった。どうやら人が店の前で寝ているらしい。たまにいるのだ、酔っぱらってマットを布団と間違えて寝てしまう輩が。女将の籐子さんがしかたがないわねと溜息混じりに店の外に出ていく。やれやれとそちらに目を向けながら徹也さんと共に厨房の片づけを続けた。
「ちょっとどっちか手を貸してくれないかしら?」
籐子さんがこちらに戻ってきて少し慌ててた様子で俺達に声をかけてきた。
「酔っ払いがくだ巻いてるのか?」
「そうじゃないんだけど」
「俺が行きますよ」
やれやれと厨房から出て彼女のもとへ行けばそこに倒れているのは若い女。酔っ払っているようには見えないのだが。
「奥のお座敷に運んで。私はお茶漬け用意するから」
「お茶漬け?」
何でそんなものを?という疑問が浮かんだ直後、その女の口から出た言葉『お腹すいたよぅ……』で納得したような。いまどき空腹で行き倒れって一体どうしたことか。食い物を買うにも事欠くような生活なのか? そんな風には見えないのだが。とにかく店先で寝っころがられていても迷惑千万な話なので抱き上げて店の中へ。徹也さんが心配そうな顔をして出てきたので安心するようにと頷いてみせた。
「行き倒れのようです」
「このご時世にか?」
「のようです」
「確かに顔色が悪いな、お嬢さん」
座敷へと行き倒れを運びこむと同時に籐子さんがお茶とおしぼり、そしてお茶漬けを盆にのせて運んできた。かすかに漂う磯の香に反応したのか抱いていた女のお腹が鳴った。こりゃ確かに空腹だ。
「ほら、目を開けな、お嬢さん、籐子さんが茶漬けを用意してくれた」
パチッと開いた真ん丸な目に一瞬たじろぎながら座布団に座らせてやる。目の前のテーブルには徹也さん特製の鯛茶漬け。見ず知らずの行き倒れに豪勢なことだと思いつつ、まあそれがここの流儀だと思い直した。
「……お茶漬け……白い米粒を見たの何日ぶりだろ……」
そんな言葉を耳にしておいおいと突っ込みを入れる。一体どんな生活しているんだ、この女。テーブルの前で正座してからいただきますと行儀よく手を合わせ食べ始める。最初は熱かったのかゆっくりと食べていたがそのうち食べる速度がみるみる加速。美味しいよおと泣いている……泣くほどのこともなかろうよ。しかし、いい食べっぷりだ。
「なかなかいい食べっぷりだな」
そんな彼女を眺めながらしみじみと呟くと、それまで無心に食べていた女の動きがピタリと止まった。どうやら俺が横にいる事も忘れていたようだ。
「ぎゃあ、すみませんっ、ついがっついてしまいましたっっっ」
慌てて取り繕おうとあたふたしている。行き倒れていたとはいえ一応は女、それなりに羞恥心はあるらしい。
「もっと食うか?」
「い、いえっ、そこまで厚かましいこと……」
グー……彼女の言葉に反論するようにお腹が再び鳴った。
「ひ、ひえぇぇぇぇぇ、すみませんっっ、いつもはこんなこと無いんですっ、非常食のチョコが切れちゃって、それで……とにかく、すみませんっっっっ」
「おかわり、持ってきてやるから待ってな」
面白い女だなあと笑いながら座敷を出て厨房へと戻ると片づけをしていた徹也さんが顔を上げた。
「ひもじくて倒れてたんだって?」
「らしいですよ。まだひもじそうなので、もう少し食わせてやってもよいですかね」
「そうだな、塩辛と漬物でも持って行ってやったらどうだろう」
「すみません」
なんで俺が謝るんだ? 心の中でぼやきながら塩辛と糠漬け等を器にのせる。横から籐子さんがご飯の入った茶碗を差し出してきたのでありがたく受け取ると座敷へと戻った。
「閉店間際だから有り合せのものしかないが……」
「……塩辛にお漬物!! すみませんっっっっ、いただきますぅぅぅ」
「いや、だから泣くか食べるかどっちかにしろって」
「……食べます……」
ああ、そうかい。しっかり食ってくれ。しかし本当にいい食べっぷりだな、女にしては珍しい。
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「御馳走様でした、本当にありがとうございました」
しっかり食べたあと、きちんと手を合わせるとこちらに頭を下げてきた。腹に食べ物が収まったせいか最初よりもずっと顔色が良くなったようだ。その食べっぷりにばかり目がいっていたがこうやって見るとなかなか可愛らしい顔をしている。ただ食生活は大いに問題ありな女のようだが。
「あんた、こんな時間だが家はどこなんだ?」
「この商店街の北側にあるアーバン希望ヶ丘なので」
なるほど、この商店街の住人ではあったのか。
「まあなんだ、腹が減ったら倒れる前にうちの店に来い」
「ほえ?」
「またマットの上で寝られたら困るからだよ」
「あ、すみません、本当にっ。非常食を切らさないように気をつけますのでっ」
非常食ねえ……。
「ま、とにかくだ、腹が減ったら来い」
「……はい」
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お客さんがいなくなってお店を出ると女将さんが見送ってくれた。本当に申し訳ありませんでしたと何度も頭を下げると、倒れる前にうちに寄って売り上げに貢献してくれたら嬉しいわとほがらかに微笑まれてしまった。
ちらりと奥を見るとさっきの板さんが片づけをしながらこちらを見ている。何となくその目つきが不審者をみる目なのがちょっと辛い。まあマットの上で寝ていたんだからお店にとっては思いっ切り不審者なんだろうけど、ほんと、通報されなかっただけ感謝しなくちゃいけないよね。更にはご飯までご馳走になっちゃったし。
それが私こと西脇桃香と、居酒屋とうてつの板前さん千堂嗣治さんの初めての出会いだったんだな。ちょっと人様には言えない出会い方だよね、うん。