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9.ありがとう

 雨の音がして、巴は我にかえった。気が付けば、周りには自分以外誰も立っていなかった。カラン、重力に従い落ちたそれは、いつから自分の手に吸い付いていたのだろうか。目を伏せて見下ろした先に、もう終わってしまった命が見えた。もう二度と灯ることのない光。雨が鉄の匂いをかき消すも、自分の体に染みついたそれは一生涯消えることはないのだろう。

 初めて自分の心に刃が乗ったのはいつだったか。生暖かい感触を頬に感じ、その瞬間を掌に刻み、鼻につく匂いを覚え、その術を知った。呆気ない。なんとまあ、呆気ない。地球より重いらしいそれは、あまりにも呆気なく消えていく。どうでもいいものも大切なものも等しく、目を離したすきに消えてしまう。どうして、

 巴は振り向くことなくその場を去った。大丈夫、雨が全てを流してくれるから。強くなってきた雨に、思わず空を見上げた。頬を流れるのが、血なのか涙なのか雨なのか分からない。降り注ぐ雨から冷たさは感じないのに、どうしてこんなにも寒いんだろう。


――お前は女だ。


 その言葉が、嫌いだった。女であることが嫌だった。

 なのに……自分とって呪いであるはずのその言葉に、あの時の私は確かに安堵していたんだ。あの日置いてきたはずの、弱虫で愛されたかった少女。

 少女は消えてなんかいなかった。きっと、自分を愛してくれる人を待っていたのだろう。


「義仲。」


 名前を呼んでよ、気が付けば私の名前になっているそれを。ねぇ、初めてだったんだ。女に生まれて良かっただなんて思ったのは。


「私……忍べなかったや。」


 誰かが言った。忍ぶということは、忘れていないのだと。忍んでいる以上、覚えている以上、どんなに押し込めてもそれは消えないのだと。忘れようと思った数だけ覚えている。忍んだ数だけ想っている。どこまで、愚かなのか。

 そっと漏らした言葉は、雨音に消された。


「ごめんね。そして、ありがとう。」


 雨はまだ降り止まない。月は、まだ見えない。ますます強くなる雨と、ますます暗くなる空に、巴は思わずまた涙を零した。

 闇に生きて闇に殉するは忍の美学。それを鼻で笑ったお前の最期はあまりにも忍らし過ぎて。誰よりも太陽の下が似合っていたであろう義仲。誰にも看取られずに冷たくなっていく。ごめんな。お前がくれた世界の分まで、私は生きるから。奪った命の分だけ幸せになんて、なれるはずもないけれど。

 自身の手には、もう雨で流されたはずの赤が見えた。ああ、きっとこれは一生流れることのないものなんだ。背中に負った、生涯の恥よりも重いものを背中に背負う。それでもこの重さがなくなったら、私はきっと風にとばされてしまうよ。


「――さようなら。」


 お願い雨。私の罪は、洗い流さないで。



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