3.覚悟
巴の家は名のある武家で、巴はそこの長女だった。昔から聡明で賢く、加えて容姿までも美しい巴を、両親はこぞって愛で、期待した。
巴の母は体が弱く、巴を産んだ時にもう子は成せぬと言われていた。その為に巴は女ながらこの家を継ぐと思われていたのだ。巴は両親の期待に応えるかのように、武術を身に着け、学識を叩き込み、芸に磨きをかけた。その姿を見る度に、両親は嬉しそうに笑い褒める。そしてそのあと決まって、溜め息をつきながら言うのだ。男に生まれていれば――と。
両親のその言葉の意味に気づけないほど、巴は浅はかではなかった。当然大きくなるにつれ、力では男に敵わなくなるだろう。しかし、ならばと巴は兵法を学び始めた。孫子・呉子・尉繚子・六韜・三略・司馬法・李衛公問対……幼き頃から、巴は大人ですら難しい書物を読みあさった。一体休息をとっているのか分からぬほど、巴は只管に努力した。
全ては両親に認められたい、その一心で。
しかし、それも巴の弟である秀次が生まれたことにより呆気なく崩れ落ちてしまった。家を継ぐのは、長男である秀次になることになったのだ。巴の十年間もの努力は全て水の泡となり、巴は余所に嫁に行くことが決まった。しかし巴は一度も文句を言わず、泣きさえしなかった。可愛い弟を抱きながら、お前がこの家を継ぐ主となるのよ、と笑って。
けれど、巴の心がこの時すでにボロボロだったのは定かであろう。巴は何も言わずに、ただ色が変わるほど強く唇を噛んだ。たった一人の弟を恨むわけにもいかず、両親に泣き言を言うわけにもいかず、嫁になど行きたくないと我が儘を言うわけにもいかず――。
行き場を失くした巴の心は気が付けば巴自身も何処へ置いて来ればいいのか分からないままになってしまった。努力しても無駄、それでは私の今までの時間は一体なんだったのだろう?
お前は女だから。
この言葉は巴を呪いのように苦しめた。どんなに才能があって努力しようと、性別という壁のせいで自分はどんなに足掻いても弟には叶わないのだと。
それでも巴は努力を止めなかった。巴の頑張りが、両親の目にどう映っていたのかは定かではない。女でありながら、男にも負けぬようにと奮闘する我が娘。それは健気にも見え、愚かにも見えたかもしれない。両親は巴に女としての幸せを願った。だから、巴が十四になるときに名のある貴族の家に嫁がせてやろうと、縁談を設けた。
しかし、そんな両親の心にも巴は気づいていたのだ。
十四になる前夜。巴は一人で家を出た。どこぞの名も顔も知らぬ男の元に嫁ぐなど御免だ。自分の身も守れぬような脆弱な貴族の息子になど、くれてやる身も心も持ち合わせてはいない。そんな男の名前に守られる女に成り果てるくらいならば、
「さようなら。父様、母様、秀次……。」
月が明るく昇っていた。
巴は難い決心の元、長年を過ごした屋敷にお別れをした。文もなく、挨拶もない。巴は自分がそこにいたという形跡を何一つ残さなかったのだ。
屋敷を出て暫く歩き、少しして山を越えた。山のふもとの道を少しそれると、まるで隠されていたかのように大きな建物が見えた。その建物は古めかしく、今にも崩れそうなほど脆かったが、それは建前。錆びれた門を潜ればそこには立派なお屋敷に、広々とした庭が広がっている。何も知らぬものが見れば、その者は夢でも見たのではないかと驚くだろう。
しかし少女は全く動じることなく、その屋敷で自分を出迎えた人物に頭を下げた。出迎えた老人もまた、この時間に訪れてきた少女を見ても微動だにしなかった。人の良さそうな笑みのまま、ゆっくりと顔をあげれば巴と視線が合う。そしてそのまま巴に向かって小さく、短く、一つ問うた。
「名は。」
その問いに、巴は数秒の時間を置いて答えた。心も体も置いてきた。思い出も未練も、泣き言すら全部。
ここにいるのはもう、何も出来なかった少女じゃない。
「――巴。」
答えたその名に、老人がゆっくりと目を閉じた。そのまま背を向け歩き出す姿に、巴は戸惑いながらもその背中を追いかける。そっと振り返った先には何も見えない。ホーホー、と梟が鳴く音と、風が大きく吹いて森の木々が揺れた音がした。
巴は黙って顔を前に向けた。そしてそのまま真っ直ぐ老人の後を着いていく。もう振り返らないと決めた。巴は決心に満ちた顔でそう呟いた。
星明りが、不安げに揺れる行く先を照らした。着いた部屋で、巴は渡された紙にさらさらと自分の名前を書いた。その名前をもう一度自分で見直し、そして自虐的に笑った。
――もうきっと誰も私を見つけられない。
さようなら、弱虫で愛されたかった少女。私は今日より、闇に生きる忍となる。何も言わずに捨ててきた。これでもう、あの場所に私はいない。ここにいるのは変わろうとする私だけ。変化を望まぬ生活には戻らない。
「忍として生きる覚悟は。」
「……あり、ます。」
思わず震えた声を、拳を握って無理やり止めた。それは決意の証か否か。
知るは本人ばかりである。
あの時確かに誓った心。
あの時確かに捨てた心。
あの時確かに忘れた心。
女としての決められた人生、きっと華やかで煌びやかで美しかったであろう未来――全てを闇に捨て、この道を選んだ。
それは生半可な覚悟ではなく、決して揺るがぬ誓いの証。帰る場所などない。戻る場所などない。闇に生き闇に死ぬと決めた、私の覚悟。
「お前になど、分かるものか。」
巴はそう呟くと、伏せていた目をもう一度上に向けた。
空にある月は、やはり明るかった。




