命を削って領地を支えていた公爵令嬢、見向きもされなかったので家を出たら崩壊しました〜今さら後悔されても戻りません〜
視界の端で、カーテンがわずかに揺れた。
窓は閉じている。風など入るはずがない。
「……来てるのね」
小さく呟くと、空気がふわりと震えた。
——『いるよ』
誰の声でもない。けれど確かに、私にだけ届く声。
淡い光が、指先ほどの粒となって宙を舞う。
それはすぐに形を成し、小さな人のような、けれど人ではない存在へと変わった。
精霊。
昔から、私には彼らが見える。
そして——好かれている。
「今日も、来てくれたのね」
——『無理、してる』
責めるでもなく、ただ事実を告げるような声音。
私は少しだけ笑った。
「大丈夫よ。これくらい、平気」
そう言って立ち上がろうとした瞬間、視界がぐらりと揺れた。
足元が崩れる。
床に手をつく前に、体が支えられた気がした。
けれど、実際には誰もいない。
ただ、精霊たちが慌てて私の周囲を飛び回っているだけだった。
——『やめて』
——『削れてる』
——『もう、限界』
「……まだ、大丈夫」
息を整えながら、そう繰り返す。
大丈夫。
大丈夫だから。
そう言い聞かせるように。
---
私は公爵家の長女だ。
けれど、家族の中で私は——いないもののように扱われている。
嫌われているわけではない。
虐げられているわけでもない。
衣食住は十分すぎるほど整っているし、使用人たちも丁寧だ。
ただ——
「……また、部屋にこもっているのか」
扉越しに聞こえた父の声に、思わず背筋が伸びた。
「はい。少し体調が優れなくて」
「そうか」
それだけ言って、足音は遠ざかっていく。
扉は開かれない。
様子を見に来ることもない。
——心配されていないわけじゃない。
ただ、“それ以上踏み込まないだけ”。
それがこの家の距離感だった。
---
「またですか?」
廊下の向こうから、兄の声が聞こえる。
「ああ。今日も体調が悪いらしい」
「そうですか。では、父上。こちらの案件ですが——」
会話はすぐに別の話題へ移った。
私のことは、ほんの一瞬で終わる。
それが当たり前だった。
---
母は、私を産んだときに亡くなった。
誰も私を責めたりはしない。
そんなことは一度も言われたことがない。
けれど——
母に似ているらしい、私の顔を見るたびに。
ほんの一瞬だけ、父や兄の視線が揺れるのを、私は知っている。
その一瞬の躊躇いが、積み重なって——
気づけば、私は“触れづらい存在”になっていた。
---
「……今日も、外に出れなそうね」
窓辺に座り込んだまま、私は精霊に問いかける。
——『出るべき』
——『でも、無理』
「そうね……」
外の空気を吸いたいと思うことはある。
けれど、それだけで体が重くなる。
原因は分かっている。
精霊魔法。
私が使っている力。
本来なら、魔力を消費するだけのはずのそれは——
なぜか私の場合、“寿命”を削る。
理由は分からない。
ただ一つ確かなのは、使えば使うほど——確実に削れていくということ。
---
それでも私は、使い続けていた。
誰に頼まれたわけでもない。
命じられたわけでもない。
ただ——
家族が困らないように。
領地が安定するように。
気づけば、そうしていた。
---
「……今日も、少しだけ」
目を閉じる。
精霊たちが一斉にざわめいた。
——『だめ』
——『これ以上は』
——『消える』
「少しだけだから」
そう言って、私は力を引き出した。
体の奥から、何かが削り取られる感覚。
痛みはない。
ただ、確実に“減っていく”。
それでも。
領地の風が整い、
水の流れが安定し、
見えない歪みが静かに正されていくのが分かる。
それでいい。
これで、いい。
---
「……やっぱり、無理をしていますね」
ふいに、背後から声がした。
振り返ると、そこにいたのは医師の女性だった。
この屋敷に長く仕えている、数少ない“私を見る人”。
「先生……」
「立てますか?」
「ええ、なんとか」
手を借りて立ち上がると、彼女はじっと私を見つめた。
「……また、削ったのですね」
否定できなかった。
沈黙が答えになる。
「どうして、そこまでして……」
「家族に、迷惑をかけたくないんです」
それは本心だった。
父も、兄も、忙しい。
私のことで余計な手間をかけさせたくない。
ただ、それだけ。
「……お嬢様は、十分すぎるほど尽くしております」
「でも、足りないんです」
そう言うと、彼女は苦しそうに目を伏せた。
---
「このままだと——」
言いかけて、彼女は言葉を飲み込んだ。
「……ご家族には?」
「言わないでください」
即答だった。
「でも——」
「お願いします」
強く、はっきりと。
「知らなくていいんです」
誰も気づいていないなら、それでいい。
今まで通りでいい。
そう思っていた。
---
——でも。
その夜、私は気づいてしまった。
いや、気付かないふりをしていたのかもしれない。
部屋の中にあるものを、ひとつひとつ見渡して。
本棚。
机。
カーテン。
どこにも、“家族との思い出”がない。
贈り物も、写真も、何もない。
当たり前のように過ごしてきたこの部屋が——
急に、他人の部屋のように思えた。
---
「……ああ」
小さく息が漏れる。
「私、本当に……」
ひとりだったんだ。
---
嫌われていたわけじゃない。
でも、必要とされてもいない。
それなら。
「……最後くらい」
窓の外を見上げる。
夜風が、ほんの少しだけカーテンを揺らした。
「自由に、生きてもいいよね」
——『いいよ』
精霊が、優しく応えた。
---
翌朝。
私は一通の手紙を書いた。
それは“別れ”ではなく——ただの“お願い”。
そして、信頼できるメイドに託す。
「……気づくまで、黙っていてほしいの」
「お嬢様……」
「お願い」
しばらくの沈黙のあと、彼女は深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
---
荷物は、ほとんど持たなかった。
必要なものだけでいい。
この家に、未練はない。
……そう思いたかった。
---
扉を開ける。
振り返らない。
誰にも見送られないまま——
私は、公爵家を出た。
---
——その時、誰一人として。
私がいなくなったことに、気づいていなかった。
屋敷を出てから、どれくらい歩いただろう。
振り返ることは、一度もしなかった。
振り返れば、きっと戻ってしまう気がしたから。
---
朝の空気はひんやりとしていて、胸の奥が少しだけ楽になる。
……こんな空気を吸うのは、いつぶりだろう。
「……外って、こんなに広かったのね」
ぽつりと呟くと、精霊たちが楽しそうに周囲を舞った。
——『自由』
——『広い』
——『軽い』
「そうね」
足取りは決して軽くはない。
体は相変わらず重く、少し歩くだけで息が上がる。
それでも。
閉じ込められていた何かが、少しずつほどけていく感覚があった。
---
「お嬢様、無理はなさらないでください」
隣を歩く医師が、静かに声をかける。
「……ついてきてくださって、本当にいいんですか?」
「ええ。あの屋敷に残る理由もありませんから」
そう言って、彼女はわずかに微笑んだ。
「それに——お嬢様を一人にする方が、問題です」
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
誰かが、私を“気にかけている”。
それだけで、こんなにも違うものなのかと初めて知った。
---
しばらく歩いた先、小さな町に辿り着いた。
公爵領の外れ。
屋敷にいた頃には、ほとんど関わることのなかった場所。
「ここで、少し休みましょう」
「はい……」
宿に入り、簡素な部屋へ通される。
豪華ではない。
けれど、不思議と落ち着く空間だった。
---
ベッドに腰を下ろした瞬間、どっと疲れが押し寄せた。
「……やっぱり、無理をしていますね」
「少しだけです」
そう答えながらも、自分でも分かっていた。
“少し”ではない。
限界に近い。
---
それでも——
「不思議ですね」
「何がでしょうか?」
「苦しくないんです」
体は確かにきつい。
でも、心は軽かった。
「……そうですか」
医師はそれ以上何も言わなかった。
---
窓の外を見る。
人が行き交い、声が響く。
誰も、私を知らない。
誰も、私を見ない。
でも——
それが、こんなにも楽だなんて。
---
「……少し、外に出てみてもいいですか?」
「無理のない範囲でしたら」
許可を得て、ゆっくりと外へ出る。
---
町は、活気に満ちていた。
商人の呼び声。
子どもたちの笑い声。
どこかで焼かれるパンの香り。
すべてが新鮮だった。
---
そのとき。
ふわり、と風が揺れる。
精霊たちが、一斉にざわめいた。
——『薄い』
——『乱れてる』
——『危ない』
「……え?」
周囲を見回す。
見た目には、何も変わらない。
けれど——
確かに、“何か”が歪んでいる。
---
「どうされましたか?」
医師が声をかける。
「……いえ、少しだけ」
言葉を濁す。
説明しても、伝わらないかもしれない。
それに——
(もう、関係ないはずなのに)
胸の奥がざわつく。
---
——『直すの?』
精霊が問いかける。
「……」
少しだけ、迷う。
手を伸ばせば、整えられる。
ほんの少し力を使えばいいだけ。
でも。
「……やらない」
静かに首を振った。
「もう、私の役目じゃないから」
---
精霊たちは、少しだけ悲しそうに揺れた。
それでも、何も言わなかった。
---
その夜。
体調は、さらに悪化した。
ベッドに横になったまま、指先が冷たくなっていくのを感じる。
「……無理をしすぎましたね」
医師が額に手を当てる。
「少し休めば、大丈夫です」
そう言いながらも、呼吸は浅い。
---
——『削れすぎ』
精霊の声が、どこか遠くに聞こえた。
---
「……ねえ」
「はい?」
「もし、私がいなくなったら……」
「その話はしないでください」
即座に遮られる。
「まだ、終わっていません」
強い口調だった。
初めて聞く、はっきりとした拒絶。
---
少しだけ、安心した。
こんな風に言ってくれる人がいることに。
---
「……ありがとう」
そう呟いて、目を閉じる。
---
一方、その頃。
---
「……おかしいな」
公爵は、書類から顔を上げた。
「どうされましたか、父上」
兄が問いかける。
「風の流れが、少し乱れている」
「……誤差の範囲では?」
「そうかもしれんが……」
違和感。
ほんの些細なズレ。
だが——
それは確かに、今までとは違う。
---
「結界の強度も、わずかに落ちています」
別の報告が入る。
「原因は?」
「調査中です」
---
公爵は、しばらく考え込んだ。
だが。
「……優先度は低い。まずは領地内の問題を片付ける」
「承知しました」
すぐに判断は下される。
---
その決断が。
どれほど大きな“見落とし”になるのか。
この時点では、誰も気づいていなかった。
---
そして。
屋敷の中でも——
「お嬢様は、本日もお休みです」
そう報告するメイドの声に、誰も疑問を持たなかった。
「そうか」
それだけで終わる。
---
“いつも通り”。
それが、あまりにも自然だったから。
---
誰も。
本当に誰一人として。
彼女が——
もう屋敷にいないことに、気づいていなかった。
違和感は、確実に“異常”へと変わり始めていた。
---
「父上、南の森で魔物の出現数が増えています」
報告書を手にした兄の声は、いつになく硬い。
「数は?」
「通常の三倍。しかも、群れでの行動が確認されています」
「……結界はどうした」
「維持されています。ただ——」
言葉が途切れる。
「ただ?」
「強度が落ちています。外からの侵入を完全には防げていません」
---
公爵は眉をひそめた。
「原因はまだ不明か」
「はい。調査は進めていますが……決定打がありません」
---
机の上に広げられた地図。
本来なら、精密に管理されているはずの領地の均衡が、わずかに歪んでいる。
ほんの小さなズレ。
だが、それが積み重なれば——
「……気象の変化は?」
「北部で異常な乾燥が確認されています。農作物への影響も出始めています」
「南では魔物、北では干ばつか……」
同時多発的な異常。
偶然とは考えにくい。
---
「……父上」
兄が、わずかに声を落とした。
「何か、根本的な“何か”が抜け落ちている気がします」
「……ああ」
公爵も同意する。
だが、それが何なのかが分からない。
---
「結界の再調整を行え」
「すでに試みています。しかし——」
兄は悔しそうに歯を食いしばった。
「以前と同じ精度が出ません」
---
“以前と同じ”。
その言葉が、妙に引っかかった。
---
「……なぜだ」
公爵は低く呟く。
これまで、この領地は安定していた。
多少の問題はあっても、ここまで一気に崩れることはなかった。
---
まるで。
何かに支えられていたものが——
突然、消えたかのように。
---
その頃。
---
「……やっぱり、広がってる」
窓の外を見ながら、私は小さく呟いた。
町の空気は、昨日よりも明らかに乱れている。
精霊たちも落ち着かない様子で、周囲を飛び回っていた。
——『増えてる』
——『壊れてる』
——『危ない』
---
「何か感じますか?」
医師が静かに問いかける。
「はい……少しずつ、でも確実に」
領地全体に広がっている。
歪みが。
---
「……戻られますか?」
「戻りません」
即答だった。
「もう、私の役目じゃないので」
---
言葉にすると、少しだけ胸が痛んだ。
けれど、それでも——
戻る理由はなかった。
---
「ただ……」
「ただ?」
「少しだけ。そう、少しだけ、気になるだけです」
それだけ。
本当に、それだけ。
---
その日の午後。
町の広場で、小さな騒ぎが起きた。
「水が……出ない?」
井戸の前で、人々がざわついている。
「さっきまで普通だったのに」
「おかしいな……」
---
私はその様子を、少し離れた場所から見ていた。
精霊たちが、不安そうに揺れている。
——『壊れてる』
——『反動が、きてる』
——『流れが、止まってる』
---
ほんの少しだけ。
手を伸ばせば、直せる。
ほんの少しだけ、力を使えば——
---
「……」
ぎゅっと、手を握りしめる。
---
「おやめください」
医師の声が、静かに響く。
「……でも」
「……これ以上、削るべきではありません。本当に死んでしまいます」
---
確かにそうであった。
もう、限界が近い。
これ以上使えば、本当に——
---
「でも、このままではこの領地が……」
「それでいいと思います」
医師は、あっさりと言った。
「え?」
「あなたが自分を守るのは、当然のことです」
---
その言葉に、少しだけ救われた気がした。
---
一方、その頃。
---
「被害が拡大しています!」
報告が次々と積み上がる。
「北部の作物、半数が枯死!」
「南部では魔物の侵入を許しました!」
「結界の再構築、失敗!」
---
「……なぜだ」
公爵の声が、低く響く。
ここまで一気に崩れる理由が、どうしても見えない。
---
「父上、このままでは領地の維持が困難になります」
兄の言葉は、もはや警告に近かった。
---
「……全力で原因を突き止めろ」
「すでに宮廷にも協力を要請しています」
---
その言葉に、公爵はわずかに頷いた。
そして——
---
「——あ、あの……」
控えめな声が、室内に響いた。
振り返ると、そこにいたのは一人のメイドだった。
普段、あまり表に出てこない者。
---
「どうした」
「……申し上げなければならないことが、ございます」
---
その声は、震えていた。
---
「お嬢様の、ことで……」
---
一瞬、空気が止まる。
---
「……娘がどうした」
公爵の声は、冷静だった。
だが、その奥に、わずかな違和感が混じる。
---
「その……お嬢様は——」
メイドは、ぎゅっと拳を握りしめた。
---
「数日前より、屋敷にはいらっしゃいません」
---
沈黙。
---
「……何を言っている」
兄が、ゆっくりと問い返す。
---
「事実でございます」
---
「そんなはずはない。ずっと部屋で休んでいると——」
---
「それは……」
メイドは、顔を上げた。
覚悟を決めたように。
---
「お嬢様ご本人から、“気づかれるまで伝えないように”と命じられておりました」
---
空気が、凍りつく。
---
「……命令、だと?」
公爵の声が、わずかに揺れた。
---
「はい」
---
「……いつからだ」
---
「……五日前でございます」
---
五日。
その間、誰一人として——
気づかなかった。
---
「……」
公爵は、何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと立ち上がる。
---
「部屋へ行く」
---
短く告げる。
---
胸の奥に、言いようのない不安が広がっていた。
---
それが何なのか。
まだ、誰も理解していなかった。
---
扉が開かれた瞬間、空気が変わった。
---
「……ここは」
公爵が、ゆっくりと室内を見渡す。
数年ぶりに足を踏み入れた、娘の部屋。
---
整っている。
埃ひとつない。
だが——
---
「……何だこの部屋は。何も、何も無いじゃないか」
兄が呟いた。
---
本棚には最低限の書物。
机の上には筆記具と紙。
贈り物も、装飾も——
家族との記憶を示すものが、何一つ存在しない。
---
「……こんな、はずが」
公爵の声が揺れる。
---
知らなかった。
では済まされない空白。
---
「お嬢様は……いつもお一人でした」
メイドの声が、静かに落ちる。
---
「体調を崩されても、誰にも頼らず……」
---
胸の奥が、鈍く軋む。
---
「……なぜ、報告しなかった」
公爵の問い。
---
「……命じられておりましたので」
メイドは深く頭を下げた。
---
「“気づくまで、言わないでほしい”と」
---
沈黙。
---
「……私達に気づかれないと、分かっていたのか」
兄の声が震える。
---
答えは、誰も口にしない。
---
「……それと、もう一つ」
メイドが震える手で、一通の封筒を差し出した。
---
「お嬢様より、お預かりしております」
---
その場の空気が張り詰める。
---
「……今、開けてもよろしいでしょうか」
メイドが問う。
---
公爵は、無言で頷いた。
---
封が切られる。
---
紙の音が、やけに大きく響いた。
---
読み上げられる。
---
「——お父様、お兄様へ」
---
その一文だけで、胸が締めつけられる。
---
「突然いなくなってしまって、ごめんなさい」
---
謝罪から始まる。
---
「きっと驚かれると思います。でも、少しだけ時間をください」
---
優しい言葉だった。
責める気配は、一切ない。
---
「私はずっと、この家で何をすればいいのか分からないままでした」
---
息が詰まる。
---
「嫌われているわけではないことも、分かっていました」
「でも、“必要とされていない”とも感じていました」
---
誰も、否定できない。
---
「だから、最後くらい」
---
一拍。
---
「自分のために生きてみたいと思いました」
---
静かに、突き刺さる。
---
「外の空気を吸ってみたくて」
「世界を、自分の目で見てみたくて」
---
それだけだった。
本当に、それだけ。
---
「どうか、探さないでください」
---
その一文に、空気が凍る。
---
「私は大丈夫です」
---
最後まで、相手を気遣う言葉。
---
「今まで、ありがとうございました」
---
そこで、手紙は終わっていた。
---
短い。
あまりにも短い。
---
だが——
その中に、すべてが詰まっていた。
---
「……」
誰も、言葉を発せない。
---
そのとき。
---
ふわり、と空気が震えた。
---
室内の温度が、わずかに下がる。
---
「……なんだ」
兄が顔を上げる。
---
次の瞬間。
---
光が、現れた。
---
無数の精霊が、一斉に姿を現す。
---
そして——
---
その中心に、“それ”はいた。
---
人の形をしているようで、人ではない存在。
圧倒的な気配。
---
「……精霊、王……?」
誰かが、呟いた。
---
答えはない。
ただ、視線だけが——
まっすぐに、公爵と兄へ向けられていた。
---
『愚かだな』
---
低く、静かな声。
---
だが、その一言だけで空気が凍りつく。
---
『貴様らは、一体何をしていた』
---
問いではない。
断罪だった。
---
「……何のことでしょうか」
公爵が、かろうじて言葉を返す。
---
『分からぬか?』
---
一歩、近づく。
---
『常に側にあったものに、気づかぬとは』
---
心臓を掴まれるような圧。
---
「……我々は」
---
『見ていたか?』
---
遮られる。
---
『弱っていく姿を』
『削れていく命を』
『助けを求めぬ理由を』
---
何も、答えられない。
---
『貴様らの力ではない』
---
はっきりと、告げられる。
---
『すべて——あの小娘が支えていた』
---
理解が、遅れて押し寄せる。
---
「……あの子が」
公爵の声が震える。
---
『そうだ』
---
精霊王の声に、感情はない。
---
『寿命を削り、歪みを正し、すべてを維持していた』
---
静かな事実。
---
『それを——』
---
一拍。
---
『“当然”と受け取った』
---
否定できない。
---
「……違う」
兄が絞り出す。
---
「我々は、知らなかった……!」
---
『知らぬのではない』
---
即座に否定される。
---
『見ぬふりをしたのだ』
---
完全な断罪。
---
「……っ」
---
『そして、あの小娘は去った』
---
視線が遠くを見る。
---
『最後くらい自由に生きたい、と言ってな』
---
手紙の言葉と重なる。
---
「……どこにいるか、ご存知でしょうか!?」
公爵が問う。
---
縋るように。
---
『知らぬ』
---
あまりにもあっさりとした答え。
---
『我が分かっていることは——』
---
視線が戻る。
---
『もう戻らぬ』
---
その一言で、すべてが終わる。
---
「……」
---
膝が崩れる。
---
兄が、何も言えずに座り込む。
---
「……我々は」
---
言葉にならない。
---
『もう遅い』
---
精霊王は、ただそれだけを告げた。
---
そして。
---
ふっと、姿が消える。
---
精霊たちも、同時に消えた。
---
静寂。
---
残ったのは——
---
何もなくなった現実だけ。
---
「報告です!!」
---
扉が開かれる。
---
「結界、完全崩壊!」
「魔物侵入、多数!」
「農作物、壊滅的被害!」
---
止まらない。
---
崩壊が。
---
すべてが。
---
「……あの子が」
公爵の声が、かすれる。
---
「……あの子が、すべてを」
---
誰も、否定しない。
---
もう、できない。
---
——その頃。
---
「……ここが、外の世界」
---
私は、小さく呟いた。
---
空気が違う。
軽い。
自由だ。
---
精霊たちが、楽しそうに舞っている。
---
もう、削らなくていい。
---
「……これで、いいよね」
---
誰にも聞こえない声。
---
でも。
---
ちゃんと届いている気がした。
---
「君」
---
声がかかる。
---
振り返る。
---
そこにいたのは——
---
まっすぐに、私を見る青年人。
---
初めて。
---
“ちゃんと見られている”と感じた。
---
「……はい」
---
小さく頷く。
---
それが——
---
新しい人生の始まりだった。
---
一方で。
---
すべてを失った者たちは。
---
戻らないものを、求め続ける。
---
——気づくには、遅すぎた。
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