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命を削って領地を支えていた公爵令嬢、見向きもされなかったので家を出たら崩壊しました〜今さら後悔されても戻りません〜

作者: モーヒアス
掲載日:2026/04/29

 視界の端で、カーテンがわずかに揺れた。

 窓は閉じている。風など入るはずがない。


「……来てるのね」


 小さく呟くと、空気がふわりと震えた。


 ——『いるよ』


 誰の声でもない。けれど確かに、私にだけ届く声。


 淡い光が、指先ほどの粒となって宙を舞う。

 それはすぐに形を成し、小さな人のような、けれど人ではない存在へと変わった。


 精霊。


 昔から、私には彼らが見える。


 そして——好かれている。


「今日も、来てくれたのね」


 ——『無理、してる』


 責めるでもなく、ただ事実を告げるような声音。

 私は少しだけ笑った。


「大丈夫よ。これくらい、平気」


 そう言って立ち上がろうとした瞬間、視界がぐらりと揺れた。


 足元が崩れる。


 床に手をつく前に、体が支えられた気がした。

 けれど、実際には誰もいない。


 ただ、精霊たちが慌てて私の周囲を飛び回っているだけだった。


 ——『やめて』

 ——『削れてる』

 ——『もう、限界』


「……まだ、大丈夫」


 息を整えながら、そう繰り返す。


 大丈夫。

 大丈夫だから。


 そう言い聞かせるように。


---


 私は公爵家の長女だ。


 けれど、家族の中で私は——いないもののように扱われている。


 嫌われているわけではない。

 虐げられているわけでもない。


 衣食住は十分すぎるほど整っているし、使用人たちも丁寧だ。


 ただ——


「……また、部屋にこもっているのか」


 扉越しに聞こえた父の声に、思わず背筋が伸びた。


「はい。少し体調が優れなくて」


「そうか」


 それだけ言って、足音は遠ざかっていく。


 扉は開かれない。

 様子を見に来ることもない。


 ——心配されていないわけじゃない。

 ただ、“それ以上踏み込まないだけ”。


 それがこの家の距離感だった。


---


「またですか?」


 廊下の向こうから、兄の声が聞こえる。


「ああ。今日も体調が悪いらしい」


「そうですか。では、父上。こちらの案件ですが——」


 会話はすぐに別の話題へ移った。


 私のことは、ほんの一瞬で終わる。


 それが当たり前だった。


---


 母は、私を産んだときに亡くなった。


 誰も私を責めたりはしない。

 そんなことは一度も言われたことがない。


 けれど——


 母に似ているらしい、私の顔を見るたびに。

 ほんの一瞬だけ、父や兄の視線が揺れるのを、私は知っている。


 その一瞬の躊躇いが、積み重なって——

 気づけば、私は“触れづらい存在”になっていた。


---


「……今日も、外に出れなそうね」


 窓辺に座り込んだまま、私は精霊に問いかける。


 ——『出るべき』

 ——『でも、無理』


「そうね……」


 外の空気を吸いたいと思うことはある。

 けれど、それだけで体が重くなる。


 原因は分かっている。


 精霊魔法。


 私が使っている力。


 本来なら、魔力を消費するだけのはずのそれは——

 なぜか私の場合、“寿命”を削る。


 理由は分からない。


 ただ一つ確かなのは、使えば使うほど——確実に削れていくということ。


---


 それでも私は、使い続けていた。


 誰に頼まれたわけでもない。

 命じられたわけでもない。


 ただ——


 家族が困らないように。


 領地が安定するように。


 気づけば、そうしていた。


---


「……今日も、少しだけ」


 目を閉じる。


 精霊たちが一斉にざわめいた。


 ——『だめ』

 ——『これ以上は』

 ——『消える』


「少しだけだから」


 そう言って、私は力を引き出した。


 体の奥から、何かが削り取られる感覚。


 痛みはない。

 ただ、確実に“減っていく”。


 それでも。


 領地の風が整い、

 水の流れが安定し、

 見えない歪みが静かに正されていくのが分かる。


 それでいい。


 これで、いい。


---


「……やっぱり、無理をしていますね」


 ふいに、背後から声がした。


 振り返ると、そこにいたのは医師の女性だった。


 この屋敷に長く仕えている、数少ない“私を見る人”。


「先生……」


「立てますか?」


「ええ、なんとか」


 手を借りて立ち上がると、彼女はじっと私を見つめた。


「……また、削ったのですね」


 否定できなかった。


 沈黙が答えになる。


「どうして、そこまでして……」


「家族に、迷惑をかけたくないんです」


 それは本心だった。


 父も、兄も、忙しい。

 私のことで余計な手間をかけさせたくない。


 ただ、それだけ。


「……お嬢様は、十分すぎるほど尽くしております」


「でも、足りないんです」


 そう言うと、彼女は苦しそうに目を伏せた。


---


「このままだと——」


 言いかけて、彼女は言葉を飲み込んだ。


「……ご家族には?」


「言わないでください」


 即答だった。


「でも——」


「お願いします」


 強く、はっきりと。


「知らなくていいんです」


 誰も気づいていないなら、それでいい。


 今まで通りでいい。


 そう思っていた。


---


 ——でも。


 その夜、私は気づいてしまった。


 いや、気付かないふりをしていたのかもしれない。


 部屋の中にあるものを、ひとつひとつ見渡して。


 本棚。

 机。

 カーテン。


 どこにも、“家族との思い出”がない。


 贈り物も、写真も、何もない。


 当たり前のように過ごしてきたこの部屋が——

 急に、他人の部屋のように思えた。


---


「……ああ」


 小さく息が漏れる。


「私、本当に……」


 ひとりだったんだ。


---


 嫌われていたわけじゃない。

 でも、必要とされてもいない。


 それなら。


「……最後くらい」


 窓の外を見上げる。


 夜風が、ほんの少しだけカーテンを揺らした。


「自由に、生きてもいいよね」


 ——『いいよ』


 精霊が、優しく応えた。


---


 翌朝。


 私は一通の手紙を書いた。


 それは“別れ”ではなく——ただの“お願い”。


 そして、信頼できるメイドに託す。


「……気づくまで、黙っていてほしいの」


「お嬢様……」


「お願い」


 しばらくの沈黙のあと、彼女は深く頭を下げた。


「……承知いたしました」


---


 荷物は、ほとんど持たなかった。


 必要なものだけでいい。


 この家に、未練はない。


 ……そう思いたかった。


---


 扉を開ける。


 振り返らない。


 誰にも見送られないまま——


 私は、公爵家を出た。


---


 ——その時、誰一人として。


 私がいなくなったことに、気づいていなかった。


 屋敷を出てから、どれくらい歩いただろう。


 振り返ることは、一度もしなかった。


 振り返れば、きっと戻ってしまう気がしたから。


---


 朝の空気はひんやりとしていて、胸の奥が少しだけ楽になる。


 ……こんな空気を吸うのは、いつぶりだろう。


「……外って、こんなに広かったのね」


 ぽつりと呟くと、精霊たちが楽しそうに周囲を舞った。


 ——『自由』

 ——『広い』

 ——『軽い』


「そうね」


 足取りは決して軽くはない。

 体は相変わらず重く、少し歩くだけで息が上がる。


 それでも。


 閉じ込められていた何かが、少しずつほどけていく感覚があった。


---


「お嬢様、無理はなさらないでください」


 隣を歩く医師が、静かに声をかける。


「……ついてきてくださって、本当にいいんですか?」


「ええ。あの屋敷に残る理由もありませんから」


 そう言って、彼女はわずかに微笑んだ。


「それに——お嬢様を一人にする方が、問題です」


 その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。


 誰かが、私を“気にかけている”。


 それだけで、こんなにも違うものなのかと初めて知った。


---


 しばらく歩いた先、小さな町に辿り着いた。


 公爵領の外れ。

 屋敷にいた頃には、ほとんど関わることのなかった場所。


「ここで、少し休みましょう」


「はい……」


 宿に入り、簡素な部屋へ通される。


 豪華ではない。

 けれど、不思議と落ち着く空間だった。


---


 ベッドに腰を下ろした瞬間、どっと疲れが押し寄せた。


「……やっぱり、無理をしていますね」


「少しだけです」


 そう答えながらも、自分でも分かっていた。


 “少し”ではない。


 限界に近い。


---


 それでも——


「不思議ですね」


「何がでしょうか?」


「苦しくないんです」


 体は確かにきつい。

 でも、心は軽かった。


「……そうですか」


 医師はそれ以上何も言わなかった。


---


 窓の外を見る。


 人が行き交い、声が響く。


 誰も、私を知らない。


 誰も、私を見ない。


 でも——


 それが、こんなにも楽だなんて。


---


「……少し、外に出てみてもいいですか?」


「無理のない範囲でしたら」


 許可を得て、ゆっくりと外へ出る。


---


 町は、活気に満ちていた。


 商人の呼び声。

 子どもたちの笑い声。

 どこかで焼かれるパンの香り。


 すべてが新鮮だった。


---


 そのとき。


 ふわり、と風が揺れる。


 精霊たちが、一斉にざわめいた。


 ——『薄い』

 ——『乱れてる』

 ——『危ない』


「……え?」


 周囲を見回す。


 見た目には、何も変わらない。


 けれど——


 確かに、“何か”が歪んでいる。


---


「どうされましたか?」


 医師が声をかける。


「……いえ、少しだけ」


 言葉を濁す。


 説明しても、伝わらないかもしれない。


 それに——


(もう、関係ないはずなのに)


 胸の奥がざわつく。


---


 ——『直すの?』


 精霊が問いかける。


「……」


 少しだけ、迷う。


 手を伸ばせば、整えられる。


 ほんの少し力を使えばいいだけ。


 でも。


「……やらない」


 静かに首を振った。


「もう、私の役目じゃないから」


---


 精霊たちは、少しだけ悲しそうに揺れた。


 それでも、何も言わなかった。


---


 その夜。


 体調は、さらに悪化した。


 ベッドに横になったまま、指先が冷たくなっていくのを感じる。


「……無理をしすぎましたね」


 医師が額に手を当てる。


「少し休めば、大丈夫です」


 そう言いながらも、呼吸は浅い。


---


 ——『削れすぎ』


 精霊の声が、どこか遠くに聞こえた。


---


「……ねえ」


「はい?」


「もし、私がいなくなったら……」


「その話はしないでください」


 即座に遮られる。


「まだ、終わっていません」


 強い口調だった。


 初めて聞く、はっきりとした拒絶。


---


 少しだけ、安心した。


 こんな風に言ってくれる人がいることに。


---


「……ありがとう」


 そう呟いて、目を閉じる。


---


 一方、その頃。


---


「……おかしいな」


 公爵は、書類から顔を上げた。


「どうされましたか、父上」


 兄が問いかける。


「風の流れが、少し乱れている」


「……誤差の範囲では?」


「そうかもしれんが……」


 違和感。


 ほんの些細なズレ。


 だが——


 それは確かに、今までとは違う。


---


「結界の強度も、わずかに落ちています」


 別の報告が入る。


「原因は?」


「調査中です」


---


 公爵は、しばらく考え込んだ。


 だが。


「……優先度は低い。まずは領地内の問題を片付ける」


「承知しました」


 すぐに判断は下される。


---


 その決断が。


 どれほど大きな“見落とし”になるのか。


 この時点では、誰も気づいていなかった。


---


 そして。


 屋敷の中でも——


「お嬢様は、本日もお休みです」


 そう報告するメイドの声に、誰も疑問を持たなかった。


「そうか」


 それだけで終わる。


---


 “いつも通り”。


 それが、あまりにも自然だったから。


---


 誰も。


 本当に誰一人として。


 彼女が——


 もう屋敷にいないことに、気づいていなかった。


 違和感は、確実に“異常”へと変わり始めていた。


---


「父上、南の森で魔物の出現数が増えています」


 報告書を手にした兄の声は、いつになく硬い。


「数は?」


「通常の三倍。しかも、群れでの行動が確認されています」


「……結界はどうした」


「維持されています。ただ——」


 言葉が途切れる。


「ただ?」


「強度が落ちています。外からの侵入を完全には防げていません」


---


 公爵は眉をひそめた。


「原因はまだ不明か」


「はい。調査は進めていますが……決定打がありません」


---


 机の上に広げられた地図。


 本来なら、精密に管理されているはずの領地の均衡が、わずかに歪んでいる。


 ほんの小さなズレ。


 だが、それが積み重なれば——


「……気象の変化は?」


「北部で異常な乾燥が確認されています。農作物への影響も出始めています」


「南では魔物、北では干ばつか……」


 同時多発的な異常。


 偶然とは考えにくい。


---


「……父上」


 兄が、わずかに声を落とした。


「何か、根本的な“何か”が抜け落ちている気がします」


「……ああ」


 公爵も同意する。


 だが、それが何なのかが分からない。


---


「結界の再調整を行え」


「すでに試みています。しかし——」


 兄は悔しそうに歯を食いしばった。


「以前と同じ精度が出ません」


---


 “以前と同じ”。


 その言葉が、妙に引っかかった。


---


「……なぜだ」


 公爵は低く呟く。


 これまで、この領地は安定していた。


 多少の問題はあっても、ここまで一気に崩れることはなかった。


---


 まるで。


 何かに支えられていたものが——


 突然、消えたかのように。


---


 その頃。


---


「……やっぱり、広がってる」


 窓の外を見ながら、私は小さく呟いた。


 町の空気は、昨日よりも明らかに乱れている。


 精霊たちも落ち着かない様子で、周囲を飛び回っていた。


 ——『増えてる』

 ——『壊れてる』

 ——『危ない』


---


「何か感じますか?」


 医師が静かに問いかける。


「はい……少しずつ、でも確実に」


 領地全体に広がっている。


 歪みが。


---


「……戻られますか?」


「戻りません」


 即答だった。


「もう、私の役目じゃないので」


---


 言葉にすると、少しだけ胸が痛んだ。


 けれど、それでも——


 戻る理由はなかった。


---


「ただ……」


「ただ?」


「少しだけ。そう、少しだけ、気になるだけです」


 それだけ。


 本当に、それだけ。


---


 その日の午後。


 町の広場で、小さな騒ぎが起きた。


「水が……出ない?」


 井戸の前で、人々がざわついている。


「さっきまで普通だったのに」


「おかしいな……」


---


 私はその様子を、少し離れた場所から見ていた。


 精霊たちが、不安そうに揺れている。


 ——『壊れてる』

 ——『反動が、きてる』

 ——『流れが、止まってる』


---


 ほんの少しだけ。


 手を伸ばせば、直せる。


 ほんの少しだけ、力を使えば——


---


「……」


 ぎゅっと、手を握りしめる。


---


「おやめください」


 医師の声が、静かに響く。


「……でも」


「……これ以上、削るべきではありません。本当に死んでしまいます」


---


 確かにそうであった。


 もう、限界が近い。


 これ以上使えば、本当に——


---

「でも、このままではこの領地が……」


「それでいいと思います」


 医師は、あっさりと言った。


「え?」


「あなたが自分を守るのは、当然のことです」


---


 その言葉に、少しだけ救われた気がした。


---


 一方、その頃。


---


「被害が拡大しています!」


 報告が次々と積み上がる。


「北部の作物、半数が枯死!」


「南部では魔物の侵入を許しました!」


「結界の再構築、失敗!」


---


「……なぜだ」


 公爵の声が、低く響く。


 ここまで一気に崩れる理由が、どうしても見えない。


---


「父上、このままでは領地の維持が困難になります」


 兄の言葉は、もはや警告に近かった。


---


「……全力で原因を突き止めろ」


「すでに宮廷にも協力を要請しています」


---


 その言葉に、公爵はわずかに頷いた。


 そして——


---


「——あ、あの……」


 控えめな声が、室内に響いた。


 振り返ると、そこにいたのは一人のメイドだった。


 普段、あまり表に出てこない者。


---


「どうした」


「……申し上げなければならないことが、ございます」


---


 その声は、震えていた。


---


「お嬢様の、ことで……」


---


 一瞬、空気が止まる。


---


「……娘がどうした」


 公爵の声は、冷静だった。


 だが、その奥に、わずかな違和感が混じる。


---


「その……お嬢様は——」


 メイドは、ぎゅっと拳を握りしめた。


---


「数日前より、屋敷にはいらっしゃいません」


---


 沈黙。


---


「……何を言っている」


 兄が、ゆっくりと問い返す。


---


「事実でございます」


---


「そんなはずはない。ずっと部屋で休んでいると——」


---


「それは……」


 メイドは、顔を上げた。


 覚悟を決めたように。


---


「お嬢様ご本人から、“気づかれるまで伝えないように”と命じられておりました」


---


 空気が、凍りつく。


---


「……命令、だと?」


 公爵の声が、わずかに揺れた。


---


「はい」


---


「……いつからだ」


---


「……五日前でございます」


---


 五日。


 その間、誰一人として——


 気づかなかった。


---


「……」


 公爵は、何も言わなかった。


 ただ、ゆっくりと立ち上がる。


---


「部屋へ行く」


---


 短く告げる。


---


 胸の奥に、言いようのない不安が広がっていた。


---


 それが何なのか。


 まだ、誰も理解していなかった。



---


 扉が開かれた瞬間、空気が変わった。


---


「……ここは」


 公爵が、ゆっくりと室内を見渡す。


 数年ぶりに足を踏み入れた、娘の部屋。


---


 整っている。


 埃ひとつない。


 だが——


---


「……何だこの部屋は。何も、何も無いじゃないか」


 兄が呟いた。


---


 本棚には最低限の書物。

 机の上には筆記具と紙。


 贈り物も、装飾も——

 家族との記憶を示すものが、何一つ存在しない。


---


「……こんな、はずが」


 公爵の声が揺れる。


---


 知らなかった。


 では済まされない空白。


---


「お嬢様は……いつもお一人でした」


 メイドの声が、静かに落ちる。


---


「体調を崩されても、誰にも頼らず……」


---


 胸の奥が、鈍く軋む。


---


「……なぜ、報告しなかった」


 公爵の問い。


---


「……命じられておりましたので」


 メイドは深く頭を下げた。


---


「“気づくまで、言わないでほしい”と」


---


 沈黙。


---


「……私達に気づかれないと、分かっていたのか」


 兄の声が震える。


---


 答えは、誰も口にしない。


---


「……それと、もう一つ」


 メイドが震える手で、一通の封筒を差し出した。


---


「お嬢様より、お預かりしております」


---


 その場の空気が張り詰める。


---


「……今、開けてもよろしいでしょうか」


 メイドが問う。


---


 公爵は、無言で頷いた。


---


 封が切られる。


---


 紙の音が、やけに大きく響いた。


---


 読み上げられる。


---


「——お父様、お兄様へ」


---


 その一文だけで、胸が締めつけられる。


---


「突然いなくなってしまって、ごめんなさい」


---


 謝罪から始まる。


---


「きっと驚かれると思います。でも、少しだけ時間をください」


---


 優しい言葉だった。


 責める気配は、一切ない。


---


「私はずっと、この家で何をすればいいのか分からないままでした」


---


 息が詰まる。


---


「嫌われているわけではないことも、分かっていました」


「でも、“必要とされていない”とも感じていました」


---


 誰も、否定できない。


---


「だから、最後くらい」


---


 一拍。


---


「自分のために生きてみたいと思いました」


---


 静かに、突き刺さる。


---


「外の空気を吸ってみたくて」


「世界を、自分の目で見てみたくて」


---


 それだけだった。


 本当に、それだけ。


---


「どうか、探さないでください」


---


 その一文に、空気が凍る。


---


「私は大丈夫です」


---


 最後まで、相手を気遣う言葉。


---


「今まで、ありがとうございました」


---


 そこで、手紙は終わっていた。


---


 短い。


 あまりにも短い。


---


 だが——


 その中に、すべてが詰まっていた。


---


「……」


 誰も、言葉を発せない。


---


 そのとき。


---


 ふわり、と空気が震えた。


---


 室内の温度が、わずかに下がる。


---


「……なんだ」


 兄が顔を上げる。


---


 次の瞬間。


---


 光が、現れた。


---


 無数の精霊が、一斉に姿を現す。


---


 そして——


---


 その中心に、“それ”はいた。


---


 人の形をしているようで、人ではない存在。


 圧倒的な気配。


---


「……精霊、王……?」


 誰かが、呟いた。


---


 答えはない。


 ただ、視線だけが——


 まっすぐに、公爵と兄へ向けられていた。


---


『愚かだな』


---


 低く、静かな声。


---


 だが、その一言だけで空気が凍りつく。


---


『貴様らは、一体何をしていた』


---


 問いではない。


 断罪だった。


---


「……何のことでしょうか」


 公爵が、かろうじて言葉を返す。


---


『分からぬか?』


---


 一歩、近づく。


---


『常に側にあったものに、気づかぬとは』


---


 心臓を掴まれるような圧。


---


「……我々は」


---


『見ていたか?』


---


 遮られる。


---


『弱っていく姿を』

『削れていく命を』

『助けを求めぬ理由を』


---


 何も、答えられない。


---


『貴様らの力ではない』


---


 はっきりと、告げられる。


---


『すべて——あの小娘が支えていた』


---


 理解が、遅れて押し寄せる。


---


「……あの子が」


 公爵の声が震える。


---


『そうだ』


---


 精霊王の声に、感情はない。


---


『寿命を削り、歪みを正し、すべてを維持していた』


---


 静かな事実。


---


『それを——』


---


 一拍。


---


『“当然”と受け取った』


---


 否定できない。


---


「……違う」


 兄が絞り出す。


---


「我々は、知らなかった……!」


---


『知らぬのではない』


---


 即座に否定される。


---


『見ぬふりをしたのだ』


---


 完全な断罪。


---


「……っ」


---


『そして、あの小娘は去った』


---


 視線が遠くを見る。


---


『最後くらい自由に生きたい、と言ってな』


---


 手紙の言葉と重なる。


---


「……どこにいるか、ご存知でしょうか!?」


 公爵が問う。


---


 縋るように。


---


『知らぬ』


---


 あまりにもあっさりとした答え。


---


『我が分かっていることは——』


---


 視線が戻る。


---


『もう戻らぬ』


---


 その一言で、すべてが終わる。


---


「……」


---


 膝が崩れる。


---


 兄が、何も言えずに座り込む。


---


「……我々は」


---


 言葉にならない。


---


『もう遅い』


---


 精霊王は、ただそれだけを告げた。


---


 そして。


---


 ふっと、姿が消える。


---


 精霊たちも、同時に消えた。


---


 静寂。


---


 残ったのは——


---


 何もなくなった現実だけ。


---


「報告です!!」


---


 扉が開かれる。


---


「結界、完全崩壊!」

「魔物侵入、多数!」

「農作物、壊滅的被害!」


---


 止まらない。


---


 崩壊が。


---


 すべてが。


---


「……あの子が」


 公爵の声が、かすれる。


---


「……あの子が、すべてを」


---


 誰も、否定しない。


---


 もう、できない。


---


 ——その頃。


---


「……ここが、外の世界」


---


 私は、小さく呟いた。


---


 空気が違う。


 軽い。


 自由だ。


---


 精霊たちが、楽しそうに舞っている。


---


 もう、削らなくていい。


---


「……これで、いいよね」


---


 誰にも聞こえない声。


---


 でも。


---


 ちゃんと届いている気がした。


---


「君」


---


 声がかかる。


---


 振り返る。


---


 そこにいたのは——


---


 まっすぐに、私を見る青年人。


---


 初めて。


---


 “ちゃんと見られている”と感じた。


---


「……はい」


---


 小さく頷く。


---


 それが——


---


 新しい人生の始まりだった。


---


 一方で。


---


 すべてを失った者たちは。


---


 戻らないものを、求め続ける。


---


 ——気づくには、遅すぎた。



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