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夢の記録  作者: nagata
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20251019

最初に耳が目覚め、次に皮膚が目覚め、最後に視界が戻った。床は冷たく、ざらつく粉のような埃が掌にまとわりついて、そこかしこから立ちのぼる消毒液の匂いが鼻の奥を鈍く痺れさせる。暗い部屋の中、窓の向こうは夜そのものの黒で、天井の照明は死んだまま沈黙を守っている。棚の上にはガラス瓶が並び、使い古された実験道具が転がっていた。どこかで水の滴るわずかな音がして、日向はゆっくり体を起こし、理科準備室の重い扉に手をかけた。扉の隙間から伸びる細い光の筋を辿って廊下に出ると、世界は一変する。長い廊下は暗闇に沈んでいるのに、ただ階段の踊り場だけが、蛍光灯の矩形で白く浮かび上がっていて、その白さはこの校舎のどこにも属さない異物のように見えた。


「……日向?」


光の縁に人影があり、慎の声が届いた。かつての同級生。そばには七海と芽衣もいた。四人ともどうやってここに来たのかは覚えていない。昨夜、再会を祝って飲み、笑い、別れたはずの記憶はあるのに、そのあとが抜け落ちた穴のように空白だ。慎が苦い顔で首を振り、踊り場から下をのぞく。非常口の緑色は見えるが、その先は鎖で固く閉ざされているらしい。「正門横も南京錠だ。出られない」と慎が言い、七海は唇を噛んで、芽衣は不安げに暗い廊下を振り返った。階段の明かりから一歩離れるだけで空気が冷えて、音が吸われ、視界が縮む。校舎はまるで階段だけを生かし、他を捨てたみたいに見えた。


「職員室に鍵があるはずだ、まずはそこだ」日向が言うと、慎がうなずき、四人は階段の光を島々のように渡りながら移動を始めた。扉はどこも重く、教室の中は暗い海の底のように音がない。足音を殺して進むたび、踊り場の白に触れる瞬間だけ、自分たちが現実の側に戻っているような錯覚が生まれる。


三階に上がったときだった。ひたり、と柔らかいものが床を叩く音がして、四人とも同時に振り向いた。廊下の奥、光と闇の境目に、小さな影がうずくまっている。影は四つん這いで、体を揺らすたびに光の切れ目が形を変え、そしてゆっくり進み出した。走ってはいない。けれど、人間の歩きよりは明らかに速い。滑るようなその速度は、追い越していくのではなく、一定の距離を確実に詰め続ける種類の速さで、逃げたときに背中が予感する“追いつかれる”未来を、無言のうちに提示してくる。


「待て、あれ……」慎が一歩踏み出した瞬間、その小さな影は音もなく方向を変えた。こちらを向いたのだとわかる前に、影は行き先を固定し、慎に向けて滑るように加速する。日向が「離れろ」と声を出したときには、慎はもう踊り場へ駆けだしていた。白い光が安全圏の印に見え、そこへ飛び込めば助かるように錯覚させる。だが、影は慎の脇を抜けざま、すれ違った芽衣へとふいに進路を切り替えた。たったいま近さが入れ替わり、最も近い人間が芽衣になったからだ。行動には意志があるというより、規則があるのだと直感したときには遅かった。


冷たい何かが手に触れ、そして痛みが追いついた。芽衣の右手から一本の指がなくなり、喪失の感覚だけが強く残った。叫びは白い光の井戸で反響し、七海が肩を支える。慎が振り向いて戻ろうとする。影は一瞬迷うように揺れ、次の瞬間にはまた慎へ向き直る。最も近いのが慎に戻ったのだ。階段を降りる慎のすぐ後ろで、小さな背中が段差を苦もなく越え、上がるのと同じ速度で降りてくる。踊り場の手すりにぶつかる硬い音、続いて階下から聞こえた短い叫び、それから骨の軋む乾いた気配のあと、慎の声は途切れ、残ったのは荒い呼吸と、どこかで続く水音だけだった。二度目の接触は手首、そう頭のどこかで説明が流れ、日向の脚は勝手に後ずさる。この速度に飲み込まれれば、次の番は自分か七海か芽衣の誰かで、順番はたまたまの近さが決める、それだけのことだ。


芽衣の肩が震え、七海が「上へ」と促して三階へ戻る。白い光に背中を押されるように踊り場を離れたとき、別の音が近づいてきた。床を引きずる重さと、布が湿って擦れる音。階段の影から現れた女は、頭から裾まで古い赤に染まり、乾いたものと新しいものが幾層にもこびりついたように見えた。目は焦点が合わず、口元には微かに笑みとも痙攣ともつかない動きがある。女はまっすぐ七海へ近寄り、何も言わずに抱きしめた。ぬるい湿りと体温だけが確かで、力はこもらず、ただ包むだけ。七海が固まったまま身を引くと、女は何事もなかったかのように向きを変えて歩き去る。血まみれの母親、という語が日向の頭の中で音もなく形を結び、次の瞬間にはそれが確信になる。赤ん坊の母親なのだろう。攻撃はしない、ただ抱く。救いなのか罰なのか判じがたい働きだけがそこにあった。


四人は職員室を目指すことにした。踊り場から踊り場へ、島渡りのように移動し、ようやくたどり着いた扉は開いていた。中は外よりわずかに暗く、机の上には鍵束がいくつも散らばっている。七海が希望の色を帯びた息を吐き、芽衣は不器用に左手で右手首を押さえ、痛みの波をやり過ごしている。日向が鍵束を一つ掴んだとき、廊下でまた柔らかな接地音が始まり、影が扉の隙間から滑り込んだ。今度、最も近いのは芽衣でも日向でもない。七海だ。影は迷いなく七海に向きを定め、速度をわずかに上げた。


日向は言葉より先に体が動いた。反射というより、遅れてくる恐怖を無視する運動の連続で、椅子を片手で掴んで七海と影の間に立ち、距離の計算を影に提示する。近いのは自分だ。狙うならここだ。噛まれるなら今がいい。七海に走る時間が生まれるなら、それでいい。そんな言葉にもならない確信だけが背骨を通って四肢を支え、口は乾いたまま音を作らない。椅子を構える手は震えていたが、足は退かず、目は影の動きだけを追った。


影は日向の正面でぴたりと止まり、小さく頭を傾けた。そこに“考える”という気配はない。あるのは“選ぶ”という無機質な動きだ。距離が告げる現在値を読み、次の一手を決めるためのわずかな間。その背後で、血まみれの母親が廊下の端に姿を現し、動きの速さを保ったままゆっくり近づいてきて、日向と七海と影を包むように腕を広げた。抱くつもりだという意思だけが空気圧のように伝わり、その圧は言葉では届かない場所で波となって広がる。七海の指先が背中の服の裾をかすめ、日向はその感触を“守る対象が確かにいる”という印に置き換える。自分は盾になるためにここに立っている。母親の腕と、守ろうとする背中の線が、どこかで響き合うなら、それで十分だ。


影は口をわずかに開け、そして閉じた。動きの気配が失われ、床に顎を触れるほどに頭が下がり、向きを変える。血まみれの母親の方へ近づくと、母親は膝を折って、汚れた腕で影を抱き上げた。そこで初めて、抱擁が“機能”するのを見た気がした。影は抵抗せず、母親の胸に頬を寄せ、目を閉じる。さっきまで続いていた距離の更新も、標的の切り替えも止み、空気の緊張がほどけていく。攻撃性が消えたのだと、頭ではなく体が理解した。


七海の肩から力が抜け、小さく震える息が日向の耳に触れる。日向は振り向かない。鍵束を握り直し、母子から視線を外さないまま後ずさり、職員室の外へ出る。追ってくる気配はない。母親はゆるやかに揺れ、影は静かに抱かれたまま眠る子のように見えた。


廊下を渡り、体育館の脇にある通用口へ向かう。道すがら、踊り場の一角に暗い跡だけが残っているのを見つけ、日向は視線を逸らした。慎のいた場所だと直感したが、そこに感情を起こす余裕がない。芽衣はどうかと探すと、階段の別の踊り場に、ぎこちない姿勢で横たわる影があり、七海が息を呑む。芽衣は自分の腕を抱くように丸くなり、その周囲に二度目の接触の形が残していった空虚が広がっていた。日向は足を止めそうになるが、七海が袖を掴んだ。その指先は先ほどより短く、しかし強く、現実へ向かう力を持っていた。


通用口は薄い金属製の扉で、腰高の位置に小さな窓がある。外は真っ黒に見えるが、風の流れだけが確かだ。鍵穴に片端から鍵を試す。合わないものは触れた瞬間の手応えでわかり、時刻を示さない夜は思った以上に長い。四つ目がダメで、五つ目のキーでかすかな感触が変わり、金属の内部が音を立てて回転する。七海が息を止め、日向は力を加えずに鍵を押し回す。ガチャ、と乾いた音。扉は内側に少しだけ開き、夜の空気が細い刃のように流れ込んで頬を切る。


二人は身を小さくして外の気配を確かめる。校庭の砂の匂い、金網のフェンスが風に鳴らす低い音。振り返ると、校舎の窓はやはり黒く、階段の踊り場だけが白い。帯のように漏れ出た光は地面に四角い明かりを置き、その向こうで母親が子を抱いて揺れている影が、ガラスの反射に小さく映っていた。七海は胸の前で両手を合わせるような動作をし、誰にともなく浅く頭を下げる。日向は余計な音を立てないように扉を押し広げ、七海を先に出し、自分も続いた。外気は思っていたより重く、体の内側の震えが表面に浮かぶ。


フェンスの扉は鎖で縛られているが、地面との間に人一人通れるほどの隙間がある。日向はしゃがみ、手のひらで砂を払って隙間に腹ばいになり、七海を先に通した。七海は躊躇いながらも片肩を入れ、指の短くなった手で土を掻き、身体を押し出す。外に出た彼女が振り返り、日向の腕を引く。砂の冷たさ、小石の痛みが現実の側に戻ってきた証拠のように感じられる。二人が体を起こすと、通りには誰もいない。遠くの街灯が点々と続くだけで、音は風の揺らぎと自分たちの呼吸だけだ。


しばらく歩いても、背後からは何も追ってこない。日向は振り返らず、夜風に汗が乾いていくのを確かめる。そのあいだ、頭のどこかで、さきほどの瞬間が何度も繰り返される。七海の前に立つと決めたとき、血まみれの母親の腕は自分に触れていないのに、抱くという行為の輪郭だけが空気を通して伝わり、自分の姿勢の線と重なった気がした。あれは母親の愛なのかと問えば、言葉は曖昧に散っていく。自分が何者であれ、守ろうとした瞬間にだけ、その規則が働くのだという事実だけが残り、理屈はあとからどうにでもつけられる余白を持っている。


「……ありがとう」七海が言い、日向は首を振るでも頷くでもなく、呼吸を整えることで返事にした。二人の足取りは人の歩きより少し遅く、でも走る必要のない速度で揃っていく。鎖の音もしないし、骨のきしみも聞こえない。学校は、もう遠い。にもかかわらず、階段だけが明るいという事実は、目を閉じても瞼の裏に残り続けた。そこに置き去りにしてしまったものがあることを知りながら、なお生きて出てしまったという現実は、風が一度だけ背中を押したとき、はっきりと輪郭を持った。


角を一つ曲がったところで、七海がふと立ち止まり、遠くの空を見た。夜は深く、朝はまだ遠い。日向はその横顔を見て、改めて思う。さっき、言葉ではなく体で示した選択は、誰かの物語で“勇気”と呼ばれるのかもしれないが、実際の手触りはもっと小さく、もっと即物的で、もっと無償だった、と。あの校舎の中で、誰かに抱かれることと、誰かを守ろうとすることは、じつのところ同じ線の上にあったのだろう。血まみれの腕と、自分の背中は、同じ方向を向いていた。だから赤ん坊は口を閉じ、母親は子を抱き、二人は外に出ることができた。


七海が歩き出し、日向もその後に続く。遠くで夜の虫が鳴き、住宅地の方から遅れて帰る人の靴音がかすかに交じって、やがて消える。二人はもう振り返らない。階段だけが明るい学校は、輪郭を失い、夜の底に沈んでいった。

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