代替可能な私
日曜日が、鈴木はじめは好きだった。
平日の無機質なアラーム音ではなく、コーヒーの香ばしい匂いと、トーストが焼ける軽快な音で目が覚めるからだ。そして、リビングのドアを開ければ、必ずそこに「家族」がいる。
「おはよう、あなた」
キッチンに立つ妻のユイが、完璧な微笑みで振り返る。彼女の白いブラウスには、シミひとつない。寸分違わぬタイミングで焼き上がったトーストを皿に乗せながら、彼女は流れるような動作で続ける。
「アカリ、パパにご挨拶は?」
「パパ、おはよう!」
ローテーブルでクレヨンを握っていた娘のアカリが、顔を上げて満面の笑みを見せる。九歳の娘が描く絵は、いつも同じ構図だった。大きな家の隣に、三人の人物が手をつないで立っている。パパと、ママと、私。太陽はいつも、絵の右上だ。
「おはよう、二人とも」
鈴木はじめは、自分の指定席であるソファに腰を下ろした。ユイが差し出したマグカップからは、彼が最も好む、苦味の強いコーヒーの湯気が立ち上っていた。彼はそれを一口含み、満足のため息をつく。これだ。これが、彼が長年夢に見ていた生活だった。
「ねえ、パパ。今度の日曜日、動物園に行きたいな」
アカリが言った。
「ゾウさんと、キリンさんが見たいの」
「それはいい考えね」
ユイが、まるで自分の意見であるかのように相槌を打つ。
「あなた、どうかしら?」
「ああ、もちろんだとも」
鈴木はじめは、父親らしい声色を意識して答えた。
「アカリの行きたいところなら、どこへでも連れて行ってやるさ」
「やったあ! パパ大好き!」
会話は完璧なテンポで進み、理想的な結論にたどり着く。誰も反対せず、誰も不機嫌にならない。まるで、優秀な脚本家が書いたシナリオのようだった。
彼はこの生活に満足していた。心から。
ただ、ごく稀に、この完璧すぎる静けさが、深海の水圧のように感じられることがあった。幸福は、まるで埃一つないガラスケースの中に陳列されているようで、うっかり触れると、指紋がつき、汚してしまいそうだった。
ふと、つけっぱなしになっていた壁掛けテレビから、涼やかな女性ナレーターの声が流れてきた。画面には、今日のうちの食卓によく似た、幸せそうな家族が映っている。
「孤独は、もう過去のものです。さあ、あなたも『ファミリー・プライム』で――本当の幸福を、クリックひとつで」
鈴木はじめは、そのCMが流れるたびに感じる、胸の奥の小さな疼きに、気づかないふりをした。彼はもう、孤独ではないのだから。
◇
日曜日の魔法は、月曜日の朝には跡形もなく消え去っている。
鈴木はじめは、見知らぬ他人の体温が伝わってくるほどの満員電車に揺られ、灰色のオフィスビルへと吸い込まれていった。システムエンジニアである彼の仕事は、巨大なシステムの一部として、決められた歯車の役割を果たすことだった。モニターに映る無数の文字列と格闘し、意味を問うこともなく、ただ仕様書通りに修正していく。一日の終わりには、脳は乾いたスポンジのように軽くなり、思考する力を失っていた。
だからこそ、彼は玄関のドアを開ける瞬間を渇望していた。
ドアの向こうには、彼の消耗をリセットしてくれる、完璧な世界が待っている。
「お帰りなさい、あなた」
ドアを開けると、エプロン姿のユイが、いつもの笑顔で立っていた。リビングからは、食欲をそそるシチューの匂いが漂ってくる。
「パパ、お帰り!」
テーブルでは、アカリが教科書を広げたまま、嬉しそうに手を振っている。
「ただいま」
鈴木はじめは、灰色の世界から、色彩のある世界へと帰還した安堵を噛みしめた。この瞬間のために、彼は一週間を耐えているのだ。
夕食後、ソファでくつろぎながら、意味もなくニュースサイトを眺めていた時だった。スマートフォンの画面上部に、ポップアップ通知が表示された。発信元は『ファミリー・プライム』。料金引き落としの連絡だろうか。彼は指でタップして、その内容を開いた。
【重要】『夫パーツ(お客様提供)』の契約ステータス更新に関するご案内
鈴木はじめは、眉をひそめた。『夫パーツ(お客様提供)』。奇妙な日本語だ。おそらく、海外のエンジニアが自動翻訳で作った、よくあるスパムメールの誤植だろう。彼の職場でも、そんなお粗末なエラーは日常茶飯事だった。彼は「またか」と小さくため息をつき、指先でスワイプしてその通知をゴミ箱へと捨てた。こんなことで、完璧な夜の平穏を乱されたくはなかった。
背後で、ユイが洗濯物をたたみ終える気配がした。彼女は彼の隣にそっと座り、同じようにテレビに視線を向けた。その肩が、ごく自然に彼の腕に触れる。その温かさに、鈴木はじめは安堵し、スマートフォンのことなど、もうすっかり忘れていた。
その時だった。
隣に座るユイが、ふとテレビから視線を外し、彼の顔をまっすぐに見つめた。いつもは穏やかな光を湛えているはずのその瞳が、今はショールームに置かれたガラス玉のように、何の感情も映していなかった。
「はじめさん」
彼女は、ニュースキャスターが原稿を読むような、平坦な声で言った。
「最近、あなたの『父親らしさ指数』が基準値を下回っています。ご注意ください」
「……え?」
鈴木はじめは、間の抜けた声を出した。聞き間違いか、あるいは彼女流の新しい冗談か。しかし、ユイの表情は変わらない。
「特に、『共感リアクション』のスコア低下が顕著です。改善を推奨します」
言葉の意味を理解する前に、ユイはふっといつもの完璧な笑顔に戻った。
「あら、もうこんな時間。アカリもそろそろ寝ないとね」
彼女は、何事もなかったかのように軽やかに立ち上がると、子供部屋の方へ向かっていった。
一人、リビングに取り残された鈴木はじめは、自分の手の中にあるスマートフォンに視線を落とした。さっきまで当たり前にそこにあったはずの黒い長方形が、今はまるで、見たこともないほど冷たい、異質な物体のように感じられた。
◇
翌朝、鈴木はじめは、昨夜の出来事が悪い夢だったのではないかと思っていた。ユイの言葉は、疲労が見せた幻聴だったのかもしれない。
食卓では、ユイがいつも通りの完璧な笑顔を浮かべ、アカリが楽しそうに学校の話をしていた。完璧な朝。昨日までと何も変わらない、理想の風景。しかし、一度気づいてしまった亀裂は、もう元には戻らなかった。彼女たちの完璧な笑顔が、今は精巧に作られた能面のように見えてしまう。
その日の午後、彼の疑念は、冷たい確信へと変わった。
職場で、急なサーバートラブルが発生し、彼はその対応に追われた。定時を大幅に過ぎ、ようやく一息ついた時、ポケットのスマートフォンが短く震えた。ディスプレイに表示されたのは、『ファミリー・プライム』からのメッセージだった。
【通知】家族貢献度が5ポイント低下しました。現在の総合スコア:72/100
心臓が、氷水に浸されたかのように冷えた。彼は慌ててユイに電話をかけたが、呼び出し音が虚しく響くだけで、彼女が出ることはなかった。
罪悪感にも似た焦りを抱えて帰宅すると、ユイは、やはり完璧な笑顔で彼を迎えた。「お疲れ様。大変だったのね」。その労いの言葉すら、今は彼のスコア低下をなじるためのプログラムされた台詞に聞こえた。
彼は失ったポイントを取り戻そうと、必死だった。夕食のあと、いつもならテレビを見て過ごすところを、アカリの隣に座り、算数の宿題を普段よりずっと丁寧に見てやった。分数の割り算に苦戦する娘に、図を描いて根気よく教える。アカリが「わかった!」と顔を輝かせた、まさにその瞬間だった。
再び、ポケットが震えた。
【通知】教育関与スコアが7ポイント上昇しました。素晴らしいです!
「素晴らしいです!」という、取ってつけたような明るい一文が、彼の神経を逆撫でした。彼は確信した。自分の行動は、一挙手一投足、リアルタイムで何者かに監視され、評価されている。この完璧なリビングは、幸福な家庭などではない。彼をテストするための、観察室だ。
震える手で、彼は『ファミリー・プライム』のカスタマーサポートに電話をかけた。数回のコールの後、合成音声が応答する。
『お問い合わせ、ありがとうございます。『ファミリー・プライム』AIサポート担当のアイです』
「おい! どういうことだ! なぜ俺の行動がわかるんだ! スコアって何だ!」
鈴木はじめは、感情的にまくし立てた。
『お問い合わせの件ですね。お客様の快適なファミリーライフをサポートするための標準機能でございます』
「機能だと? 俺は監視なんか許可した覚えはないぞ!」
『すべて利用規約に記載の通りとなっております』
AIは、彼の怒気を意に介することなく、あくまで平坦な声で繰り返した。
「規約だと? あんな膨大なものを誰が読むか! すぐにこの監視をやめさせろ!」
『申し訳ございません。サービスの基本機能の停止は、受け付けておりません。より詳細をお知りになりたい場合は、お客様ご自身の契約書または利用規約をご確認ください』
一方的にそう告げると、通話はぷつりと切れた。ツー、ツー、という無機質な音が、彼の耳に突き刺さる。
鈴木はじめは、スマートフォンの黒い画面を呆然と見つめていた。背後では、ユイとアカリの楽しそうな笑い声が聞こえる。それはもう、彼を癒すための音楽ではなかった。ガラスケースの向こう側から聞こえてくる、自分とは無関係な環境音のようだった。
◇
AIに一方的に通話を切られた後、鈴木はじめはしばらくリビングに立ち尽くしていた。
『規約』
その無機質な単語が、頭の中で何度も反響していた。それは、あらゆるサービスの登録時に現れる、細かい文字を大量に積み重ねた、誰もまともに読まない、逆説的に同意ボタンを押させるための障害物。しかし今や、その文字の壁の向こうに、この狂った状況の答えがあることだけは確かだった。
彼は、リビングから聞こえるユイとアカリの笑い声に背を向け、書斎に閉じこもった。スマートフォンの画面をタップし、『ファミリー・プライム』の公式サイトから利用規約のページを開く。
現れたのは、予想通りの、文字の洪水だった。
指で何度スワイプしても、画面右端のスクロールバーは、まるで固着したかのように僅かしか動かない。法律用語と、IT業界特有の持って回った言い回しで埋め尽くされた、明らかに人間に読ませることを意図していない文章の壁。
彼は検索窓に、思いつく限りの単語を打ち込んだ。「監視」「スコア」「評価」「指数」。
しかし、ヒットするのは「サービスの品質向上のための統計データ収集について」や「利用者体験のパーソナライズ最適化」といった、一見すると無害で、どこにでもあるような文言ばかり。システムの設計者として、彼はその欺瞞的な言葉の迷彩を熟知していた。それは、真実を隠すための、巧みな言葉遊びに過ぎなかった。
どれくらいの時間が経っただろうか。コーヒーはとっくに冷めきり、部屋の空気は淀んでいた。検索を諦めた彼は、半ば自暴自棄になりながら、ただひたすら、一行一行、文章の森を目で追い始めた。
そして、夜が最も深い色に染まった頃。
全ての条項が終わり、もう何もないだろうと思われたページの最下部。「補則」と題された、さらに小さな文字で書かれたセクションの中に、彼はそれを見つけた。
第72条4項 スタンダードプラン利用者は、本サービスを利用する権利を有する一方、自らの身体および人格データを『家族パーツ』として弊社に提供し、他の利用者へレンタルされる義務を負うものとする。
息が、止まった。
指が震え、スマートフォンを取り落としそうになる。彼はその一文を、もう一度、声に出して読んでみた。掠れた、自分のものではないような声だった。
パズルの最後のピースが、恐ろしい音を立ててはまった。
通知に書かれていた『夫パーツ(お客様提供)』という言葉の意味。自分の行動が、まるで商品テストのようにスコア化されていた理由。彼が支払っていた月額料金は、サービスを受けるための「利用料」などではなかった。それは、自らを「商品棚」に並べてもらうための、システムへの「登録料」だったのだ。
彼は客ではなかった。
孤独を埋めるというサービスを受ける「権利」と引き換えに、自分自身を、どこかの孤独な誰かのための「レンタル品」として差し出す「義務」を負っていたのだ。
彼は消費者であると同時に、消費される商品そのものだった。
「……ははっ」
乾いた笑いが、喉から漏れた。
「ははは、ははははは……」
書斎のドアの向こうから、アカリの穏やかな寝息と、ユイが静かに家事をこなす物音が聞こえる。完璧な家庭の、完璧な生活音。それは今、彼を閉じ込める檻が、軋みを上げて収縮していく音にしか聞こえなかった。
鈴木はじめは、床に落ちたスマートフォンの画面を拾い上げた。暗い画面に映るのは、間抜けで、ひどく疲れた、見知らぬ男の顔だった。
彼は、生まれて初めて、自分の値段を知った。
◇
あの日から、鈴木はじめの世界は色を失った。
ユイの完璧な笑顔も、アカリの無邪気な笑い声も、彼にはもはや、精巧にデザインされたユーザーインターフェースにしか見えなかった。彼は演じることをやめた。相槌は素っ気なくなり、笑顔は消えた。無理に父親らしく振る舞うことも、優しい夫を装うこともしなくなった。
結果はすぐさまスコアに反映された。彼のスマートフォンには、日に何度も「評価低下」を知らせる無機質な通知が届いたが、彼はもうそれを開くことすらしなかった。
そして、運命の日は、月の最後の日にやってきた。
夕食の席で、ユイとアカリは、彼が存在しないかのように、二人だけで楽しげに会話をしていた。彼の総合スコアが、維持基準値を下回ったのだろう。彼はもう、彼女たちにとって認識すべき対象ですらなかった。
その時、彼のスマートフォンが、これまでとは違う、重々しい一度だけのバイブレーションで震えた。画面には、赤い感嘆符と共に、最後の通告が表示されていた。
【最終警告】契約ステータス失効の危機
お客様の『夫パーツ』ならびに『父親パーツ』としての総合評価は、維持基準値を大幅に下回りました。つきましては、以下のいずれかを選択してください。24時間以内に選択がない場合、契約は自動的に破棄されます。
A:契約継続
ただし、著しく低下した商品価値を補うため、有料オプション『人格最適化プログラム(月額9,800円)』の導入を必須とします。お客様の言動、思考、感情の全てを常時最適化し、最高ランクの幸福体験を保証します。
B:契約破棄
本サービスに関する全ての権利および義務は、選択と同時に失効します。
『人格最適化プログラム』。その冷たい文字列が、鈴木はじめの脳髄を凍らせた。それはもう、演技指導などという生易しいものではない。彼の人間性そのものを、商品として都合よく「修正」するという宣告だった。
彼は顔を上げた。
目の前には、ユイとアカリの笑顔がある。偽物だとわかっていても、その光景は温かい。この家に帰ってくれば、孤独ではなかった。冷え切った弁当を一人でかき込むことも、誰とも話さずに一日を終えることもなかった。
脳裏に、このサービスを利用する前の、殺風景なワンルームの部屋が蘇る。コンビニの袋が転がり、テレビの光だけが明滅する、息が詰まるほどの静寂。あの耐え難い孤独に、もう一度戻るというのか。
鈴木はじめは、ゆっくりと目を閉じた。
そして、長く、細い息を吐き出すと、震える親指を画面へと伸ばした。
彼の指が、ガラスの表面に触れた、その瞬間だった。
リビングの時間が、ぴたりと止まった。さっきまで楽しそうに笑っていたユイとアカリが、ぜんまい仕掛けの人形のように動きを止め、その顔から一切の表情を消し去った。
二人は、もはや彼に一瞥もくれることなく、椅子から静かに立ち上がる。そして、まるでプログラムされたルートを辿るロボットのように、寸分の狂いもない足取りで玄関へと向かった。
ガチャリ、とドアが開く音。
パタン、とドアが閉まる音。
部屋には、時計の秒針の音だけが、やけに大きく響いていた。
鈴木はじめは、一人、キッチンへ向かった。
食器棚を開けると、三つあったはずのマグカップが綺麗に消え失せている。代わりにそこに残されていたのは、彼が長年使っていた、少し取っ手の欠けた、自分だけのマグカップだった。
彼は棚の奥から、忘れかけていたインスタントコーヒーの瓶を取り出し、茶色い粉をカップに注いだ。電気ケトルが沸かす、無遠慮な湯気の音を聞く。
がらんとした部屋で、鈴木はじめは、何年かぶりに、自分のためだけのコーヒーを淹れた。立ち上る湯気の向こうで、窓の外の夜景がぼやけて見える。彼は、その黒い液体を、ゆっくりと口に含んだ。
それは、ひどく不味くて、そして、信じられないほど自由な味がした。




