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晴れ舞台は貴人の茶会で(8)

 幼きアメリアは、ノスカリアからは遠い片田舎の小さな孤児院に居た。誰かの善意でなりたっていた施設はあまり豊かではなく、飢えこそしなかったものの必要最低で質素、かつ集団として厳しく行動制限された生活をしていた。


 育つにつれ、孤児院の窮屈さに嫌気が差してきた。毎日同じ人たちと毎日同じことの繰り返し。そして反比例して外の世界へ多大な憧れを抱くようになった。院長先生のしてくれる物語や、たまにある外から来るお客さんの話で聞く外の世界には、小さくて息苦しい孤児院と違って、美しくて優しくて楽しい夢の溢れる未来が広がっているのだ、と。


 そして十歳を前にした某日、我慢ができなくなった少女は夢の世界を求めて外へと飛び立った。人目を盗みわずかな衣食を携え孤児院を抜け出し、道沿いにしばらく進んだ所で馬を休ませていた幌付きの荷馬車を見つけて忍び込み、荷物にまぎれて眠りについた。次に目を開けば、遥か遠くの理想郷に居ることを夢見て。


 そうして荷物と一緒にたどりついたのが大陸一の都市ノスカリアだった。馬車の持ち主の悲鳴と怒号で外へ転げ出た少女の青い目が見たものは、どこまでも広く遠く並ぶ家々に、空高くそびえ立つ時計塔、そして見たこともない数の人間たち。目にしたすべてに圧倒され、そして心からの幸福に笑った。ほら、物語の通りに世界は広かった、憧れの世界にやって来るのはこんなに簡単だったんだ。


「――でも、私はなんにも知らない子供だったから。孤児院から離れられさえすれば幸せになれるって、本当に信じていたんです」


 しかし、現実とは夢とは違って過酷で非情なものである。残酷な事実を無垢なアメリアもすぐに味わう事となった。


 至って単純な話である。基本的な学も特別な技術もなく、出自も見目も特筆すべきものが無い娘など、人多きこの町では有象無象の一つで誰の目にも留まらない。雇うにしろ養うにしろ、もっと良い者がいくらでもいるのだ。見るからに訳ありのみすぼらしい子供がおっかなびっくり近づいて来るのだ、警戒されても仕方がない。


 冷たい風の吹き荒れる町だった。途方もなく広く縦横無尽に道が走り、雨風をしのぐ建物も山ほど建っている。それなのに、小さなアメリア一人を受け入れてくれる場所がどこにも見つからなかった。震える声で助けてと手を伸ばしても、人から差し出されるのは冷笑と侮蔑と罵詈雑言、そして極わずかな憐れみだけ。


 昼はあてもなく町をさまよい、夜は拾ったぼろ布を被って建物と建物の隙間で震えながら無理矢理眠り、施しに与えられたかび臭いパンや野菜くずで食いつなぐ日々が少し続いた。孤児院が天国に思えるくらいの酷い日々だった。夢に溢れていた目は暗く濁り、体は痩せ細って汚れ、だから町の人々からはますます煙たがられるようになり、さらに怯えて影へと逃げ込んで。小さな心身はみるみるうちに摩耗された。


 そして、その日がやってきた。決して忘れられないこの日が。


「あの日は……ひどい雨でした」


 石畳の道が浅い川になるような大雨だった。アメリアは人気の無い通りをずぶ濡れになって歩いていた。行くあては無い、そもそも居場所すらどこにも無いけれど、じっとしていた所で苦痛しかないのだから、気を紛らわせるために石のように重い足を動かしていたのである。


 本来は天恵であるはずの雨が容赦なくアメリアの体力をそぎ取った。――辛い、苦しい、悲しい、寂しい。寒さに震えながら、ふらふら、とぼとぼと歩く少女のこけた頬には、雨とは違う雫も流れていた。


 ふと、厚く暗い雲に覆われた空を仰いだ。そして神に怨嗟を送った。どうしてこんなに冷たい世界を作ったのだ、どうしてこんな恐ろしい世界に放り込んだのだ。そんな酷い神様なんて嫌いだ、居なくなってしまえばいい。溢れて止まない悲痛の叫び、しかし口に出す気力すらも消耗しきった身には残されていなかった。


 やがて視界が滲んで足が動かなくなった。そのまま音も無く地面に崩れる。ざあざあと流れる水に浸り、心にある小さな火が急加速的に消え入っていく。


 ――死にたくない。さっきの悪口は謝ります、だから助けて、神様。


 動かない唇で紡いだ言葉を雨音に乗せたところで、アメリアの記憶は一度途絶えた。 


 そして次に目を開けた時には、雨も風も無い空間に居た。眩しさに目を眩ませて、しかし生きていると感じた。


 視界が定まって来た時にまず目が合ったのは、椅子に座って足を組む一人の人物だった。全体的に黒くこざっぱりした風体の男は女神のように微笑んで、甘く柔らかい声で語り掛けて来た。その言葉は、今も一言一句忘れない。


『求めるものは何でも与えよう。さあ、君はこの私に一体何を望む?』

「――お腹が空いていたから。スープとミルクティをもらって、それがすごくおいしくって、温かくって。食べ終わったら、マスターが次はどうするんだって言うから、じゃあ、雨が止むまで居させてくださいって。そう、最初は雨宿りだけのはずだったんです」


 理由はわからないが自分に情けをかけてくれた人。嬉しかったものの、散々人から侮蔑された後では、その優しさが逆に恐ろしかった。何か裏があるのではないか、自分を突き落とすための罠なのでは、と。そんなアメリアの心を悟ってか、その人は過剰な干渉をせず、ただ見守るに徹してくれていた。


 そしてアメリアは知った。葉揺亭。そこは厳しい外とはまるで違う、異世界に等しいものなのだと。一日中静かで穏やかで寒さも飢えも存在しない。ここに居れば暴力に怯えることも、蔑みの目に俯くこともしなくてよい。一人の男を中心にゆったりと時間が過ぎていくだけの世界。ただそれだけの事、ただの何もない暇な日、それがアメリアには涙が出るほど羨ましく映った。


 次の日も雨で、その次もそうだった。さらに翌日になって、ようやく晴れた。寒々しいほどに青い空が窓の向こうに見えた。


 約束の時だ、出て行かなければならない。無条件で優しくしてくれたこの人には、せめて約束を守って恩を返さないといけない。そう心に決めたのに、しかし、外への境に立つと足はすくんで動かなくなってしまった。疲弊しきった幼子が虚勢を張ったところで、一人で何も持たず暗闇へ出て行けるはずがなかったのだ。


 外を向いたまま立ちすくんでいるアメリアの背に、亭主は再び選択を迫る声がかけられた。


『もし君が望むのなら、君はここで働くことができるだろう。そしてさらに望むのなら、ここに住むことも可能だろう。求めるならば与えよう、どうするかは君次第だ』


「――働くって言われても、なんにもできないし、何をしていいのかわからなくて。そしたらマスターは、話し相手になってくれればいいだけだって笑ったんです。それなら私にでもできるって思ったから、それからはずっとマスターのお世話になって来ました」


 アメリアは静かに言って、胸に手をやった。思い返せば、ただのマスター話し相手から始まったのが、今やずいぶん高い階段を登って来てしまったものだ。ここまで育ててくれたマスターには頭が上がらない、神様よりも尊い人である。


 アメリアが止めどなく昔話をしている間、サシャは一言も発しなかった。そして今も少し目を細めて、噛みしめるようにアメリアの言葉を静かに聞いていた。


「あっ、ごめんなさい。私ばっかり話して。しかも楽しくないお話をしてしまって」

「ううん、十分楽しかった」


 サシャは目をぱちっと開いて笑いかけた。


「でも、アメリアさん。もう一つだけ聞かせて」

「なんでしょうか?」

「今もまだ、外の世界は冷たいと思っているの? あなたのご主人の庇護下から外に出るのは恐ろしい?」


 アメリアはすぐに首を横に振った。これだけは断言できる。


「そんなことないです! 今はノスカリアの町が大好きですし、今日みたいに外で仕事をするのも楽しいって思いました。確かにちょっと怖い時もありますけど……でも、やっぱり私は、もっと色んなものを見て色んな所に行ってみたいと思います」


 身を乗り出さんかの勢いで答えると、サシャは「安心した」と微笑んだ。すっと傾けたカップの向こうにある表情からは、質問の意図は読み取れなかった。


「どうしてそんなこと聞くんですか?」

「そうね……私もノスカリアの事が好きだから、かな。愛するものを否定されるのは悲しい事よ。それに――」


 サシャは立ち上がり、バルコニーの縁へと歩き寄った。遠くに広がるノスカリアの街を望む。アメリアもつられて視線を動かす。


 風景は夕焼け色に染まっていた。街では日没を告げる鐘が打ち鳴らされて、それは屋敷にまで届き来た。一日の終わりを知らしめる音を合図に、商店街が昼夜の顔を変え、随所を夜警が見回り始め、ルクノラムの教会では礼拝が行われているだろう。ノスカリアの愛しき日常風景だ、見えずとも音だけで想起できる。そして次にアメリアは、そろそろ家に帰らないといけない時間だと思わせられた。


 すると冷涼なそよ風に乗って、サシャの声が聞こえた。


「私は、神なんて信じない」


 背中を向けたままの冷めた声にアメリアはどきりとした。同じ文句を使う人をよく知っている、しかし彼よりももっと攻撃的に色めいていた。


「この世界はルクノールの手の内にある。死ぬも生きるも全てはその人と共に。……そんなふざけた話があっていいはずない。魂は自分一人のもの、運命は自分の手で決められるべきよ」


 静かだが強い口調が近寄りがたい気配を醸し、アメリアは困惑して立ち尽くしていた。


 しかし、次にくるりと振り向いたサシャは、元通り穏やかな笑みを湛えていた。


「アメリアさんは大丈夫そう。ちゃんと自分の夢を抱いて、自分で選んだ道を自分の足で歩いていく。それがわかっていて、できる。誰かに縛られて生きているわけじゃない。だから安心した。これが、あなたの質問への答え。わかってくれた?」

「……はい!」


 自らが望むように生きる。葉揺亭に居ることを決めたのもそうだった。そして、これからも。夜の帳に覆われつつある街を遠目に眺めながら、アメリアは強く頷いた。たとえ世界が暗くても、落ち着いて目を凝らせば光が見つかるものと知ったから、心のままに歩いて行ける。


「ごめんね、アメリアさん、つい話しすぎちゃった。疲れているでしょうに」

「いえ。楽しかったです! お招きいただいて、ありがとうございました」

「こちらこそ。あなたと話せてよかった」


 サシャはテーブルまで戻って来て、立ったまま肩をすくめた。


「暗くなってきてしまったから、もう終わりにしましょうか。満足した?」

「はい。私もそろそろ帰らないとって思っていました」

「泊まっていってもいいんだけれども、どう?」

「え、わ……楽しそうです、けど、今日は家に帰らせてください、マスターが待ってますから。きっと心配してるし、私が帰るまで寝てくれないだろうし」


 マスターはどんな時もそうだ。玄関を開ければ必ず待っていてくれる。不夜祭のときですらそう、真夜中でも夜明け近くでも、いつも変わらぬ顔で待ってくれていた。だから何も伝えず帰らないなんて、そんな不義理はできない。


 アメリアが照れくさそうに頬をかくと、サシャは小さく声をあげて笑った。


「アメリアさんはとても愛されているのね」

「重すぎるくらいですよ! 時々面倒くさくなります、私のマスターって」

「そうなんだ。私も会ってみたいな、あなたのマスターがどんな人か」

「じゃあ、お店に来てくださいよう。私も嬉しいです、今度は私の方が歓迎してお菓子とか準備します」

「うん、わかった。必ず、近いうちに」

「ええ、いらしてください!」


 それからサシャはアメリアの帰路に馬車を出してくれた。同じ町の中で大げさだと断ったが、向こうは女の子一人送り出して何かあったら堪らないと。クロチェアの屋敷から帰って来た時と同じ馬車に今度は一人で客席に座って、少し大回りの馬車道を駆けて帰った。


 そして葉揺亭に一番近い大通り沿いで降ろしてもらった。この頃にはすっかり日が暮れていて、明かりの少なく道も細い住宅地に馬車を乗り入れるのが難しかった。


「シユさん、送ってくださってありがとうございました。サシャさんにもよろしくお伝えください。あと、このショールの事も!」


 馬車を走らせてくれたシユに手を振って別れ、アメリアは肩のショールの結び目を握って走り始めた。ショールは今度葉揺亭で会った時に返してくれれば構わないと、サシャが貸したままにしてくれたのだ。


 よく見知った道を息を切らせて通り抜け、すぐに自分の家が見えて来た。今日一日の思い出話を胸に、蔦の葉扉の向こうへと飛び込んだ。ただいま戻りました、と明るく声を弾ませながら。


 するとカウンターの向こうに座るマスターと目があった。


「おかえり、遅かったね。茶会は日にある内に終わったはずなのに、もうすっかり暮れてしまった」


 マスターはひどく不機嫌だった。目もまったく笑っていない、これはアメリアの想定外だった。


「それと馬車の音が聞こえなかった。クロチェア公は復路の足は出してくれなかったのか? 供すらなしで君を一人で歩かせたと? とんだ仕打ちじゃないか」


 ぎらつくナイフを振りかざすようなイメージがアメリアには浮かんで、ひぇと息を飲んだ。おたおたと手を振りながら、ひとまずクロチェア公にかかる嫌疑を否定する。


「ち、違います、誤解です! クロチェア公は良くしてくれましたし、ちゃんと帰りの馬車だって用意してくれました。でも……」

「でも?」

「終わった後、今度はラスバーナのお屋敷に呼ばれて、ついさっきまでそちらに居ました。クロチェア公のせいじゃないです」


 弁明を聞くとマスターの気が緩んだ。ふう、と温かい息を吐き出して、控えめな笑みを浮かべた。


「なんだ、そうだったのか。だったら少しここに寄って、先にそう言ってくれればよかったのに、心配させないでくれよ」

「ごめんなさい。今度はそうします」

「まったく、ジェニーも水くさいなあ、僕だってそれくらいは許可するのにさ」

「あっ」

「ん?」

「ジェニーさんは違うんですよ」

「違うって?」

「ジェニーさんと会長さんは茶会に来られなかったんです」

「はあ」

「それで代わりにお嬢様がいらっしゃってて。そういうわけで、私、サシャさんとお友だちになったんです!」

「……なんだって?」


 マスターの声が間抜けた風に裏返った。そりゃ驚くだろう、アメリア自身が驚くような、意外すぎる出来事だったのだから。


 珍しく目を丸くしたまま固まっているマスターの様子に笑みをこぼしながら、アメリアは胸を張って宣言した。


「心配しなくても、ぜーんぶ話しますよ! マスターに聞いてもらいたいこと、たっくさんあるんですから!」


 サシャのことだけではない、茶会の事も全部だ。濃密だった晴舞台の行く末を主にも知ってもらいたい。マスターの信じてくれたように、一人でも仕事ができたのだとわかってもらいたい。


 アメリアはまとめていた髪をほどいた。シユが結い直してくれた髪は、彼が言った通り今の今まで崩れず決まっていたものの、やはりほどいた方が落ち着く。今度からはどんな場面でもいつも通りの自分らしくやろう、こっそりと心に決めた。


「ええと、マスター、何から話しましょう。そう、私、大活躍だったんです! すうっごく褒められました!」


 あれもこれも言いたい、伝えたい。疲れているはずなのに、体はまったく重くない。感情も高ぶる一方だ。


 興奮は冷めやらぬまま、大団円の後の反省会が始まって、今日の葉揺亭は眠らない。夜はお化けが出るから早く寝ないと? アメリアはもうそんなことに騙されるような幼子ではないのだ。


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