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自由への選択(3)

 マスターはニヤリと笑いながら、口を挟ませる間もなく言葉を連ねた。叱咤や説教を思わせるような、厳しい口調だった。


「仮に足が動いたとしても、永遠に逃げきる事なんてできるものか。今の君は、小さな部屋の中で捕まるまいと必死で羽ばたいている哀れな小鳥。本当の意味での逃げ場などないのに、滑稽に飛び回り続けて消耗している」

「どういう、ことですか」

「そうだな。例えば、君が不思議な力で壁を抜けられるように、不思議な力で君の居場所を地図上に示せる人間がいたとしたら。あるいは今この瞬間にも、君は千里眼のようなもので見張られているのかもしれない。現に政府から君を訪ねて人が来ている、それすなわち君の居場所は政府に筒抜けと言う事だ。そんな状況で絶対に捕まらないとなぜ言い切れる」


 絶対に、という言葉ほど不確かなものはない。いつだって常識を覆す非常識が起こるのが人の生きる世界である。現にアーフェン自身、人間の常識、果てには異能者の標準からも逸脱している奇跡のような力で、今このノスカリアに存在しているのだ。


 アーフェンは青い顔になっていた。自分はもう自由になったのだと、どこにでも行けるのだと思い込んでいた。追われたらまた逃げればいい、壁をすりぬけられるのは自分だけだから行方をくらませるなんて簡単だ、と。ところがその見通しは、今飲んでいる薬湯と同じくらい甘く不確かなものだったと言う話で、反論する余地もなかった。


 しかし、それなら一体どうしたらいい。思いはすれど、言葉にする気力が無かった。ただただアーフェンは暗く狭い密室を思い、俯いていた。


 聡い店主に心を伝えるには、その姿だけで十分である。マスターは台についた手を組み直し、一転、優しい示唆をした。


「君はいかなる壁も涼しい顔ですり抜けられるだろう。それはすばらしい力だ。だが、時には壁と向き合ってぶち壊すくらいの心意気が必要だろうね」


 マスターはおもむろに立ち上がり、カウンター席側へ手を伸ばして最初のティーセットと並んでいた薬草の小皿を取り上げた。そうしながら視線は真っ直ぐにアーフェンを貫いていた。


「さて、アーフェン=ロクシア。今さっきまで君が手にしていたそれは、とても甘く優しいが、まやかし程度の効き目しかない。でも、これなら多少苦い思いはするが、相応の効果は得られる。そして、君が忌避する例のあれなら、一時は死ぬほど辛いとしても、ほぼ確実に苦難から解放されるだろう」


 そしてマスターは小皿をもう一度アーフェンの正面に置き直した。


「どれを選ぶかは自分で決めろ。そして自分で結果を噛みしめろ。自分で自分に責任を持て。自由でありたいと願うなら、それくらいできなければならない」


 緑の瞳の奥の奥を、マスターはのぞき込んでいた。果たして返答はいかなるものか、答えがそこに書いてあると言わんばかりに。


 アーフェンは頑なに口を閉ざしていた。何度も瞬きを繰り返しながら、ずきずきと走る痛みを噛みしめながら。壁を見て、諦めて引き返すのはとても簡単である。すり抜けるのも容易だ、先に何があるか見えない点が少し怖いだけで。だが、壁を壊そうと思ったら、この細腕ではどれだけ労を割くことになるだろうか。


 さて選択はいかなるものぞ。答えを督促するかのように、時計の針がやかましく音を立て続けていた。



 しばらくして、少年が久方ぶりに声をだした。


「ごちそうさまでした」


 そうマスターに告げると、飲みかけの茶もそのままにして、隣に立てかけてあった杖へ手を伸ばした。アメリアが慌てて手を貸しに立ち上がる。


「おや、もう帰るのかい?」

「……ひとまず、急いでこれを治してもらいたいですから。そうしないと何もできません」


 アーフェンはちょっと肩をすくめて苦笑した。しかし、どこか吹っ切れた、すがすがしい青空を思わせる顔つきだった。


 マスターは黙したまま、満足気に頷いた。


「それじゃあ、また来ますから。今度来た時には、この店で一番いいお茶を出してくれるようお願いします。えーと、その……生まれ変わった記念に、です」

「ああ、わかった。君のために、とびっきりの逸品を用意して待っているよ」


 アーフェンは一礼すると、葉揺亭から飛び立っていった。こつこつと杖をついてゆっくり歩く姿は痛々しいが、それでも、入って来た時より幾分身が軽そうなのが印象的であった。



 

 アメリアが後片付けをしていた。アーフェンの事情について、彼が帰ってからマスターは何も触れなかった。だからアメリアも特に話そうと思わなかった。


 だが、ふと気になってマスターに尋ねた。


「そうだマスター。葉揺亭で一番いいお茶って、どんなものを出すんですか?」


 メニューに載せてない茶だって、マスターの思い付きでどんどん出てくる。値段だって店主が適当に決めている。マスターはアーフェンに対して少し入れ込んでいる部分があるし、そもそも茶に詳しい相手だ、そんな相手から記念に一番いいものなんて頼まれたら、果たしてどんな希少な代物が出て来るか。店員としてもわくわくしてたまらない。


「たぶん君が考えているような物じゃないよ。少なくとも、値段の話じゃあない」

「う……で、でも『いいもの』ですから、素敵なものではあるんでしょう?」

「何が良し悪しかは人によって変わるものさ。彼の自由を祝福するには、難しい事はせず、デジーランがいいと思うんだ。エルキナ島産の、ね」

「……ん、あれ? それって、うちには無いですよね? すごくおいしいけれどノスカリアには出回らないって、マスターが言ってたんじゃないですか」

「おおっ、よく覚えていたね、その通りだよ! 成長したなあ、アメリア」

「たったの三日前のことですもの、さすがに忘れないですよう」


 三日前、雨天で客が来ず暇をもてあましたマスターが、デジーランと呼ばれる茶の産地とそれぞれの違いについて、アメリア相手に延々と講釈を垂れていたのだ。さすがに全部を記憶していたわけではないが、出て来た地名くらいは頭に残っている。


 エルキナ島というのは、統一政府の中枢もあるエバーダン諸島に属する島で、世界で三本指に入る標高の山を擁している。その山腹で生産される茶が件のデジーランで、澄みきった華やかさと清々しい爽やかさで大変美味だと、茶に通ずる者の間では有名な話だ。


 元々流通量が少なくて希少、しかも諸島には世界を統べる政府の最上層の人々が居を構えているのだ。エルキナ島のデジーランの九割は、そんな支配者層の豪奢な生活を彩る高級品一つとして消費されている。ゆえに大陸まではほとんど出回らないのだ。


 名家の生まれであるアーフェンならば屋敷に居た頃に、一度くらい件の茶を口にしたことがあるだろう。家との因縁を断ち切れないままだったら、思い出したくない思い出に囚われて、素直に銘茶を楽しめまい。だが彼は過去を打ち破るはずだ。なればこそ、この茶の他にふさわしいものはない。そうマスターは考えていた。


 ただ問題は、アメリアの言う通り、葉揺亭にエルキナ島の茶葉が無いのである。ノスカリアを牛耳る大商会・ラスバーナの力を見込んで誠心誠意頼み込んだとしてもだめだ、彼らの力を持ってしても今まで流れていないのには理由があるに決まっているし、理由が無くても流通の新規開拓には時間がかかるもの、アーフェンが決着をつけて帰ってくるのには間に合うまい。


 確実に今すぐに手に入れる方法はある、自分が直接エバーダン諸島へ出向くことだ。産地まで行けば、直接交渉で物を譲ってもらえる自信がある。葉揺亭の外には極力出たくない、という最大の難点を除けば最高の手だ。


 マスターはしばらく考えていた。そして、決めた。――若者を祝福するためだ、ここで動かないでいつ動く。


「アメリア。そういうわけだから、明日から久し振りに店を休みにするよ。いいよね?」

「いいですけど……まさかマスター、海の向こうまでお茶を買いに行くつもりですか? どっ、どれだけ長いお休みになるんですか!?」

「そんなにかけずにどうにかするさ。でも、そうだな……三日の予定にしておいてくれ」

「三日!? そんなの――」


 あり得ない。同じ大陸で一番近い他の都市まででも五日はかかるのに。そう言いかけたが、アメリアは空気だけを吐いて口を閉じた。そう、あり得ない事なんてない。壁を素通りする少年が居たり、ひどい怪我をすぐに治す力の使い手が居たりするわけだ。知らないだけでマスターも、不眠不休で海の上を駆ける馬を乗りこなしたり、超高速で空を飛ぶソファーやベッドを持っていたりするのかもしれない。

葉揺亭のマスターは神に並ぶ魔法使いである。そんな説を披露していた魔女も居たとは記憶に新しい。


 ところでその件、本当の所はどうなのだろうか。気にしてはいなかったが、まったく気にならないわけでもない。


「あのう、マスターは……」

「なんだい?」


 マスターは少し意地悪な風に笑んで、質問を待っている。何を聞かれるかわかっている風に、そして答えたくてたまらない風に。


 どうやって海の向こうまで行くつもりか、マスターは魔法使いなのか。もちろん気にならないわけではないが、それとは更に別に、今日はずっと引っかかっていることが一つあった。


「マスターは、アーフェンさんのことを特別扱いしていませんか?」


 マスターは意外そうに目を丸くした。


「えっ、そう見える?」

「はい。他のお客さん相手だったら、あんな風に厳しいこと言ったりしませんよね。それに、いくらお祝いとは言え、マスターが自分から外へ出るって言うなんて」

「ああ……どうにも放っとけなくてね」

「だから特別に、ですか?」

「彼がと言うか、正確には今回のことが特別と言うか……うーん、まあ……」


 マスターは露骨に目を逸らし、意味もなくふらりと食器棚へ向かった。そしてアメリアに背を見せたまま一言。


「鏡を覗き込んだみたいだったから、かな」


 アメリアは首を横に倒した。――さっぱりわからない。


「ああ、そうだ!」


 マスターが不意に手を叩いた。くるりと体を回転させてアメリアへ向きなおる。いいことを思いついた、そんなオーラで顔が輝いている。だから逆に嫌な予感がして、アメリアは身構えて一歩後ずさった。


「ねえアメリア。僕が留守にする間、君がここに立って店番をしてみないかい? そうすれば休みにしなくて済む」

「えっ、えーっ!? それは、私が、お客さんにお茶を出すんですか? お金をもらって、一人で!?」

「そうだよ。僕の代わりだ」

「むむむ無理です! そんなのできません!」

「大丈夫だ。君の淹れる紅茶もおいしいし、君は僕の事を本当によく見ている。だから、できるさ」

「だめです、できないです! 私じゃあ、せっかく来てくれた皆さんをがっかりさせてしまいますもの、いけないです、そんなの!」


 お茶を淹れるだけなら、まあできる。だがマスターのやることはそれだけでない。お客さんに聞かれたらスムーズに説明をしたり、客の好みに合わせてちょっとした工夫を利かせていたり、他にも他にもたくさんある。それはとても真似できない。だからマスターの代わりなんて務まるはずがない、絶対に。


 今にも玄関から逃げ出さんばかりに、アメリアはぶんぶんと手を振って後ろに下がっていく。それを見たマスターは、鼻にこもったため息をついた。


「そりゃあ残念だ。でもまあ、君がそう言うならしかたないな。突然の事で常連たちには悪いが、明日から葉揺亭は三日間休業だ。じゃあ良い休日を、アメリア」


 そう控えめな笑顔で言ったマスターの声が心底残念そうであり、どこか落胆にすら近いものを含んでいたのが、アメリアの心にちくりと刺さった。


 ――私だって、いつかはできるようになりたいですけど。


 どこかで越えなければいけない壁であるには違いない。だが、今すぐに一人でやれと言われても無理だ、できない、自信が無い。


 アメリアは思わず窓から外を見やった。ほとんど玄関口だから、店の前から十字路まで道をずっと見通せた。先にそこをゆっくり通っていった少年はもう遠くへ行ってしまったのだろう、背中を見つけることはできなかった。

葉揺亭 本日のスペシャルメニュー

「外傷治療の薬湯・お子様向けレシピ」

薬草を煎じた薬が苦くて飲めないとぐずる子供のための甘い薬湯。

解熱鎮痛、化膿止め、代謝促進、鎮静に効果が期待できる三種の薬草を申し訳程度の量に加え、その臭いや味をごまかす花や果実や蜂蜜が大量に含まれている。

薬としての力は、効くと思って飲めば効いた気がする、程度の代物。

そもそも外傷の治療は外科的な処置の方が重要で、飲み薬は補助的なもの。最終的には本人の気力体力が鍵になるので、その意味では十分な作用を持つとも考えられる。


「エルキナ島産のデジーラン」

デジーランとは茶樹の一種で、世界各地の山間で栽培されている。この樹から生産される紅茶葉は高級品として取引される。

中央諸島のエルキナ島で生産されるものは上品で繊細、なおかつ華やかな味わいと爽やかな飲み口で、デジーランの中でも特級品として知られる。

紅茶好きはイオニアン全土の紅茶で頂点に位置すると持て囃すが、流通量はかなり少なく入手が困難。海を越えた大陸の人間で口にした経験がある者は少ない。

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