自由への選択(2)
が、杖に助けてもらわなければ歩行もできない身で立てるはずもなく、結果、床にもんどりうつのみ。ギャンと一度だけ鋭い悲鳴を上げた後、足を抱えて丸くなっている。冷や汗にまみれて背中を震わせ、深い痛みをやり過ごすように荒い息を繰り返す。トレードマークの中折れ帽も、所在をなくしてぽつねんと床に転がっていた。
「だっ、大丈夫ですか!?」
アメリアも顔色を変えて駆け寄った。
その一方でマスターは、目の前の惨状が目に入らないかのように悠々とした所作で茶葉の調合を再開しており、今は沸騰したケトルを取りに行きながら、怪我人を介抱するアメリアへ声だけをかけた。朗々と、やたら芝居がかった口調で。
「ねえアメリア、よくよく思い出したまえ。昨日の政府のお嬢さんたちが探していたのは、『アーフェン=ロクシア』なる人物だっただろう? でも、そこに居るのは『アーフェン=グラスランド』君だ」
「はえ!? でも……ここに居るかもって、ギルドの人に教えてもらったって……」
「みんなで人違いをしているんだよ。君も知っての通り姓が違う、だからそこの彼とは別人だよ。なあ、そうだろう?」
アメリアは困り果てていた。確かにマスターの言っていることは真であった、昨日の今日では記憶もなくならない。だが、このアーフェンがとても無関係ではない反応を示しているのも真だ。困惑をあおる様に、マスターがポットへ熱湯を注ぐのんきな音が脳の中へ反響する。
マスターはいつも通り涼し気な顔で、頭を沸騰させているアメリアに小さく笑い声をこぼした。そうしながら、黒い瞳をちらりと倒れている少年へ向けた。顔つきとは裏腹の、品定めをするかのような鋭い力が黒の中に込められていた。
そしてアーフェンは、怒りといたたまれなさが入り混じった顔を見せていた。アメリアに背中を支えられて床に座し、唇を噛みしめながら、反抗的にカウンターの向こうの男を見上げていた。
彼は寂しそうにしていた帽子を拾い上げると、ぐっと頭の頂点に押し込んだ。軽く顔を伏せると、つばに隠れてまなざしは遮られた。
そうしてしばらくしてから、アーフェンはようやく重い口を割った。
「名前を偽るとは、そこまで辱められなければならない悪でしょうか」
アーフェン=ロクシアの翡翠の瞳には、ほの暗い火が燃えていた。帽子の影から覗くまなざしが、一線を越えた者を責めていた。
だがマスターは、火花を消し飛ばすかのような強く軽快な笑い声をあげた。
「いいや? 他人の名を騙るでもなく、自分で自分に新たな名を与えるのだとしたら、そこになんの罪がある。ただそれならば、生まれ変わったつもりで徹底するべきだと思うだけさ。親から与えられた名を捨てきれず、しかし家系は嫌悪し出自を隠す。そんな中途半端なままでは、結局過去との縁は切れず、何者にもなりきれず終わるだけさ」
皮肉めかした短い笑い声で閉められた言葉に、アーフェンは顔が歪むほどに歯ぎしりをした。彼の隣で、アメリアもしかめ面をマスターに手向けていた。
まあ、座れ。マスターは床にへたり込んだままのアーフェンに、指のジェスチャーで示した。嫌味ではなく大真面目に。
もちろんアーフェンは眉をひそめた。こんな不愉快な店は出て行く二度と来ない、そう突きつけても当然な仕打ちで、実際にそうしてやろうと思った。だが、一方的に言われっぱなしで去るのもまた不愉快、負けて逃げたみたいだから。不自由な足が脈打つように痛みを響かせるのも神経を逆なでし、気持ちが荒れに荒れて来る。
「……アメリアさん、手を貸してくれませんか。椅子に戻りますから」
「い、いいんですか?」
アーフェンは黙ってうなずいた。ひりひりとした空気を肌に感じ、アメリアは不安のままアーフェンの肩を支えた。
アーフェンが元の席へ着する。それと同時に、マスターが新たなカップを差し出した。白く厚手のマグで、中には透明で淡い枯草色の液体が八分目に注がれていた。
「とりあえず、お飲み。思いっきり甘口に調合したお薬だよ。まあ、そうすると薬草なんてほとんど入れられないから、ただの甘いぬるま湯みたいなものだけど」
「……ありがとうございます。でも、そんなものが効くんですか」
「気持ちの問題さ」
意味深にほほ笑む店主に、アーフェンは若干の疑いの目を向けた。そうしながらマグを取り、怪しい臭いがしないことを鼻で確かめた後、ちびりと口をつけた。
なるほど、甘い。蜂蜜が甘味の主で、ハーブ類を原料とした花と果物のような華やかな香りも少しつけられている。花盛りの花畑に身を沈めたような心地だ。そんな体を包み込む甘やかなヴェールの向こうから、芝を刈って燃やしたような青く煙っぽい香りの風がそよいでくるような。だが、苦い渋いと嫌悪し騒ぐほど強くはなく、むしろよいアクセントに感じられた。
単純に温かい飲み物としては上等だ、とアーフェンは思った。しかしやはり、こんなもので薬効は無い気がする。飲食で気が紛れただけで、今も足は動かせないほど痛く鎮まる気配が無い。変わったものと言えば、眉間の皺が無くなったくらいだ。
マスターはアーフェンの対面に椅子を持って来て自分も座った。困ったように立ち尽くしていたアメリアにも、適当に客席へ座るよう手で示した。そしてアーフェンがマグを一度置いたところで、マスターは穏やかな吐息をこぼした後、両手を組んで語りかけた。
「まあ、君が偽名を使う理由は理解できるよ。だって、ロクシア家と言えば、政府中枢の高官を輩出してきた高名な家系だ。君の父はブロケード=ロクシアだろう? 彼は間違いなく東方大陸の総裁、万民の頂点に立つと目される大人物じゃあないか」
「そんなことは問題ではありません」
「ああ、わかっているさ。真の問題は、ブロケード=ロクシアが異能排斥を推し進めて政府でのし上がって来た人物であること。ゆえに君は、自分の身を守るために姓を捨てる必要があった。そういう事だろう?」
同情するような口ぶりでの指摘に、アーフェンは薄く自嘲した。
「その通りですよ。『人ならざる力を持つものは人にあらず。人の世にて守られるべきにあらず』、それがあの人を一躍させた主張です。異能に人権無し、そんな法制度になったのは全部あの人のせいです」
カウンターの上でぐっと拳が握られる。落ちた目線はマグの水面、かすかに反射する自分の顔を捉えていた。
「父親だと思ったことはありません。そもそも、一度だって対面したことが無いのですから。……そんなに恐ろしいのなら、いっそ生まれたばかりに殺せばよかったのに」
「アーフェンさん、それは……きっと、お父様にも何か考えがあって――」
「同情なんていりません。あの人の心中なんてどうでもいい。生まれてから十五年間、私は籠の鳥として囚われていた、それがすべてですから」
言い捨ててから、アーフェンは水分を口に含んだ。
アメリアはまだ何か言いたげにしていた。しかしマスターに目線でたしなめられ、うつむいて口を閉ざした。
一度堰が切れたら、放っておいても水は流れていくものだ。アーフェンは誰に聞かれずとも、己の身の上を粛々と語り始めた。マスターもたまに相槌を打つくらいで、好きなだけ彼に話させた。
アーフェン=ロクシアの物心がついた時、肉親の姿は既に傍らに無かった。子供用の生活家具が揃った一室と、交代で世話をしに来る二人の使用人、それが世界の全部であった。
あなたは生まれつき不治の病気なのだ、外で普通の人と一緒に暮らすと具合が悪くなって死んでしまう。閉じ込められている理由はそう説明されて、幼く純朴なアーフェンは納得していた。この説明はアーフェン本人だけでなく、家の外の人たちにも使われていた。不幸な話、外野が触れてはいけない悲劇、そうすることで子供の存在を外に知られることすらも妨げたのである。
父親だという男とは直接会ったことがない。どうして父は会いに来てくれないのかと世話役に聞けば、ずっと他所の大陸に居るのだとか、仕事が忙しいとか、人に移る病気で体調を崩しているだとか、色々な言い訳がなされた。
一方で母親だという女は、稀にだが使用人と一緒に様子を見に来てくれた。だが、日常的に接しない相手では、母と名乗られても使用人より他人感がひどく、何を話していいのかすらわからなかった。その他所他所しい空気に向こうがいたたまれなくなったのだろう、時を重ねるごとに彼女が訪ねて来る機会は減り、最後は二、三年、会わずじまいである。
生活自体は恵まれていた方だ。食事の質もよく、本当に体調を崩せば医者を呼んでもらえたし、学習も手厚く受けられた。欲しい、知りたい、そうねだったものは特に障害も無く与えられた。成長して部屋を狭く感じるようになり、それを世話人に訴えると、片時も使用人が離れない事と来客時でない事を条件に、屋敷の中に限って出歩くことが許可された。囚人のように監視されている、その一点さえ除けば楽園だったかもしれない。
十歳ぐらいの頃、不憫に思った使用人が、主には内緒で町へ連れ出してくれたことがあった。それで広く自由な外の世界と人々に触れ、卒倒しそうなほどに衝撃を受けた。それがきっかけだ、自分が不自由な籠の鳥だと思うようになったのは。この外出は何度か行われたが、やがて主人にばれて、それからは使用人も無茶をしなくなった。アーフェンも彼らの身を案じ、無理に頼みはしなかった。
代わりに夢を見るようになった。大人になって病気に負けない体になったら、自由という名の翼で外塀の向こうにある世界を好きなように飛び回る。そんな空想をして、自室の窓から外を眺める日々。それが数年間続いた。
そして今の歳になって、自分が壁を抜けられる事に気づいたのである。偶然の出来事だった。屋敷に来客がある最中は、万が一にも客が迷い込んで接触しないよう――一度そういう事があったのだ――部屋のドアには外から鍵がかけられた。また、カーテンも閉めるように命令されていた。狭く暗い部屋に押し込められ何もできない鬱屈とした時間、息を詰まらせながら、おもむろに閉鎖された扉にもたれた。そうしたら、そのまま背中から廊下へ投げ出されたのだ。
最初は何が起こったのかわからなかった。自分の常識では、ただの人間が壁をすり抜けることなんてあり得ない。そう、普通の人間ならばそんなことできるはずがない。自分の父親が一生懸命に世界から排除しようとしている、人外の力を持った存在でない限りは。
そして、少年は悟った。己が実の親から疎まれている真の理由、世間から隔離され囚われている理由を。途端に世界が変容して見えた。
「――そして手段を得た君は、すぐに籠から逃げ出した」
「悪いこととは思いませんよ。たとえ人でなかったとしても、私だって生きている、自由を謳歌する権利はあるはずです」
「違いない、違いないよ。僕だってそう主張するさ」
大仰に身振りをつけながら、マスターは楽しそうに賛同した。その様にアーフェンはすっかり気を許して、ご満悦の表情だった。
ところが、ここにきて店主は顔を急変させた。真摯なまなざしで、世間知らずのお坊ちゃまを強く咎めるように。
「それで。君はこのまま逃げ続けるつもりなのか?」
「……あたり前ですよ! 捕まったら、もう逃がしてはくれないでしょう。生かさず殺さず閉じ込められる、そんなの二度とごめんです。もちろん、捕まって殺されるのも嫌です」
「そんな足で逃げ切れると?」
「これは、そのうち治りますから。今だけの辛抱で、今だけ追手をやり過ごせれば。そうすれば、私はどこにでも行けます」
「治るかなあ。君は、治療からも逃げているじゃあないか」
アーフェンが苦虫を噛み潰したような顔になった。




