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自由への選択(1)

 例えば平々凡々な隣家の住人がある日忽然と姿を消したなら、何か悪い事件に巻き込まれていやしないかと心配し、そのまま音沙汰がなければ、不安は日増しになっていくだろう。しかし、隣人が貿易商だと知っていたら、不意に長期間姿を消しても大して心配はしまい。隣人が時に裏社会にも関わる異能者だったなら、急に消息を絶っても当然の事と受け流すだろう。


 さて、葉揺亭の常連客にアーフェン=グラスランドという少年が居る。他所の土地からノスカリアへ流れて来て、今は異能者ギルドに所属して生計を立てつつ、週に少なくとも二日は葉揺亭へやって来る。それが彼の日常だった。


 そのアーフェンが不夜祭の頃から葉揺亭に来なくなっていた。最近彼を見ないなと、マスターが不意にこぼしたのが不夜祭の次の週だった。そして今は月が変わって、白月季(はくげつき)の第一節が終わる頃。日数で言うなら、はや四十日以上が経過している。


 異能者ギルドの構成員は仕事の都合で遠出することもあるし、アーフェンに関しては、元々ノスカリアに留まるかも不確かな旅人だった。ゆえに葉揺亭の二人は、時々名前を出して気にしこそすれ、始めはあまり心配をしていなかった。昨日今日になって、アメリアが彼の身を案じる呟きを時々漏らし始めた、その程度だった。


 そして今日。件の少年が、本当に久しぶりに姿を見せたのである。窓の向こうにトレードマークの中折れ帽がちらりと見えた時点で、アメリアは嬉しい悲鳴で跳びあがって出迎えに行った。しかし入り口の扉を開けて彼と対面したアメリアは、今度は正真正銘の悲鳴で空気を切り裂いた。


 現れたアーフェンは両脇で補助杖をついていた。包帯でぐるぐる巻きの左足を膝から曲げて浮かせ、杖で体を引きずりゆっくりと歩んで来る。


「あ、アーフェンさん! その足、どうしたんですか!?」

「ちょっとしくじってしまって……心配しないでください、良くなってきてはいますから」

「そんなこと言われても……あっ、椅子ひきますね!」


 アーフェンは杖でコツコツとゆったりしたリズムを奏でながら、いつものカウンター席へ向かい、アメリアが引いた椅子をなかばよじ登るようにして着座した。補助杖は隣の椅子へ立てかけて、首は左右にひねり肩は回して体をほぐす。とても安堵した表情を浮かべていた。


 マスターはカウンター越しにアーフェンの脚を覗きこんでいた。力なくぶら下がる左足は、布がこすれる刺激だけでも痛むのだろう、ズボンが膝丈で切り取られている。保護具として固く巻かれた包帯が多少厚めにしてあると言っても、ふくらはぎのあたりが不自然なほどに太くなっていた。それを確認して、マスターはぐっと眉をひそめた。


「ずいぶんと腫れているな。よほど性質の悪い毒にやられたか、処置が悪いのか、どちらかだぞ」

「それはまあ、両方だったんですよね」


 アーフェンは肩をすくめて小さく笑った。


「でも、動けるようになりましたから。つい四、五日前までは寝込んでいたんですよ。幻覚が見える高熱なんて初めてでした」

「笑いごとじゃあないぞ、死んでいてもおかしくない。そうなる前に魔法的な治療を受けなかったのか? ギルドの伝手で誰かしらあてがあるだろう」

「とッ、とんでもない!」


 アーフェンは瞬時に顔を青ざめさせ、その前で手をばたつかせた。


「マスターは知らないでしょうけど、あれ、めちゃくちゃ痛いんですよ!? 溶岩に下半身突っ込んだらこうじゃないかってくらいの、それこそショックで死にそうなほどです!」

「だが、その一時さえ我慢すれば、一般の医術では敵わないほど早く綺麗に治る。この時世で治癒術にあずかれるのはギルドに所属するゆえの特権でもあるのだから、うまく利用しなよ」

「無理です、嫌です! あんな痛い思いをするくらいなら、こっちの痛みをしばらく我慢した方がましです」

「……まあ、どうするかは君の自由だけどさ。一生引きずる羽目になるより、一瞬を耐えた方がましだと思うよ」


 マスターはやれやれとばかりに息を吐いた。アメリアも横で難しい顔をしていた。


「と言うか、アーフェンさん、そんなにひどいのなら治るまで出歩かない方がいいと思うんですけど……事故があるかもしれないし」

「動かないでいるわけにもいかないので。……ああ、では、マスター。今日は普通にシネンスのオレンジティでお願いします。久しぶりなので」

「了解。ああ、そうだ。一昨日から低木オレンジを使っているから、そのつもりでよろしく」

「何かいつもと違うんですか?」

「少し小さく柔らかく、そして水っぽい。よく言えばさっぱりしているが、紅茶のお供としてはいささか味気ない。君ならはっきり違いがわかると思ってね。ま、今の端境期だけの味わいと捉えてくれ。もうじき一気に寒くなる、その頃にはいつもの味が戻って来るよ」


 マスターは爽やかなウインクを一つ残し、茶の準備へとりかかった。



 アーフェンはいつにも増してそわそわとして完成を待っている。とは言え、シンプルな紅茶だから準備の手間はさほどかからない。アメリアにせっつかれて空白の時間の報告をして、しかしそれが盛り上がるよりも早く、熱々のティーポットが目の前に出て来た。


 白い陶器のティーセット一式、ソーサーに添えられた銀の匙の上に少々厚めにスライスされたオレンジが鎮座している。オレンジティはアーフェンにとっての定番の一品だ。


 だがアーフェンが手を付ける前に、マスターが追加で小皿を横に並べた。干からびた葉っぱのような物が、三点に分かれて乗っている。もちろん注文には無い品物だ。アーフェンは緑色の目を丸くして、皿をかじる様に見つめた。


「マスター、これは何ですか? 見覚えもないのですが」

「薬草だよ。鎮痛と、代謝促進と、抗化膿。体の内側から治療をかけるのも一つの手だ。気が向いたらポットに混ぜてみてくれ」

「わざわざありがとうございます! では頂戴します」 

「ただ、めちゃくちゃ苦いんだよね、それ」


 苦笑混じりの声に、ちょうどポットの蓋をつまんでいたアーフェンの動きが止まって、逆再生した。それがさらにマスターの苦笑いを買った。


「おいおい、本当に治す気があるのか? 薬なんて大なり小なり口にはまずい物だよ」

「それは薬だからでしょう!? せっかくのお茶に入れさせようとしないでください!」

「いいや、そもそも茶自体が薬の側面を持っている。ハーブティなんて好例だ、なんらおかしな話ではないよ。……ああ、いっそ、その足に紅茶をかけたら治りがよくなるかもしれないな、やってみるかい?」

「ふっ、ふざけないでください!」


 怒るのも当然だ。しかしマスターは喉の奥で笑うばかりで、かけらも悪びれる様子がない。


 これにはアメリアが違和感を覚えた。マスターが人のことをからかうのは割とよくあるにしても、今日はいつにも増して大げさな感じがする。それに大っぴらに嫌がられたらすぐ控えるのが常だ。


「……マスター、どうしたんですか? ちょっと変ですよ」

「そう? 僕の方は平常通りさ」

「そんなことないと思いますけど」


 マスターはふうむと考える。その所作すらも、どこか芝居がかっていた。


「まあねえ、あんまりにも久しぶりなのに穏やかでないものだから、少しくらい気を紛らわせてもらえないかなと思ったのは確かだよ。体の不調と気の不調は不可分、せめて気は健常に保っていた方がよい。だから、僕なりの気遣いだったんだけど、だめだったかな?」


 悪びれも無く笑みを見せるマスターに、店員も客人もただただ呆れていた。アメリアが小さく謝り、アーフェンは投げやりなため息をつく。その後、薬草は完全に無視してティーポットに手を伸ばした。



 アーフェンが葉揺亭に来ると、そのまま半日近く居座ることがほとんどだ。マスターと紅茶について語りあったり、アメリアと他愛もないことを喋ったり、あるいは黙々と読書にふけったり、気ままに過ごす。本人いわく、他の場所ではギルドの仲間に絡まれてなかなかのんびりさせてもらえない、葉揺亭では静かで自由な時間に浸れるのだ、と。実際に、長年通い詰めた常連中の常連のような雰囲気でくつろいで見せる。


 ところが、今日のアーフェンは怪我の苦痛を差し引いても様子がおかしかった。マスターの言葉を借りるなら「穏やかでない」。茶をすすりながらの雑談もどこか空な部分があり、話の途中で脈絡なく窓の外を振り返って見たり、落ち着かない風に何度も姿勢を直してみたり。アメリアのくだらない話を笑って聞きながら、しかし不意に真顔で黙り込んでしまったり。


 あまりにあからさまだから、さすがのアメリアも不審に思った。眉を下げながらアーフェンに迫る。


「やっぱりアーフェンさん、お家で寝ていた方がいいと思います。本当は、今もとても具合が悪いんですよね。無理をしていますね」

「そんなことありません、大丈夫ですよ。もう少し、ここでのんびりさせてください」

「のんびり、か」


 会話に興じつつ何らかの茶葉を調合し続けていたマスターの手が、はたと止まった。不敵な笑みを浮かべながら、アーフェンの目を真っ直ぐにとらえた。


「それにしては、君は後ろを気にし過ぎている。そして、怯えている」

「ッ!? いっ、いえ、そんなことは……」

「じゃあ何をびくびくする必要があるんだろうか、ここが安全であることは君もよく理解しているだろうに。……ああそうだ、君が初めてここに転がり込んできたときも同じだった。あの時は、悪い連中に追われていたんだったな。まさか、また? それが君の趣味かい?」

「べべ、別に追われてなんて――」

「あーっ! そうです! それ聞かないと!」


 アメリアがぱあんと手を叩きながら息を荒くした。たんっとカウンターに両手をつき、虚を突かれたように固まっている二人の顔を交互に見た。


「そう、昨日ですよ! アーフェンさんを探して、政府の人たちが来たんですよ! だから心配していたんです、元気にしているのかなって。そしたら、そんな怪我しているなんて……」


 それは昨日の正午ごろの出来事だった。海の向こう、政府の中枢からやって来た政務官である若い女二人が訪ねて来て、特殊任務としてあたっている複数の事件に関する情報収集に協力を求めて来た。不夜祭の神がどうだ、(あか)い月夜の悪魔がなんだ、他にも眉唾物の怪しい事件を色々と調べているようだったが、提示された内の一つに、アーフェンと言う名の人物を探しているとのものがあった。


 なお初っ端の胡散臭い話の時点でマスターが眉をひそめ、いつも通り静かに傲慢な調子で皮肉を述べに述べたため女たちは嫌気が差し、義務的に用件だけ伝えて返事は求めずさっさと去って行った。


 そんなことがあったとアーフェンに具体的に説明する必要はなかった。政府の人が探しに来ていた、そのアメリアの一言目で既に彼からは血の気が引いていた。


「さッ、さよなら!」


 少年は鞭うたれた馬車馬のように飛び出した。

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