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安息の葉陰(1)

 人間、ひたすら我慢するのが美徳だ、なんてことはない。カウンター席のティーセットを下げながら、マスターはそう思った。いつもはアメリアが率先してやる仕事なのだが、いまは不在だ。


 燕尾を揺らしながら清潔なクロスでカウンターを拭く。木目の上には涙が落ちた跡が点々とあった。つい先ほどまで居た女性客が残していったものだ。もちろん綺麗にぬぐい取って、跡形も無く消し去った。


 と、客が去った余韻も冷めやらぬ内に再び玄関が開く気配がした。マスターは意識して接客の笑みをつくり、ゆっくりと振り返った。


「いらっしゃい……おや! 君だったか」


 マスターの笑顔が、客よりもっと親しい者へと向けるものへと花開く。まみえた姿は青い髪が印象的な知己、ティーザだった。


 今日はどうしたのか、そんなことは聞くまでも無かった。ティーザは角ばった布包みを抱えている。先の不夜祭のためにマスターが個人的に貸し与えたものだ。祭りが終わって早五日も経つ、これを返すことが目的に違いない。


 ただ気になるのは、単純な目的にしてはいささか渋い顔つきな事である。何か憤りを隠しているかのような。神経をとがらせて相手の内心を察しようとする、そこへティーザは自ら歩み寄ってきて、言った。


「さっきその道を、女が一人、泣きながら歩いていったが」

「ああ、うちのお客だよ」

「……泣かせたのか。ひどいやつだ」

「まさか。僕は話を聞いていただけさ。こっちから話をしようにも通じないし」


 そんな些事が気になっていたのかと、マスターは拍子を抜かしつつ、安堵をまじえて肩をすくめた。


 件の女性客について、彼女はこのところしばしば現れるが、本当に話を聞くだけの相手なのである。なかなか奔放な男と恋仲にあって、葉揺亭へは彼に関する惚気まじりの愚痴聞き役を求めてやって来るのだ。だからいつも一人で勝手に騒いで、勝手に笑って、勝手に泣いて、勝手に帰っていく。今日に至っては積もり積もった感情が爆発して、終始言葉も無く大泣きしていただけだった。


 感情を押し殺して過ごすのは人間らしくない、マスターはそう考えているから、ひたすら感情的な彼女を悪し様に言うつもりはない。ただ、一方的にわめきたてるのを聞き続けるのはさすがに疲れる、それだけだ。マスターはクロスをカウンターの向こう岸へ手を伸ばして片すと、こった筋肉をほぐすように肩や首をぐるぐると回した。


 それを見て、ティーザにも思う所があったのだろう。そこそこ重量のある光源石の板の包みは手渡しにせず、カウンターの上へとそっと置いた。そうしながら、目を合わせずにぽつりと言った。


「嫌にならないのか。ずっと、そうやって自分を抑えて」

「全然。我慢しているなんて思っていないし。求められた通りに安息を与える、それが店主である僕の務めさ」


 マスターはあっけらかんと言った。そして置かれたばかりの四角い包みを抱え、カウンターの中へと戻る。


 歩きながら横目でティーザの様子をうかがう。彼も何かと忙しい身であるし、そうでなくとも用を済ませるといそいそと帰ってしまうのが常だ。茶の一杯くらい飲んで行けよ、そうこちらから声をかけてやらないと。


 ところが今日はマスターが何か言う前に、ティーザは自ら椅子を引いて座った。目線はぼんやりと食器棚の上へと向かっている。その顔つきにいつもより覇気が欠けていた。体もどことなく重そうにしている。


 マスターは悟られないように苦笑した。普段と違う行動と態度、それは無意識なる救難信号だ。つまり、あちらもあちらで疲れているのである。


 それにしても運がいい、とマスターは思った。実は、今日の葉揺亭には今の彼にうってつけの物があるのだ。作業台の紅茶缶の並びに堂々と混ざる花柄陶器の角ポット。そこ入っているのは、昨日つくったヌガーという菓子である。もっとも、実際に手を動かして作ったのは自分ではないが。


 ポットの蓋を取って持つと、中身を見せるようにしてティーザへカウンターごしに差し出した。


「食べるかい? 昨日アメリアが作ったんだ。砂糖と蜂蜜の塊みたいなものだよ、めちゃくちゃ甘い。脳が溶けそうになるくらい甘い」


 軽く入れ物を揺らすと、琥珀のタイルのように切りそろえられたヌガーも小さく踊った。かくする自身は体質上いくら誘われても手を出すつもりはないのだが、さておき。


 ティーザは無言のままポットへ手を伸ばし、ヌガーを一粒取って口に入れた。噛むと歯にまとわりつく、その食感は予想していなかったのだろう、しばらく眉を寄せて口をもごつかせていた。


 彼は難しい顔をしつつも二粒目を手に取ったあたり、相当気にいったようだ。マスターは今度はあからさまに苦笑いして、ヌガーのポットをそのままティーザの前に置いた。それから彼に出す茶の準備へとりかかる。


 ティーザが好むものは知っているが、今日は嗜好よりも体調を整えることを第一に考えた方がよさそうである。疲労回復、精神安定、滋養強壮、代謝促進、その他もろもろの効能を持つハーブはなんだ。ローズマリー、ラベンダー、シナモン、リンデン――次々と名前の浮かぶハーブを片っ端からポットに詰め込んでいく。


 その傍らから、他愛も無い質問がやって来た。


「アメリアは?」

「お友だちに連れられて観劇に行っている。チケットをもらったんだってさ。会いたかったかい?」

「いや、逆だ。会いづらかったから都合がいい」


 つまんでいたロゼルをポットに落とし、マスターは不思議そうに顔を上げた。するとティーザがひどく物憂げな顔をしていたから、そのまま手作業が完全に止まった。


 マスター真摯な面持ちでティーザの言葉を待っている。理由がまるで見当つかない以上、向こうから喋らせた方がよい。


 ティーザは少しうつむいたまま目を合わせようとしない。静かな空気だ。その中で彼はぽつりとつぶやいた。


「アメリアにばれた」


 マスターが目を細めた。口元は笑っていない。あたりの空気も一緒になって引き絞られる。


「それは、どこまでが?」

「俺がヴィジラだという、それだけだ」

「それだけかい」

「ああ。だが、良くないことだ。てっきりお前が教えていると思っていたから、油断していた」

「僕は他人の秘密をばらしたりしないよ。でも大丈夫だ、アメリアだって同じだ。知ったところで正体を吹聴したりなんてしない。そんな風に心配しなくていい、この僕が保証する」

「心配はしていないが……次に会ったら、絶対に色々聞かれるから」


 はあ、とついた溜息は、床が沈みそうなほどに重かった。


 しかしマスターは対照的に明るい顔に切りかえた。考えていたほど深刻な事態ではなかったからだ。止まっていた手仕事もよどみなく再開する。味を調えるために干したイチゴを少々加えて、最後にお湯を注いで、できあがりだ。


 ティーポットに蓋をして道具から手を放す。イチゴから軽く味が染み出る程度に短い蒸らし時間をとれば飲み頃になる。だからマスターは立ったままで、悩める青年への忠言へ身を転じた。


「そんなに悩まなくたっていい、簡単な事さ。君が話したいように話せばいい、僕や、他の誰に気を使う必要はないんだよ。アメリアはどんな話でも嫌な顔せず聞いてくれる。例えばそうだなあ……君が実は半分女の子だって知らされたとしても、驚きこそすれ、嫌いになんてならないだろうよ」


 小さく笑いながら言えば、ティーザは露骨に嫌そうな顔をした。事実が述べられただけ。心身ともに両性的存在、その事実を否定することはできないし、かといって笑い話にできるほど成熟してもいない。だから、彼は何も言い返さなかった。


 つまるところ、他人に触れられたくない部分に手を伸ばされかけたらどう対応するべきか、彼の悩みの源泉はそこである。


 難しい話だ、とマスターは思っていた。心を許して本性をさらけ出せば相手に嫌われるかもしれない、しかし心に壁を築いて隠したままならいつまでも緊張したままで居なければならない。人と親しくなるにあたりどちらが正しいとは言えないし、どちらにしろとも言えない。


 結局、最後にはティーザ自身がどうするか決めなければ、いつまでも解決しない悩みごと。するとマスターにできるのは、いや、やるべきことは、少しでも心の負担を軽く決定に至らせることのみ。葉揺亭の主は慈愛に満ちた笑みを浮かべ、優しく説いた。


「裏表があるのは誰だって同じ、君だけじゃない。最後は自分がどういう人になりたいか、だ。それを踏まえて、秘密を打ち明けてしまった方が自分らしく過ごせると思うなら打ち明ければいいし、やっぱり隠しておきたいって思ったら、適当にやりすごせばいい。聞かれたからって全部話す必要はないわけだし」


 ああ、でもね、とマスターは念を押した。


「嘘をついてやり過ごすことはおすすめしない。絶対にどこかで矛盾が生まれ、自分の首を絞めることになる。本当の事を言わないのと嘘をつくのとは違う、それはわかるだろう?」

「……お前のお得意な屁理屈だな」

「自分を守るための大事な技術さ」


 ふっと笑って、マスターは話を切りあげた。ティーザの結論を急がせるつもりはなかったし、そもそも結論まで聞こうとは思っていない。ちょうど茶も出せる頃合いだ、ゆっくりお茶でも飲みながら思い悩んで、ゆっくり決めてもらえばいいだろう。


 できあがったハーブティは、ロゼルによってうっすら赤く色づいていた。十数種類のハーブが混ざった茶である、体には良さそうだがおいしそうではない、そんな具合の香りを白いカップの中から立ち昇らせる。


 親しい仲とは言え一応はお客だ、あまりにも食品を逸脱した代物をお客へ出すわけにはいかないから、マスターは念のため、ポットに残った雫で味を試した。その限り、苦みやえぐみはなく、甘みと酸味とスパイシーさが穏やかにないまぜとなった味わいにしあがっていた。効能重視なら及第点の味でちゃんと口に入れられるから問題ない、マスターはそう判断し、カップをソーサーに乗せてカウンターの向こうへ渡した。


「さあお飲み。栄養補給、疲労回復、滋養強壮、精神安定、その他もろもろ混ぜた特製の茶だ」

「……詰め込み過ぎではないか」

「そうもしたくなる。その様子じゃ、また休まず動き続けているんだろうからさ」


 図星だったらしい。ティーザは目を泳がせた。ごまかすようにカップをとり、軽く息を吹きかけて口を潤おした。絶対にマスターと視線をあわせないよう、目を下に向けたままだ。


 マスターからは深い溜息が飛び出した。まったく動けなくなるまで休まない、昔からの悪癖だ、これまでも何度か指摘したが治らない。続けて説教の言葉も溢れそうになるが、まずは椅子を引っ張って来て対面に腰を据えた。

 

「よくないな、本当によくない。休息はとらないと駄目だ。眠るのも食べるのも、嫌でも人並みにはやるようにしろ。昔から言っているじゃないか」

「見本が悪いな」

「それは認めよう。だが、僕と君は違う。それも何度も言ったはずだ」

「……単に忙しかったんだ。このところ休める隙なんてなかった」


 ふてくされた風に言ってから、ティーザは静かに茶をすすった。その際にちらりとマスターに向けて上げられた目は、どこか攻撃的な色をはらんでいた。拒絶、あるいは挑発。詳しくは触れるなと訴えているのか、それともあえて駆け引きをしようとしているのか。なんとも読み取れない表情だった。


 どちらにしてもマスターには会話を打ち切るつもりなど毛頭なかった。こちらから歩み寄らなければ、彼は感情を押し隠したまま過ごそうとする。曲がりなりにも彼を育てたものとして、潰れてしまわないか心配でたまらない。単なる店主としてでなく一個人として、救いの手を伸ばしてやらなければ。


「いつからだ。いくら政府にこき使われると言っても、まったく休みが無いなんてことはないだろう」

「……どうにもならん大事があってな。別に俺だけの話じゃない」

「だからって、少しくらいは――」

「色々と厄介が起こっているんだ。……不夜祭の件で」


 マスターはぎくりと肩を震わせた。責め咎めるように細められる青い目にいたたまれなくなり、攻守一転、ティーザから目を背けた。話していて声の憤りが強くなってきたのは、そういう理由だったか、と。


 不夜祭の件で。そんな切りだしでティーザの怒りの的になる心当たりは、悲しいかな、二つもあった。もし咎められているのが、彼になりすましてスラムの学校へ贈り物をした事ならば、聞こえの良い釈明も思いつくのだが――


「ルクノール」


 抑揚を殺した響きでその名が呼ばれた瞬間に、いま考えた「もし」の線が潰された。マスターはこめかみに手をやり、参ったな、と内心で吐いた。


「不夜祭のあれは、お前だろう?」


 断定と相違ない問いかけの後、空気は重く静まりかえった。

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