貴き家の料理人(2)
そう、世辞などではなく実際に素晴らしいとマスターは思っていた。本人が見た目も重要と言った通り、市井の菓子類にはほとんど見られない華やかさがある。いっそ自ら光り輝いていると言いたくなる程、誰が見ても大なり小なり感動する代物だ。
だが、そんな菓子を前にして一人だけおもしろくない顔をしている。アメリアだ。いや、彼女とてシエンツの腕前を賞賛する気はあるし、もとより甘いお菓子の事は大好きだ。しかし、カウンターを挟んだ向こうでしたり顔をしているソムニの顔が目に入ると、なかなか素直に賞賛する気が起きない。
現にアメリアと目が合ったソムニは、冷ややかな目をして鼻で笑った後、それから一転、甘く蕩けた上目づかいでマスターに喋りかける。頬の横で手を組んで、ずいと前にすり寄るようにして。
「ほら、ほら、マスター、早く食べてみてくださいまし。シエンツの素晴らしさ、ご納得いただけますわ!」
「あ、ああ……そうだね。じゃあ――ああ、ほら、アメリア。君の分もあるんだから」
すっかり遠巻きになっていたアメリアを呼びつけ、先にナイフとフォークを握らせる。シエンツはきちんと三皿つくり上げた、だからソムニがなんと言おうとアメリアの分があるのだ。
マスター自身も食器を取るが、しかし少しだけ表情が固くくすんでいる。ソムニが鼻息荒く身を乗り出して来るのが鬱陶しい、というわけではなく、甘いものが苦手だということが理由だ。いや、多少なら食べられるし、果物のような優しい甘味はむしろ好きである。問題は精製された砂糖の刺激的な甘さだ。それを踏まえて、この菓子はどうだ。菓子に使うクリマは基本的に甘い、それがふんだんに使われたうえ、上にも砂糖の塊が乗っている。これでは身構えざるを得ない。
だが、手を付けないのは礼儀を欠く行為だ。マスターはやや浮かない面持ちでナイフを使い、小さめの一口を切り取り、すべてのクリマの層と皿にあしらわれたジャムをも巻き込んで掬い取った。衝撃で砕けた飴細工は光の粉となり上面を彩っている。美しく着飾った菓子は、銀のフォークの上で、今か今かと食べられるのを待っている。
マスターはおずおずと、見ようによっては貴重な物を大切に扱うようにして、貴人の食べ物を一口、相伴にあずかった。
咀嚼すればパイが軽い音を立てながらほどけていく。そして、口の中に拡がるのはとりも直さずの甘味、かぁんと脳天まで突き抜けるようだ。
そして乳や卵、果てにはバターの風味が溶け合って一つの濃厚なうまみとなり、味覚を刺激する。そこにちょうどいい対比効果を産みだしているのが、酸味のあるベリーのジャムだ。単なる飾りとして添えられていると見せかけて、実は舌を飽きさせないための仕掛けでもあったのだ。
端的に言っておいしい、と思う。ごく一般的な味覚と嗜好の持ち主なら、賛辞の声を惜しみなく上げ、あっと言う間に平らげてしまっただろう。だがあいにく、葉揺亭のマスターたる男は一般からは大きく外れる人間だった。案の定、食の進みは誰もが気づくほどに遅い。
一流の料理人は、自らの作品を口にした者の感想を細かく気にかけるものである。良き評も、悪き評も。だからマスターの芳しくない反応を、シエンツが黙って見逃すことなどなかった。
「口に合いませんでしたかな」
「いや、おいしいよ。今まで味わった中でも極上だ。ただ、僕が少し甘味が苦手なだけで……」
苦笑いと共に真相を吐露すると、シエンツは虚をつかれたような顔をした。そのままソムニをちらと見やる。事前に聞いていた話と違うぞ、との心が透けていた。見られた方は気づいてすらいないが。
ああ、でも、とマスターがにこやかに話を引き戻す。
「僕のアメリアは甘いものが大好きだ。きっと気に入っただろう。ね、アメリア」
「はい、すごくおいしいです! こんなの、初めて!」
今日はじめてアメリアに笑顔が咲いた。濁りない感想と共にシエンツを見上げるまなざしは、尊敬の色に満ちていた。
そして彼女が喜べば、天秤にかけたようにソムニの顔色が悪くなる。不機嫌さを露骨ににじませつつ、注目をもぎとらんとマスターへ詰め寄った。もしカウンターが低かったら、そのまま中へ転がりこむ勢いだ。
「どうです、マスター、すばらしいでしょう? わたくしの料理長は!」
「そうだね。シエンツ殿は間違いなく世界でも指折りの力量の持ち主だろう」
「はは、誉め過ぎですよ、店主殿」
謙遜するシエンツは、しかしまんざらでもない様子であった。
料理長への称賛を自分の糧にして、ソムニはますます胸を張った。鼻高々に、自己陶酔して高説を垂れ続ける。
「では十分におわかりいただけたでしょう? 高貴なる者には、それにふさわしいものが必要ですの」
「その理屈には同意するけどね」
「ええ、ええ! ですからマスター、高貴なわたくしに最もふさわしいものとは、もちろんあなたのことですわ! あなたこそ、この世界の頂点で光り輝くべき御方ですわよ。こんな、ちっぽけで薄暗い店に閉じこもって、価値のわからない下賤の者を相手にしている場合ではありませんことよ。わたくしの手元でこそ光り輝く宝物ですもの!」
感極まってソムニがカウンターに勢いよく手を打ち付けた。手つかずで近くに置かれていた彼女の分の菓子が皿ごと跳ね、せっかくの飴飾りが崩れ壊れる。ナイフとフォークも品のない音を立てて暴れた。
ソムニは息荒く、濁りの一切ない瞳で亭主を見据えていた。はらまれた熱はかつてないほどに大きい。
一方でマスターは氷点下に冷え切った目をしていた。口まわりは苦い笑みに保っているが、心の余裕があるのとは逆、薄氷になり果てた理性が辛うじて店主の表情を作っているだけだ。更には何も言わない。とかく喋るのが好きな男だ、それが皮肉の一つすら返さぬという事態がどれだけ珍しく、そしてどれだけまずい状態なのか、普通の常連客ならとうに肝を冷やしている頃だ。
彼の心を代弁するかのように、アメリアが後ろで軽蔑の視線をソムニに突き刺していた。彼女も彼女で露骨に言いたいことを我慢している。主が何も言わないから、固く口を閉じているだけで。
そんな双方から投げられる無言の重圧も、熱に浮かされるソムニには一切通用しない。艶っぽく唇を湿らせ、甘えるような声を作り、上目遣いでマスターを見つめる。他のものは何も見えていない。
「ああ、マスター。どうして何も言ってくださらないの? わたくし、あなたのことをこんなに褒めておりますのに。大丈夫ですわよ、一生手放しませんから」
「……ソムニ嬢」
かけられた声は、穏やかさの影にどす黒い影をはらむもの。そんなものでもソムニは嬉しいらしい。放置された飴細工のように、表情をとろとろに溶かす。
だが、アメリアは知っていたし気づいていた。あの口調は、たとえば先日の氷騒動のように、マスターが他者を――アメリアに言わせれば「私」を――強く叱咤し説教する時のそれである。裏に鋭い棘をはらみ心臓をえぐり取りにくるようで、聞く者を怯えさせる力がある。身内へ愛情をこめて向けられるから許されるもので、決して客へと向けられるべきではない。茶を飲みくつろぎ心を安らげる、それが喫茶店の大儀なのだから。
店主にあるまじき態度である、それは本人が重々承知していた。思わず表に漏らしてしまったことを後悔し、渋い顔をしたままでマスターはこれ以上の言葉を後に続けなかった。
何も言えない、言わない。その凍り付いた空気を打ち破ったのはシエンツであった。一介の雇われ人でなく、一流の料理長である誇りと感情とが彼を一歩前に動かして、ソムニの肩を叩かせた。
「ソムニ様。かような言葉は、店主殿に大変失礼かと。訂正をなさってください」
「あら、どうしてかしら。わたくし嘘はついておりませんわ。シエンツは知らないでしょうが、マスターのお茶は本当に最高ですのよ。どんな宝石よりも価値がありますわ」
「それは自分には否定も肯定もできません。申し上げたいのは、別のこと」
シエンツが真顔でしゃがみこみ、ソムニと目線をあわせる。
「よいですか。店主殿にとっては、この店こそが宝物なのです。自分も一介の料理人として、厨房を、お屋敷を愛しておりますので、あの方のお気持ちはわかります。人を喜ばせるための場とは、一朝一夕では作り上げられません」
「それで? 何が言いたいのです?」
「ソムニ様、まだわかりませんか。この場所も、あのお嬢さんも、すべてを含めて、店主殿の魂なのですよ。それなのにあなたは、この素晴らしい世界を、ちっぽけで薄暗いと貶めた。言うなればソムニ様、あなたは自ら店主殿の価値を貶めたのです。それでも自分のものだと言い張るおつもりですか。宝物を傷つけることが、あなたの愛ですか」
「なっ……まさか、このわたくしが間違っていると?」
「はい」
ソムニの顔がみるみる赤くなる。肩を怒らせ目を吊り上げ、唾吐く勢いで怒鳴りつけた。
「シエンツ、あなたこそわたくしのことを侮辱して、無礼ですわ! このことは父上に言いつけますから!」
「礼を欠くとは承知の上、旦那様にも、なんとでもおっしゃってください。自分は長年クロチェア家にふさわしい料理をと尽力してきました、ゆえに、あなた様の言い草が許せなかった。料理の、食の価値は、味だけでは決まりません。見栄え、食べる環境、それらもすべて含めての価値なのです。自分のこの信念が今になって否定されるのであれば、もはや自分は料理長として居られません。ご理解ください」
身内からの真摯な眼差しがソムニに捧げられる。が、だめだ、伝わらない。彼女はただただ自分を否定する反論だと受け取り、わなわなと震えていた。渦巻く感情はたやすく爆発し、あらゆる物体の身をすくめさせる。
「最悪の気分ですわ! 下につく身のくせに、このわたくしに意見するだなんて……! もう帰ります! こんなところでお茶なんて!」
「では……」
「シエンツ! 付いて来なくてよろしい! 顔も見たくないですわ!」
真っ赤な顔で金切り声をあげると、ソムニは呆然とする一同に背を向けた。乱暴な足取りで玄関に向かうと、控えめな従者と共に去っていった。馬車もなんのためらいなく動き出し、あっという間に窓の風景から消えた。
嵐の後に残された面々は、各々複雑な面持ちで外を眺めていた。
「シエンツ殿、大丈夫かい? これで解雇になったりしたら、僕は申し訳が立たないのだけれど」
「心配は無用です。ソムニ様の癇癪はいつものことですし、旦那様は公明正大な方ですから、快不快で人を裁いたりはしませんよ」
「ですけど、あんな言われ方して……。帰って大丈夫なのですか? 何か嫌がらせをされたりしないですか」
「大丈夫ですとも。むしろ戻らねば。自分はクロチェア家の食卓にあるからこその料理長、後進たちも待っておりますので。まあ、万が一追い出されるようなことがあれば、店主殿のように、街角で自分の店を構えるというのもおもしろいかもしれませんなあ、はっはっは」
鷹揚と笑いながら、シエンツは広げた荷物を片づけ始めた。
歩いて帰る以上少しでも荷を軽くしたいから、残った菓子や食材は葉揺亭に置いていくと言う。飴細工は溶けてしまうだろうが、菓子自体は冷蔵庫に入れておけば少なくとも明日ぐらいまではおいしく食べられる、クリマも同様にしてパンに塗るなどすればよい、と。これにはマスターが眉を下げた。
「それは悪いよ、さすがに。それこそクロチェア家の財だろう」
「とんでもありません。我が主が非礼を働いたお詫びとしては、むしろ足りないくらいです。申し訳ありません、もっと早くに諌めるべきでした。お嬢さんにも、だいぶ不愉快な思いをさせてしまいましたね」
そう言って、シエンツは頭を垂れる。アメリアが慌てて止めた。あなたは悪くない、と。そうだそうだ、とマスターも賛成する。
「むしろあなたには礼を言いたい。シエンツ殿、あなたのおかげで、僕という人間の心は救われた。あなたが割って入ってくれなければ、それこそ僕は店主としてあるまじき振る舞いをして、この店を自分で貶めて居たに違いない。ありがとうございました、本当に」
葉揺亭は全てを受け入れ、万物を同様にもてなす。それなのに、一時の感情をむき出しにして、大事な客を咎めかけてしまった。ソムニと同じだ。自分もまだまだ青い、そう反省しながら、マスターも頭を下げたのだった。
食器洗いや箱詰めをアメリアが手伝って、シエンツが持ち込んだ物の荷造りが終わった。元より少し軽くなったが、体積はさほど変わりがない。そんな箱を見てシエンツは大きく呼吸をした。そして最後にもう一度台上を見渡す。葉揺亭らしからぬ物品はどこにもない、あるべきものはあるべき場所に戻った。後は人が去るだけだ。
「では、お二方。ごきげんよう――」
「あ、いや、ちょっと待ってくれ! できた! これ、ソムニ嬢に!」
シエンツとアメリアで片づけやらをしている間、マスターはずっと隅でこそこそとやっていた。薄紙で丁寧につつんだ茶葉を、シエンツの木箱に滑り込ませた。
「彼女がいつもここで飲むお茶だ。『デイ・ドリーム』、あえて言葉を直すなら、『白昼の淡き夢』と。色合いも美しく、レモンを一枚入れれば、移ろう夢のごとく色が変わる。愛に溺れる幸せな夢のように、甘味が溢れる一杯だ」
「……なるほど、ソムニ様らしいお茶ですね。お上手だ。あの方が店主殿を褒めるのもわかる気がします」
そしてシエンツは握手を求めた。自分は貴人の料理人、マスターは町の喫茶店の主。立場は違えども、心の底にある信念はきっと同じに違いない。マスターは快く応じた。
「次は店主殿のお茶を飲みに参ります。もちろん、個人的に」
「ぜひ。僕もアメリアも、お待ちしておりますから」
「いつでも来てくださいね!」
「では、またいずれ、必ず」
そしてシエンツは帰って行った。クロチェア家の料理人として、信念を貫き腕を奮うべく。彼の後姿は、たまの嵐などではびくともしないほどに、堂々として立派なものであった。
ノスカリア・食べものダイアリー
「パイと三種のクリマの多層仕立て・綿雲添え」
ノスカリア地域の元首の家が抱える料理人が作った菓子。
生地を折り重ねるように焼き上げたパイと、ミルク・カスタード・バターのクリマ(クリーム)を層状に重ね上げた生菓子である。
今回は横倒しにして仕上げに綿雲のような糸飴を上に乗せた。
ナイフで食べやすい大きさにカットしつつフォークで食べるのが正式。が、それでもパイ生地を粉々にせず完食するのは難しい




