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ブラック・ホワイト

「どうして人は闇を恐れるのでしょうか」


 カウンター席に座る少年アーフェンから、唐突に問いかけがなされた。別にそのような会話をしていたわけではない。ティーポットからカップに注いだ紅茶を一口飲んで、カップを一旦置いて、わざとらしく物憂げに溜息をついてからの一言だった。


 マスターはきょとんとしてアーフェンを見た。そして、後ろに立っていたアメリアも。二人ともが少し考えた後、先にアメリアがはっとして動いた。ささっと焜炉下のオーブンを開き、隙間から中の様子を確かめて、それからほっと一息つく。元々喫茶店の中に漂っていた甘い香りが一瞬強くなって、オーブンの中にある物をありありと連想させる。


 マスターがふうむと唸った。


「哲学かい? 闇のように黒焦げのビスケットを食べさせられる事を通じて恐怖という感情の根源を論ずるか、または、観測不可の闇に置かれているビスケットがいかな状態にあるかの思考実験か」

「あ、いや、そんな高尚なものではなく」


 アーフェンは顔の前で手を振りつつ否定した。


「もうすぐノスカリアで祭りがあるのだと世間が騒がしくて」

「『不夜祭(ふやさい)』ですね!」

「ええ。それが夜闇を打ち払う祭りなのでしょう? それで少し考えていたのですよ。そもそもどのように行われるのか、私はまったく知りませんし」


 アーフェンはぱっと両手を横に開いて見せた。彼がノスカリアにやって来てから、まだ一年も経っていない。当然、年中行事も初めての経験となる。


 不夜祭は三十日間続く無月季(むげつき)の中頃、三日間に渡り開催されるノスカリア最大の祭事だ。どのような祭りであるのか、ノスカリア住民が一言で説明しようとすると「住民みなで夜の闇を照らすのだ」となる。アーフェンが聞いたのも、そんな具体性に欠ける説明だったのだろう。


「夜を払うと言えば、ルクノール神の神話にまつわる祭事なのでしょうか。教会が主催する、厳格な」

「どうしてそう思う?」

「ルクノラム教の大聖典曰く、『偉大なる神は世を覆う永久の夜闇を切り裂いた。その結果、世に白昼が生まれ、あらゆる生命が希望を得た』ということなので」

「えっ、お昼はルクノール様が作ったんですか?」

「……アメリアさんはご存知ない? 少しでも教養をつけようと思えば、ルクノラム教の聖典を読むのは避けられないと思うのですが」


 アーフェンは意識して嫌味を言ったのではなかった。ただ彼とて少年、話し手と聞き手で心の食い違いを生ずるから言葉はよく考えて使わなければいけないという、真に教養がある人のふるまいができないだけである。結果、アメリアに頬を膨らませさせ、青い目もきっと吊り上げさせる羽目になった。


「もうっ、そうやって私のことを馬鹿にするんですね!」

「あ、いえ、そんなつもりは……私は、ただ、世間一般の事実を述べて……」

「知らないですよう! 私の聖典は、マスターのお喋りです」

「そして僕は神だなんて信じないから、そんなことわざわざアメリアに教えないよ」


 マスターが自然体に笑った。このマスターが取り仕切る小さな世界では、一般常識も世間と少々異なっている。そう感じさせられて、アーフェンは「そうですか」と萎縮するしかなかった。気まずさをやり過ごすために取ったティーカップは、しかし程よい温度にぬるくなっていて、逸りつつ口にしても舌を焼く羽目にはならなかった。


 さて、不夜祭は教会に関連した祭りであるとのアーフェンの予想であるが、この時点で既に外れている事が明らかだ。しかしアメリアが、


「そこまで話したなら、ちゃんと教えてくださいよう」


 と、むくれたまませがむから、続きを話すこととなる。マスターが語らぬから客人が語ってもいけない、というわけではないらしい。マスターは椅子に深く腰掛け、右手の動きで「どうぞ」とアーフェンを促した。


 アーフェンはカップを置いて襟を正し、わざとらしく咳払いして、改めて声高々と話し始めた。紅茶で喉を湿らせたおかげか、舌の周りは絶好調である。


「すなわち創世神話なのです。はじめイオニアンの地は常世の闇に覆われていました。その闇をルクノール神が切り裂きました。真っ暗だった空が割れ、世界に初めて光がもたらされました。生き物は光が無いと生きられませんからね、ルクノール神の働きがなければイオニアンの世は死の世界になっていたでしょう」

「だから神様は偉いというお話ですか」

「ええ、そうです。そしてルクノール神は切り裂いた夜闇を身に纏い、黒き衣の人として地上に顕現したのです。ゆえに現代でも教会の祭服は黒色であり、宗教画などで描かれる際も、ルクノール神自身はもちろん、神が寵愛したというアルヴァイスやエルジュといった使徒たちも、みな同じように黒い衣を纏っているのですよ」

「なるほど! みんなで夜を切り分けたから、お昼がちゃんと長くなったんですね。……でもそれなら、もう少し頑張ってくれればよかったのに」

「……は?」

「だって夜が短い方が、一日が長く使えるじゃないですか。寝る時だけ暗ければいいのに」

「別に夜だって活動すれば良いじゃないですか」

「夜に一人で外へ出るのは、危ないからだめです」

「そんなことありませんよ。夜に出歩くのは素敵なものです。涼やかな風に吹かれながら歩き、誰も居ない高台のベンチに腰を降ろし、ひたすら星と月を眺めて時を過ごす。ええ、夜に一人だからこそ味わえる風情があるのですよ」

「いや、駄目だ、駄目だよ」


 不意にマスターが苦言を呈した。アーフェンの考えを否定するよりは、アメリアに釘を刺すことが目的で、事実視線はアメリアへと向いている。そしてアメリアも案の定、心が夜風の散歩に出かけていて、星空のごとく目を輝かせている最中だった。


「夜の闇は恐ろしいものだ、何が潜んでいるのかわかりやしない。夜に隠れてしか生きられないものたちが、牙を研いで獲物を待っている。夜を生きる正しき術を知らぬ弱きものを喰らうために」


 話しながらマスターはおもむろに席を立った。紅茶を淹れるようだ。食器棚から取ったポットは白い物、作業台に並んだ紅茶缶から選んだのはアセムという種類、どちらも平凡なものである。呈茶の動作をする間は仕事に集中するために口を閉ざす。そうして注いだ湯の分量だけがいつもと違う、カップ一杯分にも満たない量だった。


 ポットに蓋を被せると、マスターは立ったまま会話へ戻って来た。ふっと不敵な笑みを浮かべてアーフェンに問う。


「アーフェン君、きみは暗闇が怖くないのかい」

「ええ。もう慣れましたので」

「本当に?」

「赤ん坊じゃあないのです。それくらい幼い頃から、真っ暗でも一人で寝ていましたしね」


 アーフェンが胸を張った。だがマスターはそれを一笑に付した。


「普通の夜闇なんて生温いさ。人工的な明かりはおろか、月星の明かりも届かぬ、すべてを飲みこむ純粋な黒を経験したことがあるのかい? どれだけ薄めても一切の色を持たない、そんな漆黒を」

「マスターがおっしゃりたいのは、話に語られる暗黒物質という物のことでしょうか。四百余年昔、錬金術師ボースターが精製したとされる――」

「それについて実物を見た者は誰も存在しない。記述の中の幻想ではなく、君の経験を聞きたかったのだけれど」


 ぐっとアーフェンが声を詰まらせた。心なしか俯き気味になり、トレードマークの中折れ帽が顔に影を落とした。


 そんな少年を置いて、マスターはポットの相手に移った。中を軽く混ぜて茶液を均一にした後、白いティーカップへ注ぐ。やはり量は少なく、通常の半分よりわずかに多い程度だ。そして色が濃い。アセムの水色は基準の濃度でも濃い褐色になるのだが、今回は茶葉の量をそのままで湯量を半分に抑えたため、紅茶ではなく黒茶とでも呼びたくなる色に仕上がっている。


 見ていたアメリアが渋い顔をした。これは飲めない。想像するだけで舌が縮む。


 マスターもそのまま飲むつもりはないようだ。棚に伏せてあった少し広口で背が低めのグラスを取った後、作業台の下にしゃがみ、冷蔵庫の前に寄せてあった保冷箱を開く。外観の割に容積が少ない箱の中には氷の塊が入っている。アイスピックで割った欠片をグラス一杯につめて、立ち上がった。


 ではグラスへ紅茶を注いで冷やすつもりか。いや、そうではない。熱々の紅茶が入ったカップの方へ、氷を一粒ずつ溶かし込んでいく。温度が下がる事と引き換えに紅茶の嵩が増していき、やがて普通の一杯と同じだけになった。それと共に色も常識的な紅茶のそれとなった。


「黒色と錯覚するような濃い紅茶、あるいは珈琲でもいいけれど、こうやって薄めると茶色になる。純粋な黒ではないからさ。いっそ真っ黒なインクでも同じだ。あれも水を加えていけば、やがて透明になって向こう側を透かす。なにものをも塗りつぶす漆黒なんて、ほとんど無い」

「だったらマスターだって、本当に真っ黒の物なんて見たことないんじゃないですか。アーフェンさんに意地悪言っておいて」

「いいや、あるよ。僕はこの世に存在する、一寸先すら見えぬ漆黒を知っている」


 マスターは口角をあげて人差し指を立てた。 


「それが無月季の夜闇だよ。想像してみてほしい、月の欠片も浮かばぬ夜、分厚い雲が空を覆って星すら姿を隠している。その最中、自分は人里一つない山の中に居て、手にある明かりは細い松明の火一つ。もしこの火が消えたなら、その後にどれほどの闇が襲ってくるか。その状況で平然と歩みを再開できる者が居たら、僕は尊敬するよ」


 一瞬、葉揺亭が夜の山に放り込まれたように静まり返った。その後、少年少女がどちらともなく「あっ」と声をあげる。そう、そもそも何故この暗闇に関する問答が始まったのだったか。


「アーフェン君、これがきみの疑問に対する答えだ。今のように都市が栄えておらず人家の明かりも乏しく、また便利に持ち運べる灯火も無かった時代には、無月の夜は真に恐ろしいものだった。特に日々土地を渡り歩かなければならない旅人には。だから彼らの恐怖を拭う一つの手段として、ノスカリアの不夜祭が生まれたわけだ。夜を照らす祭りとして」


 アーフェンは感心して口を丸く開けていた。ただ感心した先は、不夜祭の起源についてではなく、マスターの話しぶりに対してだ。紅茶を小道具に使いつつ、時に聞き手を煽り立てながら、しかし最後はきっちりと相手を感服させる結論に落とす。書物から得た知識をそのまま得意気に読み上げるのとはまるで違う。アーフェンの目には、白シャツの上に黒い燕尾のベストの出で立ちのただの喫茶店主が、話術を自在に操る神のように映った。


「不夜祭の内容がどんなものかというのは、僕の口からはあえて語らないよ。楽しみを奪ってもいけないしね。自分で参加して経験した方がずっといいさ」

「そう言うマスターは参加したことありませんもんねー」


 葉揺亭のマスターは基本的に外出しない。それは店に足繁く通う常連たちの間ではとうに知れ渡っている事実だ。もちろんアーフェンも既に聞いていた。が、改めて唖然とする。不要不急の外出だけでなく、年に一度の祭りでもそうなのか。つい先ほどまでは眩く見えるほどだったが、急に説得力が失せた気がした。


 当のマスターは苦笑いして肩をすくめると、また足下へしゃがみこんで少年少女の視界から消えた。


 今度の目当ては冷蔵庫だ。保冷箱を横に退かし、小さな扉を開ける。青色の光を湛えた魔石によって冷却される世界には、容積を目一杯使って様々な品々が納められている。瓶詰の鉱泉水、手製のフローラルウォーター、傷みやすい果物や生のハーブなど。今回選んで取り出したのは、小分けされたミルク缶の一つだった。


 作業台の上に戻る。グラスに詰めた氷は残り半分強、おまけに少し溶け始めている。とりあえずグラスに溜まった水をシンクに捨てることから始めた。


 角が取れた氷のグラスに、今出してきたミルクを注ぐ。グラスの半分の高さで止めて、次は三匙分のシロップを加え、マドラーでかき混ぜる。ここでアメリアが「あれっ」と声をあげた。


「そんなに甘くしちゃうんですか? マスター、自分じゃ飲まないんですか?」

「今回やりたい事には必要だからね」


 まあ黙って見ていてくれよ、と言外に込めて次へ進む。先ほどティーカップに注いだ紅茶を、広口の計量カップへ一旦移す。ティーカップに入れたのは、話の中で見せるためだけだった。本命であるグラスの方へ、計量カップの注ぎ口から静かに少しずつ、ミルクの水面から顔を出す氷に当てるようにしながら注いでいく。


 普通、二つの液体が出会えば混ざり合う。どれだけ静かにぶつけたとしても、広く厚くグラデーションを描くことは避けられない。だが、今マスターが扱っているものは違った。ミルクと紅茶が明瞭な境界線で二層に分かれたままだ。


「すごい、どうしてこうなるんですか!?」

「端的に言うなら、重いものが下に沈むからさ。それはともかく、はいアメリア、どうぞ飲んでみて」

「え、私がもらっちゃっていいんですか」

「だって甘いもの」


 アメリアは気づかうようにアーフェンを見た。しかし彼もすました顔で頷いた。紅茶はやはり熱いものに限る、と、彼は葉揺亭が冷たい紅茶を始めた時にも主張していた。


 それなら遠慮なく。アメリアはやや広口のグラスを両手で持つと、直接口をつけて傾けた。やや強気で角度をつけると、二層が一緒に口へ入ってくる。せっかくだから混ぜずにそのまま飲みたかったのだ。


 やっぱり普通のミルクティとは違う。ものすごく甘いミルクと、どっしりと重みがある紅茶が、それぞれ個性を主張している。そして舌の上を喉の奥へ進むに従って、お互いを引き立てながら混ざっていく。普通の白と黒を足して灰色になる混ざり様ではなく、白と黒が渦を描いているようだ。


「どう?」

「おもしろいですね」

「おいしくはない?」

「んー……普通のミルクティの方が好きです。紅茶の渋いのが、ちょっと。トゲトゲした感じで」


 冷えた紅茶は渋みが強く感じられる。特にアセムは元より味が濃厚な種類だから特にその傾向が強く、ストレートで飲むのは好みが分かれる。アメリアが暗に苦手な味だと言うのも無理はないのだ。


 それなら全体をよく混ぜて、普通のミルクティにしてしまえばいい。マスターはそう言いながらマドラーをアメリアに手渡した。考える最高の状態で提供するが、飲み方は客の嗜好次第、勝手に崩してしまっても構わない。それが葉揺亭の流儀だ。


 それからマスターは洗い物を集めてシンクへ移動させた。その隙に主の居なくなった椅子をアメリアが乗っ取り、二層の紅茶をマドラーで混ぜている。もともと混ざらないように作ったものだから、なかなか均質にはならない。上下で濃淡ができている。


 そのグラスを見ながら、マスターが呟く。


「白と黒、光と闇、混ざり合わない相反するもの。誰も彼もそう扱うが、本当にそうだろうかと僕は思うんだ」


 あらゆるものの動きが胡乱げに停止した。二人分の視線がマスターのもとへ突き刺さる。また何を急に、と。しかし不意に聞き手不在で哲学的な話を始めるのは、マスターに限ってはままあること。あえて思考を口にすることはせず、話したいがままにさせておく。


「白は光であり、善きものだ、世界に命と希望をもたらすものだ。どこぞの教会でもそうなっているようだね。しかし、永久の白というものは、虚無や死といった事象を連想する」

「死、ですか」

「ああ。たとえば延々と続く雪原を思い浮かべてみるがいい。あらゆる物が雪によって白く塗りつぶされ、存在をうかがい知ることができない。そして無論、雪原では生き物はみな凍てつき息絶える。ほら、黒き闇とは真逆のようで紙一重だろう?」


 穏やかなしたり顔をするマスターだったが、案の定、聞き手は煙に巻かれたような顔をしていた。アメリアの不理解は常のこと。珍しくアーフェンもが、口に手を当て難しい顔をしている。


「これでもまだイメージしづらいかい?」

「あ、その……一般的には良いのかもしれませんが、私は雪を見たことがありませんので、どうにも想像できません。申し訳ありませんが」

「ああ、そうか。君の出身は中央諸島だったね」

「そちらでは雪が降らないんですか?」

「基本的にこちらより日差しが強く、気温も高いですから。諸島の中にとても高い山があって、その頂上付近では降雪するらしいのですが、私は残念ながら見たことがありません」

「はぁー、そうなんですねぇ」


 アメリアは少しだけ嬉しかった。珍しく、アーフェンが知らなくて自分が知っている事があったのだ。


 逆にアーフェンの方は、その事実があんまりおもしろくなかったらしい。急に胸を張って、むりやり作ったような朗々とした声で喋り始める。心なしか早口で、顔も赤いような。


「しかし私の所属するギルドの長は、世界最北の国イシリスの出身ですから。吹雪がどれだけ冷たく、雪中での暮らしがいかに過酷であるかは、私もよく話に聞いて知っております。そ、そう! それこそ天然の冷蔵庫で暮らしているものだと! 人間が冷蔵庫の中で住めるはずないので、だから、マスターが死を連想すると言ったのも――」


 話半分でマスターが失笑した。


「アーフェン君。知らない事は『知らない』、わからない事は『わからない』と言えばいいんだよ。今すぐ必死にならなくても、これから半年の内に雪の冷たさを実感する機会が訪れるわけなんだから、それから僕の言ったことを理解してもらってもいいのだし。焦って伝聞のみから結論を導くと、往々にして碌なことにならないものだよ」


 アーフェンは口を閉じて肩を縮めた。今度ははっきりと顔が赤い。


「もうノスカリアの高温の盛りは過ぎたのさ。これから少しずつ気温が下がっていく。不夜祭が終わって、白い月が輝く季節になってから少しすると、この辺りでも雪が降るさ。年に何回かはしっかり積もって、世界が真っ白になる。まあ、イシリスと比べたら大したことはないだろうけど」


 洗い物を片付ける水音と共に、マスターがのびやかに語った。


「まったく、羨ましいよ。知らないことがたくさんあるということは、これから初めて感じる楽しみがたくさんあるということだ。初めては人生で二度と無いこと、だからアーフェン君、きみはまず難しいことを考えず、訪れる季節を五感すべてで楽しみなさい。黒い季節も、その後の白い季節も」

「……はい」

「難しい話を始めるのは、マスターの方なんですけどねー」

「それは、僕はもう純粋に物事を楽しむなんてできなくなってしまったからだよ。君たちの様に若くないんだ、僕は」


 マスターはシンクの水を止めながら、皺ひとつない顔で苦笑した。


 洗い上がった物は、軽く水を切った後、柔らかいクロスで拭きあげる。一つ一つ丁寧に作業をしつつ、ふっとマスターは呟いた。


「ところでさ、なんだか焦げ臭くないか、アメリア」


 その言葉にアメリアが悲鳴じみた声をあげて、椅子から飛び上がった。飲みかけのグラスは勢いよく作業台に置かれる。割れたり倒れたりしなかったのは幸運だ。


 たった数歩の距離を慌ただしく駆けて、オーブンを開いた。熱気が顔に吹き付けることも気にせず、アメリアは赤熱する窯を覗き、そして、この世の終わりが来たに等しい真っ白の表情になった。


「……黒こげです」


 マスターは肩をすくめながらアーフェンを見た。


「ほらご覧、白と黒は紙一重だろう? まぶしい程に純粋で善良な娘でも、とんでもない暗黒物質を精製したりするものさ」

「……気づいていたのでしたら、もっと早くアメリアさんに教えてあげればよかったのでは」

「全部自分でやるって言っていたからね。それなら火加減も時間管理も自己責任だろう。それに――」


 マスターは穏やかに笑みつつ、横目でアメリアをみやった。彼女は暗く落ち込みながら、お菓子とは呼び難く完成した物体を回収している。


「こういう失敗も、若い時にしかできない貴重なことだから、経験するのは良いことなのさ」

葉揺亭 本日のメニュー

「白と黒のツートーンミルクティ」

シロップを溶かした事でできる比重の差を利用し、ミルクと紅茶を混じらないようにグラスの中で二層に重ねた冷たい飲み物。

紅茶でなくコーヒーでも可。またシロップで重さを調整すればジュースを重ねたり、三層以上重ねたりもできる。

いずれにしても制作上かなり甘みがつくため甘党向け。

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