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ノスカリアと水の物語

 蔦の葉が彫刻された扉を、背筋の伸びた老人が開けた。すぐに「いらっしゃいませ」と明るい娘の声が響いた。


 老人の顔はいやに泥で汚れている。林野に溶け込む緑色の服には、黒ずんだ染みがおびただしい。背に担いだ布の袋にも、小枝や枯葉、さらには獣の毛が絡み付いている。そんな格好だからか、翁は入店するなり申し訳なさそうに眉を下げた。


「すまんのう、着替えて来ればよかったのだが……西門の料理屋に、猪一頭届けて来たついでなのだ」

「ああ、そんな事はお気になさらず。何度も往復するのは面倒だ、お気持ちは僕もよくわかります」


 マスターは屈託のない笑みを浮かべ、訪問者を歓迎した。嗅覚をとがらせると一般に気持ちが良いものではない臭いも感じられるが、店主はそんな事おくびにも出さない。表面上の取り繕いではなく、本心である。汚れも何も不快ではない。むしろ、ある種の勲章だと思っている。


 この老翁は、名前をハンター=フォレウッズという。御年六十七歳、ベテランの狩人だ。ノスカリアの東側に広がる森を庭とし、自然の恵みを狩猟採集する仕事をしている。


 葉揺亭もハンターには大変世話になっている。お茶に使うハーブや果物、珈琲の豆など、その森でなければ手に入らない材料が多々あるのだ。


 今日の来訪も、先日お願いしていた数種のハーブの受け渡しが目的だ。代金は引き出しに用意してある。それを取り出すために立ち上がりつつ、マスターはハンターに声をかけた。


「今日も飲んでいかれますよね。すぐに用意しますので――」

「いや、やめておこう。こんな格好では、色々汚してしまうからのう」

「だから、そのような事は構わないでくださいって。店主の僕が良いと言っているんだ、いいじゃないですか」

「むう……では、お言葉に甘えようか」


 ハンターは優しい苦笑いを浮かべて、カウンターの席についた。


 背負っていた荷袋を膝に降ろす。数件の依頼品が入り乱れる中から、葉揺亭の物を次々と拾い上げ、カウンターへと並べ始める。そしてその横に、マスターが薄手の布でくるんだ代金を置いた。そうして自分はハンターに出す茶の用意に取り掛かる。非常に簡素な取引の光景、いつも通りだ。


 ただ、今日は代金の他にもう一つあった。成果品を出し終わり、ハンターが袋を畳んだところへ、アメリアが客席側から寄って行った。手には水で湿らせた真っ白のタオルがあった。


「あの、ハンターさん、これどうぞ」

「うむ……だが、これは綺麗すぎるのう。泥汚れを拭うには、いささかもったいない」

「大丈夫です! 私、一生懸命洗いますから」


 胸を張って宣言し、アメリアはタオルをハンターの手に押し付ける。そして、ひらりとスカートを舞わせつつカウンターの中に戻った。


「よい子だのう、アメリアちゃんは」


 ハンターは皺の多い顔をゆるませた。その目は、まるで実の孫娘を見るように温かなもの。そして柔らかいタオルを丁寧に使って、手や顔を拭った。



 ハンターがさっぱりとした顔になった頃、葉揺亭の空間はミントの香りで満たされた。淀んだ空気を洗うようなそれの発生源は、マスターが注いだ紅茶のカップである。


 お待たせしました、と供された茶は、ミントと紅茶のブレンドティ。マスターが与えた名前はずばり「ミンティア・ショット」という。新鮮なミントの葉をふんだんに使った辛口のお茶は、体に溜まった疲れを吹き飛ばしてしまう爽快感を持っている。


――仕事の後はこれだ。


 ハンターは軽く目を伏せ、茶の清涼感を全神経で味わっている。心なしか体が軽くなった気がする。外だけでなく、内に溜まっていた泥汚れまでもが洗い流されたような感覚だ。


 そんな気分には、空間に水音が響いていることも相乗していた。


 作業スペースの端にあるシンクへ目を向けると、アメリアがタオルをすすいでいる姿がある。一生懸命洗う、そう宣言してしまった手前、わずかな汚れすら残してはいけないと思ったのだろう。手にはいたく力がこもっているし、顔つきも真剣そのもの。勢いよく流れる水が滝のようにタオルを打ち付けている。跳ね返りがシンクの周りへ派手に飛び散っているが、アメリアの眼中にはないらしい。


 頑張り屋の娘、微笑ましい光景だ。紅茶をすすりながら、ハンターはにこやかに様子を見守っていた。


 しかし、それは始めだけだった。アメリアの手仕事がちっとも終わらないと見るや、徐々に老人の顔に陰りが差してくる。目線は少女でなく、流れ出る水へと向いている。


 そしてとうとう我慢が溢れた。ハンターは静かに柔らかく、苦言を呈した。


「のう、アメリアちゃん。水は、もう少し大事に使わなきゃいかんぞ。際限なくあるものではないからの」

「でも川もありますし。雨も降りますし」

「川は枯れるかもしれんし、雨は降らないかもしれん。水がなくなってしまったら困るだろう? 無駄に使ってしまってはいかんよ。水は大切な自然の恵みだ、アメリアちゃんだけのものでもないからのう」

「はい……ごめんなさい」


 アメリアはしゅんとして水栓をひねった。溢れ出ていた水はぴたりと止まる。賑やかだった空気が、静まり返った。


「……干して来ます」


 アメリアは絞ったタオルを持って、二階にある小さなベランダへと向かった。彼女が消えた扉の向こうから、ゆっくり階段を上がる足音が弱々しく店に届く。


「ううむ……マスター、差し出がましい事をして悪かった。後で慰めておいてくれんか」

「ええ、わかりました。でも、ハンターさんが言う事は正しいと思います。だから謝る必要なんてありませんよ」


 マスターは肩をすくめた。本当に気にしていない風で、飄々と、受け取ったばかりのハーブを保存する作業を続けている。


 余裕でいられるのは、アメリアの性格をよく理解しているからである。彼女はすぐに萎れるが、回復も早い。ベランダに洗濯物を干しながら、ついでに少しぼーっと風景を眺めて、光と風にあたって。それで戻ってくる頃には、またいつもの明るい花のような娘に戻っているはずだ。



 ところが。マスターの予測は外れた。


 タオル一枚干したにしては、戻ってくるまでにずいぶん時間がかかった。そこまでは考えた通りなのだが、店に戻って来たアメリアは、変わらず暗い顔をしていた。


 となると、気まずいのはハンターである。自分の一言が思った以上に刺さってしまった。再度、申し訳なさそうにマスターを見る。


 今度はマスターも困ったように頭をかいていた。マスターもアメリアをたまに叱るが、ここまで尾を引くのは経験した事がない。彼女は良く言えば前向き、悪く言えば能天気なのだ。それに、アメリアはどちらかと言えば、自分の気持ちを抑えてでも、客の前では笑顔を作ろうとする性格なのに。


 参ったな、と、マスターは注意深くアメリアの表情を観察する。特に目だ。目は、口よりもずっとものを語る。


 すると、マスターには見えてきた。アメリアの顔にはびこる影は、落ちこみや悲しみよりも、不安と恐れに寄っている。すなわち、なにかしら心配の種がある。では、それはな一体なんだ。彼女の目は、ちらちらとシンクの方へ向いている、という事は――わかった。


「ねえアメリア。もしかして君、今すぐにでも、水が枯れて出なくなっちゃうって思っているのかな?」


 マスターの問いかけに、アメリアはちょっぴり肩を跳ねさせた後、おずおずと頷いた。本人はいたって真剣である。が、マスターは腹を抱えて笑い始めた。


 そう、アメリアは純朴な娘だ。純粋過ぎて、人に言われたことを簡単に信じる上に、極端な発想へ走りがち。一度思い込んだらそのままで、どんなに突拍子がなくとも疑おうとしない。そういう子供なのである。


 まさかそんな馬鹿な。ハンターの呆れ顔にはそう書いてあった。だが、そのまさかなのである。マスターはひとまず客へ苦笑いを見せてから、アメリアへと向き合った。少し姿勢を低くして、目線を合わせる。


「そこまで心配しなくても大丈夫だよ、今この瞬間には無くなったりしない」

「本当に大丈夫ですか? 私のせいで町中のお水が……」

「大丈夫だって。今までもずっと平気でやってきただろう。あんな事で水源が枯れるなら、君より先に僕が怒られているよ。ほら、あんな風に蒸発させっぱなしだ」


 マスターが示したのは焜炉(こんろ)にかかるケトルだ。火は細めてあるものの、いつでもすぐに茶が蒸らせるよう常に軽く沸騰した状態に保ってある。そのため、ケトルの口からは絶えず湯気が吹き出し空中へ消えていく。


 アメリアは納得の表情を見せた。


 ただし、と、マスターはきちんと指導も入れる。


「水は命の素であるのは違いない。だからハンターさんの言う通り、大事にはしなくちゃいけないものだ。君も、僕も。わかったね?」

「はい」


 答えたアメリアの顔には明るさが戻っていた。これで一安心、男二人分のほっとした息が響いた。


 そして、マスターは仕上げとばかりにシンクへ行き、水栓をひねってみせた。当然ながら水は静かに流れ出る。アメリアもほっと安堵の息をついた。


 水栓を閉めて、しかしマスターはその場から動かない。どこかうっとりとした目つきでシンクを見つめている。そしてしみじみと語り始める。


「それにしても、こんな風に水道を整えたのは、ノスカリアの偉大な業績だよ。おかげで僕は水の確保に悩まされず、こうも気楽に店を営める。ありがたい話だ、本当に」


 栓をひねれば清浄な水が出てくる、こんな便利な生活はイオニアンの他の都市ではまずできない。ここノスカリアならではの光景である。


 卓越した水道整備が急速に進んだのは、ひとえにノスカリアという町の性質ゆえだ。多くの人や物が交差する、街道の十字路の町。数多の旅の補給基地の役割を果たすために、安全な水を安定して供給できる仕組みが必要不可欠であった。なおかつ、それを成し遂げる大水道構想の理想図を実現させられる知識技術ならびに労働力が、多様な背景を持つ人が集うノスカリアの町では十分に揃えられたのである。動機と手段、どちらもが奇跡的に整っていたノスカリアからこそ、叶えられた夢なのだ。


 水環境の向上は色々な方策で行われたが、最も誇るべきは、北部高台の地下に張り巡らされた水路だ。地下水路には北西の方角にある川から水が引き込まれ、常に安定した水量が確保されている。さらには水質を良くするため、植物繊維を用いたごみ取りや、大地の魔力を持つアビラストーン「翆晶石(すいしょうせき)」による解毒と浄化装置の設置など、色々な工夫が施してある。


 高台にある裕福な上流層の屋敷は、全戸でこの水路に管を通して清浄な水を引き上げ使っている。また高台の下の町にも、ここから派生した細い水路や管が通されている。葉揺亭の近辺は高台同様に地下へ通されている。また地上に掘った溝を流している場所もある。すべてを合わせれば、一繋がりの水路で町の全域を網羅できている。


 加えて、数多くの井戸が公用私用それぞれ掘られているし、町の南西と南東にある共用の炊事場も水の供給源となる。もし渇いた旅人が商店街で適当な店に水を分けてくれと転がり込んでも、おおよそ快く応じてもらえるだろう。水事情に関してはまったく死角が無い、世界屈指の先進都市なのだ。


 しかし裏を返せば、水の尊さを一切感じられない環境である。だからアメリアはあのように振る舞ったし、同じ状況に置かれれば、ノスカリアの若者の多くが同じ事をするだろう。生まれた頃から水があって当たり前の環境で育ったのだから。


 だから、古きを知る者としては、このような状況に少し苦言をこぼさずにいられない。ハンターは吐息まじりに言った。


「便利になるのは良い事なのだがのう、どんどんありがたみが薄れておる。悲しい話だ」

「嬉しくないのですか?」

「ううむ……まあ、水が原因で疫病が出るあの時代に比べれば、ずっと良いかのう」


 ハンターは静かに言うと、爽やかな香り沸き立つカップをじっと見つめてから口に運んだ。


 水道整備が途上の頃は、ノスカリアには井戸水や雨水が原因となる病が蔓延っていたのである。ちょうどハンターの幼少時代だ。地下水路の建造はほぼ終わっていたが、浄化の設備が整っていなかった。それが災いし、疫病が発生して町に大きな被害をもたらした。


「悲惨だったよ。わしと同い年の子も大勢死んだし、外からの人が寄り付かんから商いもままならん。貧しくなれば衣食住も質が落ち、弱って病にかかる。しかし貧しいがゆえ医師を呼ぶ事も薬を買う事もできず、さらに重く患い、苦しみ……あの惨状を知っておる身としては……うむ、今は本当に恵まれておるのう」


 ハンターはふっと笑った。


「まったく。アメリアちゃんみたいな子に、ハイドラートの葉で消毒をした苦い水を飲ませなくてよいのは、ほんとうに幸せなことだ」

「は、ハイド、ラート……?」


 聞き慣れない単語にアメリアが首を傾げた。葉、というのだから草木の名であると想像はつくのだが。


「森にある背の低い木でのう。綺麗な花が咲くんだが」

「わあ、素敵です!」

「それだけではなく、薬の葉になるのだ。水につけて、沸かして、それをもう一度冷まして水にして。そうすると、汚れた水がようやく飲める。ただ、ものすごく苦い。大人でも眉を顰める程だ、子供の口にはとてもとても」

「大変だったんですね。……でも、それって、なんだかお茶みたい」


 葉を沸かして成分を出し、飲む。その部分がよく似ている。ハイドラートは苦いらしいが、紅茶も苦いといえば苦い。


 彼女のなにげない呟きに、マスターがきらりと目を光らせた。いきいきとした声音が、茶のことでは閉じるを知らない口より発せられた。ぴっと人差し指を立てて、気持ちよく。


「いい着眼点だよ。まさにそう、茶と薬は紙一重なんだ。紅茶だって、体に良い薬だ、そんな風に考えて飲む人がいるものさ」


 例えば体調の改善、例えば風邪の予防、例えば解毒――そんな実際的な効果が求められることは少なくない。まさに、薬草を煎じて服用するのと同じように。


 そして、茶が薬になるなら、逆もまたしかり。


「今は紅茶にとってかわられたけれど、一時はハイドラートも嗜好品、つまり、お茶として飲まれていた事があったんだ。ノスカリアじゃあ入手しやすいし、苦味とはいえ、水よりも味があるからね。むしろ、あれをおいしいと言うのが通である風潮すらあった」

「あれ? それなら、どうして紅茶に? ハイドラートでいいじゃないですか」

「簡単なことさ。紅茶も安価にたくさん出回るようになったし、こちらの方が圧倒的においしいから。それに、水を消毒する必要がなくなって、誰もハイドラートを採ったり育てたりしなくなったからね」


 需要も減り、供給もなくなれば、廃れるのは必至。ノスカリアの水の物語が良い方向に進むとともに、ハイドラートの薬の物語は終わりを迎えたのである。閉じられた本の中身は、忘れられていくのみ。


 だが、すべての人がハイドラートの記憶を消してしまったわけではない。


「わしは今でもたまに飲むぞ?」


 ハンターが眉を上げた。ミントの効いた紅茶で口を湿らせ、葉揺亭の二人に説く。


「森の中に入れば、どこでも綺麗な水が手に入るわけではない。濁った沢しかないところや、場合よっては、まったく水源が無いところに入らねばならぬ。そうした時のために、ハイドラートの葉を水筒に入れて持ち歩くのだ。貴重な水が傷んでしまわないようにのう」


 水は大切なもの、自然を相手に生きてきたハンターは、身をもって知っている。常に隣にあるものではなく、しかし水を飲まなければ人は生きられない。どうしようもない自然の摂理である。昔の人々も理解していた。ハイドラートの苦い水は、命を繋ぐための先人の知恵だ。


「あの苦い味を感じると、昔のことを思い出す。そうすると、今の綺麗な水が飲めるノスカリアに感謝を忘れずにいられるからのう」


 ふっと笑った老人の顔には、感傷があらわになっていた。


 不意に、アメリアがグラスを持ってシンクに走った。


 水栓をひねれば、澄んだ水が流れ出て、差しだしたグラスをあっという間に満たす。光源石の照明に透かせば、美しい輝きを湛えているように見えた。アメリアはほがらかな顔でグラスに口をつけると、静かにちびちびと飲む。


「おいしいお水です。大事に飲まないと」


 たかが水、されど水。あたり前にありすぎてすっかり忘れてしまっているが、今こうして安全な水がある光景が、本当はどんなに幸せなことなのか。


 なにげない日常の礎には、数多の努力や苦心の物語がある。ハンター老翁が語ったことは、水と同じくらい大切な気持ちを思い起こさせたのだった。


葉揺亭 本日のメニュー

「ミンティア・ショット」

この世界で最も普遍的な紅茶・シネンスにミントの生葉を細かく刻んだものを混ぜ込んで抽出したブレンドティ。

疲れを吹き飛ばしてすっきりとした気分になりたい時や、食後の口直しに良し。

ミントの量はお好みで。


ノスカリア・食べものダイアリー

「ハイドラートの薬湯」

非常に強い消毒・殺菌効果がある低木の葉を煎じたもの。薄い緑褐色を呈する。

苦味が非常に強い、大人でも舌を渋らせる。

現代では茶として嗜好するのは極まれ、葉揺亭でも茶としての扱いは無い。

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