ノスカリア雨景(1)
ノスカリアは雨音に包まれていた。石畳の表面を水のヴェールが覆い、天より来たりし雫たちが次々と跳ね踊る。自然が魅せる歌劇の舞台を邪魔する人は誰も居ない、はずであった。
ばしゃり、と一際大きく水が跳ねた。糸のごとき雫を思いっきり受けながら、一人の少女が町を駆けて行く。厚い雲と湿った空気が支配する世界で、その少女、アメリアだけは小さな青空を纏っていた。
動く空の正体は、頭から被った青色のケープである。マスターが作ってくれた、雨を弾く不思議な力を持つ逸品だ。頭巾の部分は深い紺色で、それが肩に流れるに伴って空色へと切り替わっている。紺色の部分の布地についてはアメリアにも見覚えがあった。独特な紋様が刺繍された、魔法屋クシネ謹製の水を一切通さない布である。以前購入したそれに、マスターが自前の布をつぎ足して雨避けケープとして縫い上げてくれたのだ。
丈は胸元あたりまでしかない。本当は全身を覆うコートに仕立てたかったが、いい具合の布地が無かった、とマスターは言い訳していた。しかしこれで十分だ。頭が濡れないだけでも雨の中を平然と歩けるようになる。
そんな秘密道具の出来を確かめるついでに、一仕事した帰りが今である。常連客であるオーベルが忘れ物をしていったから、彼の営む宿屋まで届けに行ってきた。
『別にこんな雨の日にわざわざ来なくてもよかったのになあ。俺はまた明日も行くし、急いで必要なもんでもないしよ』
オーベルはそんな風に苦笑していたが、逆だ、雨の中だから都合がよかった。そんなアメリアの気持ちはなかなか通じなかった。
さぞ冷えただろう、とオーベルの好意で蜂蜜湯をご相伴にあずかった。確かに頭は無事だが足はしっとりしていたから、甘く暖かい一杯にはとても癒された。
宿の待合で一息ついている時にふっと脇を見たら、常駐の異能者ギルド『緑風の旅人』の面々が、白昼堂々酒盛りをしていた。話を聞けば、雨に降られるとまともに活動できないからと。なるほど、彼らの主な仕事は森での狩猟採集や旅人の護衛兼道案内などであり、外が仕事場である。だったら雨は厄介な敵だ。
そんな風だったから、アメリアはちょっとした優越感を覚えた。誰もが、人として特異な存在であるアビリスタたちすらもが厭う雨の日が、自分だけさっぱり平気であるのだから。この瞬間、間違いなくノスカリアで一番幸福な少女であった。
仕事はささやかなお使いだけだったのだが、浮ついた気分のアメリアが真っ直ぐ戻るわけがない。宿屋「緑風」より北東方向へ歩けば、すぐに大きな商店通りへ出られる。そちらへ少し寄り道をしてみようと足を向けた。
ノスカリアの誇る商店街には日々常に人が溢れ、店へと客を呼び込む声が響き渡っている。それがどうだ、今日はすべてが息をひそめている。真昼間なのに、夜が降りてきたかのように静かだ。人影はまばらにあるものの、すっかり濡れそぼって無言で歩いていたり、雨の当たらない屋根の下をそろそろと伝っていたり、平時の活気はどこにもない。
知っている景色なのに、まるで知らない景色でもある。不思議な心地だった。なおかつみんなが暮らす世界であるが、今は自分だけがこの世界を自由に歩ける。そう思うとたまらなく心地よかった。
さあ、ひれ伏せひれ伏せ皆の衆、アメリア様のお通りだ。そう言わんとばかりに、アメリアは通りのど真ん中を一人悠々と歩いていた。
と、そんな折、前方から似た様にケープを被った小さな人影が走って来た。その子の黄色いケープもしっかりと雨を弾いている様子。しかもあちらは足元までしっかりと覆いかぶさる丈で、頭部分には獣の耳を模した三角形の飾りが二つついている。そう、機能的な上に愛嬌まで備えているのだ。晴れやかだったアメリアの心に少しだけ雲が差した。雨が平気なのは自分だけじゃなかった。おまけに隣の芝は青い、向こうの着ている物の方が良いものに見える。
しかし、耳付フードから覗いた顔をちらっと見たとたん、アメリアの心の雲は一気に吹き飛ばされて去っていった。
「あら、クシネちゃん!?」
「おろろ、アメリアのお姉ちゃん? なんでこんな雨の日にお外に居るの!? すっごいびっくりなの! とりあえず、こんにちは、なのー!」
そう言って、小さな魔法屋はアメリアの正面に立ち顔を上げた。歯を見せてにかりと笑う、そんな彼女の笑顔は太陽のよう。
しかし、眩さはあっという間に驚愕の色で覆い隠されてしまった。
「そ、それっ! かぶってるそれっ!」
「ああ! そう、クシネちゃんの布です! マスターがこういう風に縫ってケープにしてくれたんですよ。私、嬉しくって」
「うぉぉ店長さんが!? 見せて! 見ぃせてっ!」
ぴょこぴょこと三角耳が跳ねている。今にもアメリアのケープを引っぺがさんかの食いつきようだ。絶えず降り続ける雨の中でそれは困る、心の魔法が解けてしまう。
じゃあ、どこかで座ってお話しをしましょうか。先にそう言ったのはどちらだったか。二人は自然と連れ立って歩き始めた。傍から見たら、仲の良い姉妹のように思われるだろう。
幸いなことに、ノスカリアには休息が取れる場所が星の数ほどある。旅人と共に発展した町ゆえだ。種類も大衆食堂から、酒場、宿とより取り見取りである。
アメリアたちは手近にあった食事処へ入った。特に有名な店というわけでもないが、路面に面した部分が全開放されて壁がなく、入りやすい印象を覚えたからだ。入店すると恰幅の良い女性の優しげな声が迎えてくれて、それだけでぽっと心が温まった。
店の奥には他にも二組の客が居る。少し迷ってから、外に近い席へ陣取る。雨の匂いも感じられる良い席だ。使いこなされ油染みも見られるメニュー帳へ、クシネが興味津々とばかりに覆いかぶさった。
「クシネ、お腹空いちゃったの。なに食べよっかなー――この『カテット』ってなんなの?」
「イモの千切りを焼いたものです。それに『ピピン』の実を潰して塗って食べるんです。カリカリしてて美味しいですよ」
「うー、とってもおいしそうなのー。でもミートパイも食べたいし――」
「じゃあ、半分こは?」
「それに決まりなの!」
「飲み物も頼みますか?」
「そうするの! ごゆっくり、なのー」
「それはお店の人の言うことですよう」
えへへと二人は笑いあってから、飲み物も含めて注文をする。これが暇な親父たちなら、ついで酒を一杯煽るのを良しとするだろう。だが、ここに居るのはうら若き乙女たち、簡単な料理に添えるのは、優しく甘い野イチゴ水で決まりだ。
奥の厨房から、とんとん、じゅうじゅうと賑やかな音が聞こえて来る。そんな食欲を煽りたてる音を背景に流し、魔法屋クシネは念願の物を手に取り恍惚と眺めていた。アメリアのケープ、確かに機能は優れているものの、見た目はただの綺麗な布きれだ。だのに彼女は、至上の宝石を得たように恍惚としている。
「はうぅ、店長さんって、ほんっとすごいの」
「そんなにですか? ただ布をつぎ足して縫っただけだと思うんですけど」
「ただ縫っただけ!? とんでもないっ! これだから無知は困る、の」
ぷんとしかめっ面をして、しかしアメリアのためにと勝手に解説を始める。
「あのね、クシネの布には、クシネの魔法がすっごく丁寧に織り込んであるの。だからその布は水を通さないの。もちろん魔法が織り込んである部分だけだから、他の布と繋げて大きく使おうとしても無意味なの」
「それができたら、クシネちゃんのお道具が売れなくなっちゃいますもんね」
「そうなの。でもね、これは店長さんが足した部分の布もちゃーんと水をはじいてる。ということは、こっちにはこっちで店長さんの魔法が織り込んであるはずなの」
「はあ……これでも特別な布だったんですね、ただの無地の布にしか見えないのに」
「それなの」
「え?」
にわかにクシネは真面目くさった顔をした。急に語気が強くなり、いっそ突然大人になったようにすら見えた。
「クシネの目から見てもただの布にしか見えない。全然魔力が発せられていないし、魔法陣を始めとした術式も欠片すらない。それがおかしいの、一切何の気配も残さず魔法を使うことなんて、理論的にあり得ない」
「はぁ……」
「そもそも、他人の魔法に継ぎ足して魔法を成立させるなんてこと自体がおかしいの。コルカ・ミラの教科書魔法ならともかく、クシネが一体どれだけ苦労して自己流の体系を作り上げたか――」
クシネはぶつぶつと独り言をまくしたて、空色のケープをばさばさと振り、穴が空くほど調べている。まさに夢中という言葉がふさわしい。
アメリアはとっくに解説から振り落とされ、ただ引きつった苦笑いを浮かべていた。どこぞの店主といい、魔法に見識を持つと独りで喋るのが好きになるのだろうか。少し呆れてしまう。
クシネは最終的に表裏二枚合わせになっている事へ着目し、きっと目を細めた。
「絶対この中に種がある……。アメリアのお姉ちゃん、一回裂いちゃだめ、なの? ちゃーんと直すから」
「だめ。マスターが私のために手間をかけて作ってくれたものですから、絶対にだめ」
「うー……」
「と言うか、そんな正体のわからない物をいじるなんて危ないわ」
「大丈夫なの、ちょっと破いたくらいでひどい目に遭うような代物だったら、そもそもアメリアのお姉ちゃんに渡すなんてしないと思うの」
「確かに」
「当然ずっと身に付けてても平気なの。外から魔力が見えないってことは、外への影響もないってことなの。それでもお姉ちゃんが怖いっていうなら……そんな危険な物、クシネがもらってあげちゃうの!」
「だめですって! マスターのやる事は信用してますし、怖くなんてないですから!」
「わかってるの。ちょっとした冗談なの」
と、クシネは笑っている。しかし、ケープを掴んだ手は固く握りしめて離さない。
結局アメリアが半ば無理やり引っ張り取って、ようやく宝物は持ち主のところへ戻った。これからは不届きな魔法使いに盗まれないよう、肌身離さず大事に持っておこう、という決意も共に。
一波乱はあったものの、食事より一足先に野イチゴ水が供されると、一転ほのぼのと甘味を楽しむ空気になった。ほのかな甘さの向こうにやや酸味があるさっぱりとした口当たりの野イチゴ水は、今日のようにじめじめした日にうってつけだ。
薄紅色のグラスを両手で持ちながら、クシネが遠慮気味に声をあげた。
「ねえ、アメリアのお姉ちゃん。ケープのことの前からずっと気になってたんだけど……あの店長さん、一体何者、なの? どこにいたとか、何してたとか」
「マスターの過去ですか? そんなの、むしろ私が知りたいくらい」
「ほえ?」
「だから、私も全然知らないんですって」
当然でしょう? とでも言いたげなアメリアの表情を見て、クシネは口をまん丸に開けたまま、瞬きも忘れて固まっていた。




