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紅月夜の客人(2)

 ティーザの右隣に座り、彼の前に砂糖が入っている方のマグカップを置く。そうしながら、まずは自分が味をみた。酒を飲むなど久方ぶりだ、喉がかっと焼けるこの感覚がいっそ新鮮である。


 味のほどはなかなか良であった。酒類特有の苦みと臭いが、紅茶の風味で丁度よく緩和されている。かつ、果実の自然な甘みと華やかな匂いが、お互いを引き立てるように存在を主張する。ぬるめの温度であったのも、おいしさを高めるには意図せず追い風となった。もしこれが湯気もうもうと立つような熱さだったら、酒の臭いがきつすぎて、今みたいな調和はなかっただろう。


 ほう、と息をつき、カップを一旦カウンターテーブルへと置いた。そして正面方向に広がる暗闇を遠い目で見ながら、自嘲気味に笑った。


「月夜の静謐さを肴に上等な酒を飲み、旧き友と語らう、か。大罪を犯したこの身には、少々贅沢が過ぎる趣向だな」


 あえて含蓄を持たせたうえで、相手の出方を伺う。


 反応は薄かった。横目でちらりとこちらを見た、それだけ。普段なら、皮肉がかった返答の一つでも期待していいのだが。


 嘆息する内心と裏腹に、表面には深刻さを出さないようにして、主たる男は体を隣に向けた。


「それで、一体どうしたんだ。今度は何が、おまえの心をそこまで痛めつけるのだ」


 すぐに返答はなかった。小さく首を動かしたことにより零れ落ちた青い髪が、横顔をも覆い隠してしまう。目線のある先は、温かみのあるマグカップの水面。だが手に取ろうとはしない。


 気長に待ち、待って、やがて。ティーザは心のよどみを絞り出し、ひそやかな声に乗せて発した。


「よく、わからないんだ」

「わからない?」

「このまま俺はまともな人間のふりをして生きて、本当にそれでいいのか。わからない」


 やっとのことで絞り出した、闇に消え入るような声だった。しかし一度独白を始めたら、後は流れるままに続ける気になったらしい。


「俺はみなを騙している。人を教えられるような立場じゃないし、こんな手で、子供の手を取っていいわけがない。そもそも、人と交わって生きていくことすら、俺は、本当は、してはいけない」

「今の状況が嫌なのか」

「違う。違うから、苦しい。いつか必ずあの人たちを裏切る、いつか必ず傷つける。そうしたら、取り返しのつかないことになってしまう、それが怖い。だからそうなる前に、俺は、消え……」


 途中まで言いかけたところで、ティーザははたと口をつぐんだ。顔の向く先はカウンターに落とされたままであるから、隣の男がひどく険しい形相をしている事に気づいたかは定かでない。


 ティーザはそっとマグカップに手を伸ばし、ようやく中身に口をつけた。味の感想などは特にない。


 自己否定感。彼を痛めつけているのは、彼自身の中から沸き起こってくるそれだ。亭主は理解した。そして同時に、その一点が打ち破れないまま昔から変わっていないのだと、歯がゆさも感じた。


 重苦しい暗闇の中に、昔日を思う。


 ティーザという人物は筆舌するのも難しい生い立ちだ。まともでない世界にて、まともでない者により生み出され、まともでない生き方を強要されていた。そして自身の心身も、生まれつき一般的な人とは言い難いものであった。


 はじめて彼の――ただしその時は、彼「女」だと認識していた――存在を見出した時の光景は、今の事のように思い出せる。暗く閉鎖された空間で、錆鉄と腐肉の吐き気をもよおす臭いに包まれて、瞬き一つせず虚空を仰ぎそこに居た。居た、と言うよりは、あった、というべきか。遊び飽きられ壊されて捨てられた心の無い人形、まさにそういうものだった。


 後の出来事を考えると、何も感じさせないままにそこですべてを終わらせてやるべきだったのかもしれない。だが、その時は未来の事などわからなかった。後に人からマスターと呼ばれるようになる男は、救いの手をさしのべたつもりで彼女をその場から攫い、自分の子供を育てるようなつもりで傍に置いたのだった。


 ただ悲劇だったのは、親の立場にあたる彼自身とて、とうていまともな人間の感性をしていなかった事である。親が子を育てるとはどういうものであるのか、慈しみ愛するとはどういう精神を指すのか、それを行動で表すにはどうすればよいのか、まるでわかっていなかった。だから、結局、うまくいかなかった。


 生きながらにして死んでいるような状態から、一人の人として生きていけるようになるまで、一応形ばかりを導くだけはできた。しかし、一度粉々に壊れてしまった心は、外側を修復しても、その実脆く壊れやすいものだった。世間の人々との様々なずれ、ささくれのような違和感すら、致命的な深い傷になりえた。ある種無垢な精神は、悪意の格好の標的にもなりがちで、罵声や非難、時には暴行を受ける事例すらあり、それがまた心を傷つけ、壊し、荒れ狂わせた。この世のすべてが憎い、恐ろしい、そんな衝動であらゆるものを破壊して回った。そして衝動が去った時に残るのは、大事なものを自らの手で壊したという自己嫌悪。それがまた自分の心を追い詰めて――ひたすら、その繰り返しだった。


 思い起こすほどに、あちこちがずきずきと痛んだ。心もそうだし、物理的な傷の幻痛もある。荒れ狂う破壊者の爪牙は、自身を育てた恩人にも容赦なく向けられたのだった。


――後悔していないと言ったら嘘になる。


 もう少し自分がまともに人を育てられたら、そう例えば今、同じ現場に出くわしていたとしたら、もっとうまく繊細な心を守ってやれただろう。どうしてもそう考えてしまい、ティーザに申し訳なくなる。


 それでもティーザは頼って来てくれる。慕う相手として心を開き、助けてくれと求めて来た。ならば過日の悔恨は脇に退け、現在の持てる力で応え、諭し、慰め、道を示すのが、一度でも身命を引き受けた者としての役目だ。そう思いながら、彼は保護者として静かに口を開いた。体の向きを変え、まっすぐに相手を見つめながら。


「あの紅い月が何なのか、おまえは知っているか?」


 急に明後日なことを問いかけられたティーザは、怪訝にかたどった面をあげて主を見た。そして、首を横に振る。


 すると、にいっと亭主が笑った。


「あれは、太古に封じられた地上の邪神たちのなれの果て。イオニアンに存在すべきでない許されざるものとして、地上から永久に葬られたものの集合体だ。白月(はくげつ)と違い、まっとうな天体ではない。紅い光は、封印から漏れ出る彼奴等の邪念と魔の力が可視化されたもの。だから紅月の光は、地上を狂わす魔の光となるわけさ」

「……それをお前が言うなら、真実なのだろうな」

「盲信ありがとう。だが、私が語りたいのは月の真実ではない」


 ティーザは釈然としない顔をしている。所在なげに伸ばされた手がマグカップを包み、無意味に指で取っ手をいじっている。中身はほとんど減っていない、まだ脳は冴えているはずだが。


 だから今度ははっきりと伝わるよう、月の逸話に込めたものを明確に語り聞かせた。


「おまえは今、私の目の前に居る。それはつまり、イオニアンという世界そのものが、一人の人間としておまえが地上に存在することを許した証だ。だからおまえが自己の存在を罪と思う必要は無い。おまえは自分が思うがまま、好きに生きればよいのだよ」


 誰がなんと言おうとも、過去になにがあろうとも、今を生きている事実があるとはそういう事なのだ。存在すら許されない生命など、一つもないのだから。


「未来の話、過去の話、他人の話。そんなもの、いくら考えたって自由に変えるなどできやしないのだから、あまり気にしすぎるな。私がそうしているように、おまえも自分の幸せを追っていいのだよ。もし他の誰が許さなくても、この私が許す。……私が言うなら、真実なのだろう?」


 ティーザはくっと唇を噛みしめた。カウンターの向こうにあるランプの小さな光が灯っていた目が、しかしすぐに悩まし気に伏せられる。


 亭主は一旦手元の酒で口を潤した。はあ、と一息つき、「おまえも適当に飲みながら聞け」と嘯いてから、語るを続けた。先ほどまでとは打って変わって、静かで細く、どこか不安げな声音だった。


「正直な事を言うなら。おまえとここで再会した時、私は、怖かったよ。偶然にしろ仕組まれたにしろ、ついに過去の清算をする時が来てしまった、と。この場で断罪されるか、あるいはすべてを捨ててまた逃げるか、どちらかしかないと思った。どうすればアメリアを傷つけないで済むか、皆に迷惑をかけないためにはどう終わるべきか、久々に心の底から焦って考えていたさ。でも……」


 ふっと亭主は笑みをこぼした。そこから先は声も一段明るくなる。


「それ以上に嬉しかった。またおまえに会えたこと、確かに嬉しかったよ。すっかり頼もしくなって、元気そうにしていて。あの時、魔境からおまえを連れ帰ってよかった、心からそう思った」


 本心を、愛情を素直に伝える、思えば今まであまりしてこなかった。否、するだけの度量も配慮もなかった。人には素直じゃないなどと言っておいて、なかなかひどい話である。亭主は自嘲しながら、苦々しさを洗い流すように酒をあおった。


 ティーザはいつの間にか横顔を見せる角度まで視線を逸らせかつうつむき気味になり、瞼を手で押さえるようにしていた。


「なんで、あんたは、そんなに優しい……」

「優しいか? とてもそうは思わないが。でも、そうか。君の言う通りこちらも変わった……ああ、『僕』はうまく人並みにやれているって事なんだろうな」


 本当はひどい人間だよ、と男は自嘲した。


 言わば、仮面をかぶり「葉揺亭のマスター」という役を演じているようなもの。だから優しく人好きのする人間に見えるが、本質的にはまったく違う、そう自覚している。人に憎まれても仕方がない、蔑まれても仕方がない、恐れられても仕方がない、見放されても仕方がない。ティーザの件のみならず、「マスター」になる以前はそういった咎を繰り返してきた。そんな古くてかび臭い記憶、背負った罪は、自分でも直視したくないから、誰の目にも触れないよう隠してあるだけ。


 だが、それでいいとも思っている。知らなければ存在しないのも同じ。アメリアや葉揺亭に来るお客には、こちらから話さない限り、マスターの過去を知る由はない。博識で瀟洒(しょうしゃ)で少し偏屈だが優しいマスター、彼ら彼女らの中ではそれが自分の本質になる。徹底して行えば、過去の自分を塗りつぶしてしまう事だって可能だ。


 それにしても、だ。自分がこうありたいと思い実際にそうなるよう振る舞う、ティーザもそれができれば、あるいは既にそれができていると自覚すれば、自己の存在価値に悩む必要はなくなるのだが。



 果たして、ティーザからの返事はなかった。代わりに空気をすするような音が、不定律に響いていた。


 やれやれとばかりに亭主は息を吐き出した。頬杖をついて、隣の青年を眺める。生来から心身ともに両性だった。それが今ではすっかり男前の顔つきになった。そうなるように、彼が望み振る舞った結果である。が、昔の無垢で儚く麗しかった頃の面影も消えていない。それは心のありようにも言えること。


「まったく。昔みたいに泣いてみるか? 衝動のまま感情の赴くまま、すべてを吐き出すのも悪くない。ここなら他に誰も見ていないし、聞いてもいないさ。アメリアももう寝ているし」

「……そんなことした覚えは、ない」

「さすがにそうか。ずいぶん昔の話だし、おまえも幼かったから。でも私は覚えているよ。長いおでかけから帰ってきたなり、いきなり胸に飛び込んできて。何事かと思ったら、理由も言わずにわんわん泣き出して……そうだ。おまえの涙を見たのは、それが初めてだった」


 ふっと湧いた寂寥感を紛らわせるように笑って、そして酒で口を濡らし、語る。


「長い髪はいい、どんな顔も隠してくれる。……ああそうだ、そう言えば、私も長くしていたよ。それも引きずるくらいに。驚くだろう?」

「知っている。アメリアみたいに、編んでいたじゃないか」


 それを聞いて、亭主は満悦の顔で笑った。


「なんだ、覚えているじゃあないか。そう、ちょうどおまえと一緒に居た時分の事だ」

「……意地悪な人だ」

「だから言っただろう。優しくない、ひどい人間だって」


 余裕と愛に満ちた笑みを、首を捻って恨めしい顔を見せるティーザに手向けた。すると、ぷいと彼はそっぽを向き、やけになったようにマグカップの中身を一息に飲みほした。


 そのまま丸まった背中に、今度は茶化さず真剣に声をかける。


「強がっているだけでは、いつか耐え切れずに壊れてしまうよ。たまには吐き出せ。激情をぶつける先が欲しいなら、いつでも相手になってやるさ」


 椅子を動かして、隣に寄り添う。そして手を背中に伸ばし、優しく擦るように動かす。薄い肉付きの体は、裏を返せば無駄がないということ。しなやかに引き締った筋肉を備えた背は、伸ばせば頼もしく見えるだろう。しかし今は、ただただ細く弱々しい。そして、愛おしい。


「だが……俺は……もう……。泣いていいのは、子供と――」

「誰がそんな事を決めた、大人が泣いたっていいんだ。甘えたっていいんだ。無理をするな、他人を頼れ」

「でも、俺は、そんな、優しくされていい……ものじゃ……」

「己を責めるな。……すまない、親が悪かったな。生んだ方も、育てた方も」


 そう言って、育ての親は立ち上がった。そして静かに涙をこぼす幼子の頭を胸にかき抱いた。むせび泣く音が、胸に心臓に直接響く。あやすように青い髪を撫でた。抱き留めた彼の感触は、昔時より何も変わっていない。


 紅い闇夜に嗚咽が響く。だが、一人を除いてそれを聞くものはいない。耳無き道具は己の役を果たすのみだ。ランプは闇を照らし、時計の針はゆるやかに時を刻んで。


 やがて、ティーザの掠れた声が響いた。


「俺は、わかっている。本当はここに来るべきではない。それがおまえを、追い詰めて、苦しめることになる。わかっているんだ、それでも――」

「そんな些細な事を気にしていたのか?」

「些細だ、なんて……」

「おまえが私を気遣うなど千年早い。そんなくだらない物事に気をまわす暇があったら、自分自身を大事にしろ。私は自分の事は自分で解決できる。私を誰だと思っているんだ」


 葉揺亭の主は不敵に笑った。


「いつでも安心して訪ねて来い、ティーザ。私は、サベオル=アルクスローザは、常日頃おまえの来訪を心待ちにしているのだから」


 それが町が眠る夜更けだったとしても、喜んで受け入れよう。葉揺亭の扉はいついかなる来訪客をも拒みはしない、そして客人が望むものを提供する。


 いつの間にか二人共のマグカップが空になっている。それを見たマスターは、軽やかに笑いながら言った。


「どうだ、もう一杯飲むか? 世の人は、酒の力で嫌な事を忘れると言う。うまく生きる手段として、そういう物に頼るのも確かにいいかもしれない」

「……勘弁してくれ。いつものでいい」

「なんだ、おもしろくないなあ。まあ、普段通りは、一番安心できるものであるんだけどね」


 そう言い残して、男はカウンターに舞い戻った。


 マスターは二つの飲み物を用意する。一つは温かくて甘くて優しいピンク色のハーブティ。もう一つは、先ほど飲んで気に入った今夜の特別な茶。さっきよりも少し酒の割合を増やし、酒気を強めてみる。過去のしがらみは酒の力も借りて忘れ、残りの夜はとことん愉しく喋るのだ。そうすれば、暗く紅い月夜に忍び寄る狂想も、明るさに負けて裸足で逃げ出していくだろうから。


 紅い月夜が明けるのは、まだしばらく先のこと。二人だけの小さな秘密の茶話会は尽きるを知らない。


葉揺亭 本日のスペシャルメニュー

「蒸留酒の紅茶割り モモ果実添え」

冷たい紅茶で割った、氷を浮かべた酒。

割る場合の茶は濃く作ることが重要。でないと氷が溶けた分で薄くなるし、酒の匂いに完全に負けてしまう。濃すぎたら水や炭酸水を加えて調節する。

果実の自然な風味だけでは物足りない、飲みづらいと思うならシロップなどで甘さを増す。必ずよく混ぜてから召し上がれ。

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