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紅月夜の客人(1)

 草木も眠る真夜中、葉揺亭に薄明かりが灯った。幻想的に揺れる光の源は、カウンターで灯されたオイルランプの炎である。


 壁面に投げられた大きな影がゆらりと動く。静かに歩むその者には足音一つ伴わない。


 そうして店の主たる男は入り口に向かい、玄関扉にかけてあった鍵を解いた。だが、それだけ。こちらより扉を開くことはせず、靴先の向きを変える。


 カウンターの内へ戻る前に、窓辺へ寄った。閉められていたカーテンを少し開け、指先ほどの隙間から外を覗き視る。街は月明かりに照らされて明るいが、気味の悪い(あか)さもはらんでいる。紅月の妖しい光がこのように地上を染めあげるのだ。


――ああ、今日も憎らしいほどに明るい。


 葉揺亭のマスターは遠い目をしてうっすらと笑んだ。明るく鮮やかに輝く紅い月は、地上の民を魅了し、狂わせ、惑わすに長ける。


 瞑目すれば聞こえてくる。いつか聞いた悲鳴が、慟哭が、咆哮が。魂を揺さぶる不協和音として脳裏に響く。これを聞くのが心幼き時だったらば、夢幻と現世の境界を侵されて理性を砕くに至っただろうが。


 亭主は不敵に笑んで首を横に揺すると、さっとカーテンを元に戻し、ベストの燕尾を翻してカウンターに戻った。月になど興味は無い。彼が今心を砕くのは、月に惑わされているだろう者の方である。


 この前あれがやって来た時にはもう、既によろしくない状態だった。すました顔をしているが、内心、苦悩に追い詰められている。だから彼の表向きの用事が終わったあと、わざわざたずねたのだ。相談事は本当にそれだけだったのか? と。


――まあ、あの場で話してくれるとは端から思っていなかったが。


 案の定、彼はそのまま素知らぬ顔で去っていった。浅い付き合いではないのだから、どういう行動を取るかなんて、その理由も含めてお見通しだ。彼が強がらざるを得なかった訳は、他人の目があったから。いつ誰が踏み込んでくるかわからない、昼間の営業中であったから。自分の弱い部分を見られるを厭う、何も個人に特有なことでなし。


 客から要望があれば、夜間営業も特別に執り行うことにしている。だからこの所しばらく、アメリアが寝静まった後に店を開けて待っていた。きちんと約束をしたわけではないから時間を区切った上で、しかし毎夜待ち続けていた。


 一昨日は来なかった。昨夜も音沙汰なしだった。では、今宵はどうだ。そろそろ来るんじゃあないのか――そぞろな心で店主は待つ。必ず来たるだろう待ち人を、人目を忍びたがる紅月夜の客人を。


 静寂が支配する空間に、かちり、と時計の針が動く音が異様に深く響く。


 暗がりの中、オイルランプと混炉の火を頼りにして、店主は帳面に筆を走らせていた。店に関する帳簿ではなく、私的な日記や手記ですらない、ただ思いついたことをつらつらと綴るための紙束だ。そんな風にとりとめなく書きあげたものは無価値だが、書くという行動そのものを有意義だと思っている。俗に言う、暇つぶしだ。


 びっしりと言葉が連ねられた紙は、これで三ページ目をめくったところ。没頭しているから、時間の流れにも気がつかない。


 そんな最中。閉ざされた世界に風が吹き込んだ。肌をかすめる空気の流れに、亭主はぱたと筆を置いて顔を上げた。


 隙間だけ開いたまま驚きに静止している扉が見える。だがそれは、やがてゆっくりと開放された。


 ようやく参じた待ち人の姿、夜目にしかと確認すると、マスターは爽やかな微笑みを浮かべた。


「待っていたよ、ティーザ。来ると思っていたんだ。月があんなに紅いからね」


 来訪者、ティーザ=ディヴィジョンは切れ長の目をわずかに見開いた。そして無言のまま、闇に浮かぶ灯りに誘われるよう歩みを進める。その足取りと共に長い青髪が揺れた。手に持つ物は何であろうか、黒い布に包まれた物体を上部を掴んでぶら下げている。あまり軽い物ではなさそうだ。


 目の前に迫る、憂いを潜めた旧知の顔を見ながら、ふと思いついたようにマスターが呟いた。


「どんなお話でも聞くけれど、君まで『悪夢を見るんだ』と言うのはやめてくれよ。さすがに一季の間に三度目となれば飽きが来る」

「……三度目?」

「レインにアメリア。そして君が怖い夢を見たと泣きついて来るなら、三度目だ」

「残念だが違う」

「そうかい。そりゃ、少しだけ残念だな」


 亭主は肩を揺らした。


 その無駄口を遮るように、客人から携えていた物品が差し出される。強く存在を主張する音と共にカウンターに置かれた。


 手土産か、変な気をつかわなくていいのに。そう思いながらマスターは手を伸ばして贈り物を掴み、自分の側に寄せると、その場で布包みをほどいた。


 中から現れたのは瓶。丸底でずんぐりとしていて、上に細く伸びた口にコルク栓がなされている。中身は透明だ。


 これは、と思うなり店主は首を傾げた。


「酒、か? はて、君は根っからの甘党じゃあなかったかい」

「もらいものなんだ」

「なるほど。処分に困って持って来た、という所か」

「お前も飲むとは思えんが――」

「持て余したら誰か他所へ回るだろう、ここには様々な人が出入りするから。うん、その通りだ。でもせっかくだから今開けよう。ティーザ、一杯くらい付き合ってもらうよ。何年ぶりかな、誰かと飲みかわすなんてさ」


 はははと軽く笑うマスターと対照的に、ティーザは心底嫌そうな顔をして動きを止めた。ちょうど椅子に座りかけていたのだが、腰を浮かせたまま静止して、ともすればそのまま背を向けて帰ってしまいそうだ。


 マスターは腹を抱えながら、大丈夫だ、心配するなと繰り返す。何も潰すつもりはない、客の嗜好には極力沿わせる。それが店主としての当然の務めだ。


 作業台の引き出しを開けてコルク抜きを取りだす。闇の中とは言え、この店は自分の体のようなもの、手探りでも迷わず対象を見つける事ができた。


 コルク抜きを瓶の栓にねじ込みながら、マスターは思い立ったように言う。


「ああ、そうだ。最近、紅い月夜に悪魔が出るなんて噂が入ってきた」

「知っている」

「それならいい。夜に遊び回るなとは言わないけど、気をつけなよ。君に何かがあったら悲しいから」


 ティーザは軽くふんと鼻を鳴らす音で答えた。


 コルク抜きをしっかりねじ込んだ所で、マスターは一旦口を閉ざした。入れるのはともかく、固く閉まった栓を抜くのは存外筋力が必要だ。ぐっと歯を食いしばり腕に力を込めて、回転式のコルク抜きをくるくると回した。はじめはやはり抵抗が強かったが、徐々にそれは少なくなり、最後にはすっと静かに栓が引き抜かれた。


 ふわりと酒精が鼻をつく。あいにく酒のことは葉揺亭の範疇外、紅茶にするような詳しい語りをする知識感覚は持っていない。だが、蒸留酒であることは間違いなく断言できる。銘が入っているわけでもなく、特別に上等な物と言う風でもなさそうだ。


 さて、これをどう飲むか。そのまま酒に慣れぬ喉に流すには、少々匂いがきつい。単純に水割りにしてもよいのだが、それでは全然おもしろくない。じゃあどうするか。一瞬考えてから、マスターはすぐさま紅茶を淹れ始めた。そもそもの話、葉揺亭は酒場ではなく茶の店だ。であれば、茶と組ませるのが最優先。


「熱いのでいいかい?」

「なんだっていい」

「助かるよ。冷たくするにはちょっと面倒だからね」


 茶を濃く抽出する間に、他の物品を用意する。まずは器。戸棚の下部、使用頻度が低い食器や道具がしまってある場所から、分厚い陶器のマグカップを二つ取りだした。


 そして次は、茶の方にもう一工夫を重ねる準備。冷蔵庫から果物を取り出す。小ぶりのモモとオレンジ、どちらも今日の昼間にアメリアが仕入れてきたものだ。


 モモはとりあえず皮をむく。ナイフ片手につるつると表面を薄くはいでいくさまは、職人芸と言っても差し支えない。


 じっとその手つきを見ていたティーザが、ぼそりと呟いた。


店主殿(マスター)、か」


 それはどこか呆れに近い色を含んでいた。


「おまえは……変わったな」

「そうかな。僕からしたら、君の方がずっと変わったと思うよ。昔より頼もしくなったし、それに、そう、いい顔で笑うようになった。……安心したよ、本当に」


 マグカップに八つ切りにしたモモを入れながら、マスターはふっと顔を上げた。すると見えたのは、慌てて逃げるように逸らされた、ティーザの難しい顔であった。普段と違って束ねていない長く青い髪が、肩甲骨の上で跳ね踊った。


「そんなに照れるんじゃないよ」

「別にそんなものじゃない。ただ俺は――」

「良いことだよ。人は成長するもの、変わっていくもので当たり前だ」


 次にオレンジを手に取りながら、マスターは鷹揚に笑った。客席からの反応は無い。


 マスターも無闇に話しかけることはやめた。ティーザは何か話したいことがあって来た、それなら自分から話し始めるのを待つべきだ。こちらから心の扉をこじ開けようとすれば、逆に引いて閉じてしまう、そういう性質であるとは知っている。より正確には、そういう性質になってしまった、と。


 赤みの強いオレンジをスライスしたのち、マグカップに収まるよう半月状に切る。これもモモと一緒にマグカップへ入れた。その上から片方にだけ砂糖を匙でひとすくい振りかける。甘党向けの処方だ。


 果物が詰まった上から、マグカップに酒を注ぐ。カップのおよそ半分ほど、二つともその量だ。


 そして最後に、大きなポットで抽出していた紅茶を注いだ。たっぷりの茶葉で淹れた紅茶は、二倍に薄めるとちょうどよい濃さになる計算だ。だから酒の入ったカップ一杯まで注ぎ、スプーンで軽くかき混ぜて酒と均質にすれば完成である。マイルドになった酒の香りの中に紅茶と果物の香りがしっかりと立つ、ホットティーカクテル。常温の酒を使ったから熱々とまではいかないが、これはこれで飲みやすい温度なのでちょうどよい。


 ――即興で作った割に、なかなかいい感じじゃないか。


 小さな炎のゆらめきを反射するマグカップを、マスターはほれぼれと眺めていた。


 と、その時。意識の外から、縋るような音色の声が耳に届き、はっと現実に返って顔をあげる。ただし、聞こえた単語が己の名前であると脳が認識するには、一瞬の間が余分に必要であった。名で呼ばれる事が、あまりにも久しぶりだったがゆえに。


 向かいの者はうつむき気味で、こちらを正視していなかった。しかしわずかに覗く青い目の、壊れてしまいそうな弱々しさは隠しきれていなかった。いつもなら理知的な鋭さを持っているのに。こういう悲しげな目は、ひどく困ったことに面したアメリアがよく見せる。


 先日、教え子に関することで軽い相談を受けた時にも、心身のどちらかが不調である兆候があった。そしてこの紅月季。紅い月は魔の月だ、生物の精神を乱し、不安と狂気の種を育てるに長ける。そしてティーザは生まれ持っての体質ゆえ、昔から月の奏でる狂想曲に影響されやすいのである。今季はとりわけ、思っていた以上にやられている様子だ。


 店主は普段にはなく神妙な顔でマグカップ二つを手にすると、客席の側へと移動する。わざわざ「マスター」ではない自分と話したがっているのに、カウンター越しでやりとりするのは違うだろう、と。

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