喫茶店という世界(1)
この朝やってきたオーベルの顔は、いつになく不機嫌なものだった。単なる眠気や、細君と喧嘩をした時とは違う種別である。
まあ、人生楽あり苦あり、朝から無意味に機嫌が悪い日があってしかるべき。マスターは特に気に留めることなく、いつもの紅茶、コルブの提供にとりかかった。
「はい、オーベルさん」
広げられた新聞越しに声をかけ、カップまで熱々の紅茶を出す。と、その磁器の音が合図だったというように、オーベルは軽くも激しい音を響かせて新聞を退けた。
さすがのマスターも少々面食らう。高圧的な勢いもそうだし、まみえたオーベルの顔がいやに逼迫して歪んでいたから。怒っているようにすら見える面持ちだ。
オーベルはずいと身を乗り出し、噛みつくように言葉を放った。しかしそれは根っから攻撃的なものというよりは、悩み迷った末の牽制といった風であった。
「なあおい知ってるかよマスター。出歩かねえおまえさんじゃ知らんと思うが、えらい事になってんぜ。どうせその様子じゃ、おまえさんはなーんも聞いちゃいねえんだろうがよ」
「わかっているなら、先に本題を言ってくれ」
煮え切らない態度に、こちらもついつい厳しい口調になってしまう。臭わせるだけでおあずけにされる苛立ち、それに加えて、完璧に仕上げたオーベルの紅茶が一口も飲まれず冷めていくことも非常にじじれったい。
催促されたオーベルはひとまず深呼吸。それから、判決を言い渡す裁判官のような気迫でマスターに宣告した。
「南通りによう、『喫茶店』ができて、これがとんでもない大繁盛なんだ」
意表をつかれた一言に、ほう、とマスターは目を見張った。
確かに一大事だ。ノスカリアには、メニューの一つとして茶を提供する店はありふれていたが、茶を看板にした「喫茶店」は葉揺亭しか存在しなかった。食堂や酒場があれば飲食にも休憩にも困らないし、経営側の儲けも十分だから、わざわざ茶をメインにあてがう必要がないのである。また、嗜好品として茶にこだわりを持つのは大抵お金持ちであり、外の店に行かずとも自分の屋敷で茶会を開く財力があるから、やはり店としての需要がない。
そんなノスカリアの環境下で、新たに喫茶店を開こうという心意気のある者がとうとう現れたか。ことの次第ではよき好敵手になるが、さあ、相手は一体どんな世界に仕上げて来ただろうか。マスターはまだ見ぬ刺客への興味に目を輝かせて、オーベルへ矢継ぎ早に問いかけた。
「一体どんな店なんだい? 向こうのは売りは?」
「ご愁傷さま、ここと大体おんなじだ。とにかく茶にこだわった店で、世界津々浦々の名茶が飲めるって、俺が聞いたときにゃそういう触れ込みだったぜ」
「いいことだ。喫茶店と名乗るならば、他より茶の種類に長けていて当然」
「広さもここの倍以上あって、客が一度にたくさん入れるんだ。それがいつ通りかかっても満員ってもんだからよぉ。ここ最近で一番景気のいい話かもしれねえ」
「やるね。すべてに目が行き届く状態が作れるのならば、大きな店で大勢集めるのは悪いものじゃない」
「あとなあ、ここと違って、向こうは飯も出てくるんだ。これが一番の違いでよ、しかも、超うまいんだ。毎日メニューも変わるし、おもしれえぜ」
「……ああ、そういう。なるほど、真に茶を専門として一筋にやっているわけではないんだな」
「おうよ。他にもよ、酒やつまみもちょこっとだが用意してあって、まあ俺たちみたいな酒飲みも助かる。あと、女たちが好きそうな菓子も色々と置いてあったわ」
「そんなに手広いんだ。ふーん」
「おまけに、店員が美人ぞろいときたもんだ! ありゃーずるいわ、そりゃー通うわ。まず大将の奥さんがなあ、綺麗な上にすっごい巨乳でよお、こう……男としちゃたまらんもんがあるわけだ」
「悪いが僕のアメリアが一番かわいいに決まっている。確かめるまでもなく自明なこと、そこだけは譲らないぞ」
マスターの最も過敏な部分に触れたところで、二人の問答はいったん止んだ。互いにぶすっとした顔を付き合わせての無言の間。それを埋めるように、オーベルはおもむろにカップを手に取った。ようやく口に入った紅茶は、すでに苦味が増して劣化した後だった。
ふううと長い息を吐きながら、オーベルはカップを再び置いた。一呼吸の後、また騒ぎ出す。
「とにかく、わかれよ! 色々とやべえくらいにすげえ店なんだって! おまえさんよう、客、根こそぎ取られるぞ!?」
「根こそぎって言えるほど居ないんだけど」
「がーっ! そういう細かい話はいいんだよ! とにかく!」
耳を真っ赤にしながら息巻くオーベルが何を言わんとしているのか、マスターはしっかりと理解していた。新規店と競合した結果、葉揺亭が潰れて無くなってしまう未来を危惧しているのだ。当の店主より慌てふためいているのは、生粋のノスカリア人として商業気質に染まり切っているからだろう。確かに商売の観点からならば、先方がよっぽど上手だ。
が、そもそも儲け云々というものは、葉揺亭においては最低クラスの重要度でしかない要素なのだ。だからマスターは、興奮しっぱなしのオーベルといまひとつ噛み合わない。
「それで?」
「……いやもっと危機感もってくれや! ノスカリアの社会をなめるなよ、必死で競争しないとやられるぜ!?」
「いや逆だ、オーベルさんの話を聞いてよくわかった。僕が競争する相手ではない。だから、別にどうでもいいよ」
マスターはそっけなく言うと、オーベルが払い捨てた新聞を取り上げ、着席しながら視線を落とした。完全に熟読の姿勢だ。カウンターのあちらとこちらで、ひどい温度差が生じる。
「どうでもいい、どうでもいいってよお……! まあ、百歩譲っておめえさんは良くても、アメリアちゃんは――」
ぎりぎりと歯噛みするオーベルの言葉に、マスターが思うのはただ一つ。アメリアを盾にするのは卑怯だ、と。彼女が同業の出現などと聞けば、果たしてどんな態度をとるか、たやすく想像がつく。
きっと、こう言うだろう――
「どうでもよくないです!」
しばし遅れて店に降りて来たアメリアは、次第を聞いてマスターを叱責した。しかめ面でぷるぷると肩を震わせ、遊惰な店主をにらみつける。その人が、ほらこれだ、と、言外に醸しているのには気づかない。
「何をのんびりしてるんですかマスター! 一大事ですよ! 早くどうにかしないと!」
「騒ぎすぎだよ。お茶でも飲んで、落ち着きなさい」
「落ち着いていられるわけないじゃないですか! もうっ! マスターの馬鹿っ!」
つんとそっぽを向いて、アメリアは自分の椅子を取りだし座った。そして小声で一言。
「……でも、お茶は飲みたいです」
「了解」
気恥ずかしげな催促に苦笑しながら、マスターは紅茶缶に手を伸ばした。はからずともアメリアに背を向けるかたちになったが、焦燥感にかられた足が床を打つリズムが耳に届くから、アメリアがどんな顔色をしているかは容易に悟ることができた。
マスターから見れば滑稽極まりないのだが、しかしアメリアのような反応が普通だとは理解する。自分が世間一般から浮いていることなど、百も承知だ。だからこの件で彼女を正面切ってからかうことはしない。
ただ、厄介には思う。今日は穏やかな空気に浸ることはできなさそうだ。マスターはひどく疲れそうな一日の始まりに、溜息を一つこぼした。
やはりというべきか、オーベルが去ってからも、アメリアは一人鼻息を荒くしていた。マスターにまとわりつき、しばらくの間なんだかんだと騒ぎ立てていた。はじめは無視していたが、さすがに堪えて「うるさいよ」と一刀両断にしたところ、今では静かにしている。
ただし単に黙っているだけで、熱波が去ったわけではなかった。引き出しから筆記具一式取り出して、マスターからは見えないように体をひねり、メニュー帳に使う厚紙に一心不乱に筆を走らせ続けている。始めてからもう時計が二周りはした、見上げた集中力だ。
周りが見えないほどに熱中する事自体は良い、おおいに歓迎しよう。ただ、変な方向にむかなければの話だが。マスターはアメリアの背中を見ながら、ぼんやりと憂慮したのだった。
そして。
「できたっ!」
アメリアは面を上げて、ほれぼれとした顔つきで厚紙を掲げる。それを横目でちらと盗み見るに、紙面はインクで黒ぐろと染まっていて、ただならぬ雰囲気を醸していた。
「あのっ、マスター」
「……なんだい」
気だるい吐息混ざりの相槌を打つ向こうで、アメリアはふんすふんすと高揚した息を吐いている。常々彼女との温度差はなるべく作らないよう心がけているが、しかし、今回ばかりはどうにも無理だった。この先の展開がおおよそ予測できるのも相まって。
「あの、マスター。私たちは今、すごく危機的な状況にあると思うんです」
「何回も聞いたよ。僕は全然そうは思わない、何回も言った」
「いいえ、それはマスターがおかしいです。とにかく、なんとかしないといけません。葉揺亭を、最高のお店に変えないと!」
「あのねえ……まあ、いいや。それで?」
「変えるって言っても、お店の場所とか、大きさとかはすぐには変えれないじゃないですか。でも、すぐに変えれるものがあります。メニューです!」
――その厚紙を持ち出した時点でわかっていたよ。
言いたくなるのをマスターはこらえ、アメリアがしてやったりの顔で突き出してくるメニュー案を受け取った。
一目でめまいがした。現行のメニューを三分の一の面積に圧縮して、空いたスペースに「料理」「お菓子」と大別された商品群が出現している。パンにスープに肉料理にサラダ、クッキーやケイクからジェリーにプディング、他にも他にも世間で皿に乗って出てくる食べ物が幅広く網羅されている。だから紙面は文字でびっちりだ。
文字情報だけでも暴力的な密度なのに、アメリアは自らの口で思いの丈を語り加え始めた。
「やっぱり私たちもご飯とかお菓子とか、もっと色々な食べ物を出した方がいいと思います。その方がお茶もおいしく飲めるし、色んな目的のお客さんが来てくれるようになりますもの。だから、ほらマスター、こういう風にしましょう! 私も頑張ります!」
やる気に満ちたきらきらの目が眩しい、痛い。マスターは頭を抱えた。
これ自体はアメリアが一生懸命自分の力のみで作り上げた、価値のある成果物だ。この努力自体は否定したくないし、極力彼女を傷つけたくもない。それでもやはり、ここははっきり言わなければ伝わらないだろう。マスターは毅然とした態度で厚紙を突き返し、真顔で言った。
「必要ない。僕は食事処をやりたいわけじゃないから」
アメリアの顔色が変わった。見開かれた目は落胆と憤りに満ちていて、わなわなと震える唇は、次に続ける言葉を混乱の中に探している。
しかし彼女に先んじて、マスターは腕を組んで現実的な問題を突きつけた。
「だいたいそんなに大量の料理、誰がどこでどうやって作るんだ。あれもこれもやれるような場所も手も無い、わかるだろう。それともアメリア、君がすべてできるとでも?」
「それは……」
「僕は中途半端に手を付けるのは嫌いなんだ。これまで通り、お客さんには食べ物は好きなものを外から持ち込んでもらったほうが、お互いに気持ちがよく過ごせる」
たとえ進言された案がいかに優れたものであろうと、主が首を縦に振らなければそこまで。マスターは常ならアメリアの願いには歩み寄ろうとするが、今回ばかりは一歩も譲ろうと思わなかった。ここでの譲歩は、葉揺亭の矜持を揺るがしかねない。
話は終わりだという風に肩をすくめてみせると、マスターは読みかけの本を開き、目線を体ごとアメリアから逸らした。しかしそうやって向けた横っ面に、アメリアはまだまだ足りぬと悲痛な叫びをぶつけてくる。
「マスター、ほんとにこのままでいいんですか!? 他にいいお店ができたんですから、みんなそっちに行っちゃいますよ!?」
「ほんとにそう思う?」
「私ならそうしますもの」
即答だったが、本当にそうだろうか。きっと違うだろう。マスターは詰め寄りかけて、やめた。論点はアメリアの心ではない。
黙っていると、強気だった口調から一転、不安の影さす弱々しい声がマスターの耳を震わせた。
「だからそうなって、もし葉揺亭にお客さんが来なくなったら……そしたら……このお店……」
アメリアの抱く感情はいたって普通なもの。常識的に、客が来なくなった店は廃業になる。そうすれば仕事を失うだけでなく、住み込みで働いている以上、家をなくすのと等しい。
アメリアはもともと頼る先のない孤児だった。貧困にあえぎ独りさまよう辛苦を十分すぎるほど味わって、その後マスターに拾われた。地獄から天国に昇ったようなもの。だから、ここを解雇されて再び冷たい世の中に追い出される事を恐怖する。そんな風にアメリアの心情を推察し、マスターはそれを重々慮った。再び体の向きを変え、うつむき気味の青い目をまっすぐ覗きこみながら、温かい声で言った。
「アメリア、心配するな。どんなことになっても、君の安寧は僕が約束する。路頭に迷わせたりなんてするものか。君はなんの不安も抱かなくていいんだよ、僕にすべてを任せて」
それが雇い主としての責任であり、個人としての愛情だ。自信を持って伝えられる本心だ。
実際、資金繰りに困り店を畳む可能性は皆無と言える。普段より、趣味でやっているような店だと言っているのは、嘘でも誇張でもない。どうなっても経営資金には困らない、確実に財貨になる種も色々持っている。あんまり探られたくないから、アメリア相手も含め、おおっぴらに出さないだけだ。
アメリアは、ただ、きゅうと意味のない音を漏らしたきり静かになった。膝に置いた手にきゅっと力を入れて、さては照れているのか。
違った。不意にがばっと顔を上げると、裏返りそうな声で叫ぶ。
「そうじゃないです! それだけじゃないです!」
マスターの顔が曇る。そうじゃないならなんなのだ、と口を開いたが、今度は逆に無視される番だった。アメリアは回れ右して、棚の引き出しに向かっている。そこに収められているのは売り上げの金だ。
店主に黙って資金に手を付ける、褒められた行動ではない。規範に厳しい経営者ならば、今の時点で即刻解雇を通告しているかもしれない。寛容な葉揺亭のマスターでも、これは流石に叱るべきところだと判断した。
「おいアメリア。何をする気だ、やめなさい」
「やめません。これは同業視察です、市場調査です。円滑な経営と更なる利益を生むための必要経費です!」
普段の語彙に無いような言葉をずいぶんすらすらと唱えたものだ。マスターはぽかんとしつつ、どこでそんな言葉を、と疑問を抱いた。が、口に出すより早く、自分の中で答えが見つかった。間違いない、よく客としてくる某商会の会長秘書だ。彼女は珈琲片手の事務仕事の傍ら、アメリアとの雑談にも興じている。マスターが経営面に無関心だと見抜いて、善意で店員にあれこれ教授していても不思議でない。
「いい作戦思いつくまで、帰って来ませんから!」
得意顔で言い切ったアメリアは、何十枚もの銀貨を握りしめ、外へと飛び出していった。
呆れ顔で見送ったマスターは、アメリアの書いた文字びっしりのメニューに目を落とし、誰に聞かせるわけでもなくぼやいた。
「どんなかたちでも人が来ればいい、ってものじゃないと思うんだけどね」
「料理」と「お菓子」に追いやられ、窮屈に並ぶ自慢の茶のメニューたち。これを見ていると切ない。葉揺亭は喫茶の専門店なのに、このざまだ。
それでもアメリアを責める気はない。むしろ、勉強の良い機会だと考えている。
狭く薄暗い葉揺亭の静かな空気に浸り、マスターは頬杖をついて、一人頭の中で議論をする。議題は、喫茶店という世界のありかたについて。自分の中ではとうに結論を出していたつもりなのだが、もう一度。
視察に出たアメリアは、果たしてどんな感想を持ち帰ってくるだろうか。葉揺亭の沽券はそれにかかる。




