魔性の月夜に見たものは(4)
「痛っ!」
どんと全身に響いた衝撃に、アメリアは声をあげた。
ゆっくりと目を開けると、月明かりに照らされた冷たい床が自分を歓迎してくれていた。隣にはベッドの脚が見える、どうやら落下したようだ。右半身が、特に体の下敷きになっている腕が痛い。
むすっとした顔で身を起こしベッドに腰かける。少しの身動きで妙に体が冷える。それで自分が汗だくだと気が付いた。
おもむろに髪をとかしながら、ふと窓の外を眺めた。紅月の光が不気味に満ちあふれている、薄ら明るい夜の町が広がっている。ついで部屋の中を見渡しても、眠りについた時と変わったことは一つもない。
アメリアは安堵の息を漏らした。さっきのは夢だったんだ。本当にひどい夢だった、無事に目が覚めてくれてよかった、と。
「変な夢」
繰り返すのは自分に言い聞かせるため。あまりにも記憶が明瞭すぎて、夢だ夢だと言わなければ、あれが現実のような気がしてしまう。永遠の暗闇、おぞましい水晶、自分の代替品、そして――末恐ろしい光景を思い出してアメリアは身震いした。
ベッドから落ちて傷めた右腕を癒すように撫でる。改めて見ると青あざができてしまっている。そう言えば夢の中でも同じ部分に怪我した、不思議な一致だ。
急に不安が襲って来た。
――あれは、それとも、夢じゃなかった?
ぞわっと冷たいものが背中を撫でた。恐ろしい妄想が再びアメリアの頭を支配した。マスターが頑なに扉を閉ざす理由。あの扉の向こうは、マスターは、本当は人間ではないのかもしれない。その正体は、紅い月夜に人知れずうごめく恐ろしい悪魔。
「……確かめないと」
一人震えていても仕方がない。真実を確かめるべく、夢と同じようにアメリアは部屋の外に出た。
階段も廊下も、それを進む自分の足取りにすらひどい既視感がある。だが、当たり前は当たり前。悪夢をたどる以前に、ここは自分の家なのだから。喉が渇いて夜中に水を飲みに行ったことは何度もある。いつもの夜闇がいつもより恐ろしく感じられるだけ、風景自体は変わらない。
静かに静かに、そしてアメリアはマスターの部屋の前にたどり着いた。音を立てないように深呼吸をしてから、ドアの様子に目を凝らす。
扉は……閉まっていた。
全身の力が抜けた。思わず安堵の声も漏れる。すべて現実にあるべき状態になっている。廊下の空気の淀みも、決して招き入れてくれない扉も、いつも通りだ。
ならばこの向こうにあるのは。向こうに居るのは。アメリアは小さく震える手でドアを静かにノックした。
返事は無い。真夜中だからしかたない、普通の人なら眠っている時間、訪ねる方が非常識だ。しかし、どうしても顔が見たかった。
ぼんやりと立っていると、部屋の中からかすかな物音が聞こえた。続けて足音が聞こえて、扉がゆっくりと開いた。
ちょうどつま先分できた隙間から覗いた主の顔は、驚きの色を隠せないでいた。
「……アメリア。こんな時間にどうした? 何かあったか?」
眉を下げながら、彼は扉を大きく開け放つ。燕尾のベストは着ておらず、襟のある白いシャツ一枚の姿だ。しかし紛れもなく、アメリアの良く知るマスターその人に違いない。見間違えるものか。
――全部夢だった!
その事実が胸に落ちた瞬間、アメリアの目に涙が溢れた。まるで母親に庇護を求めるように、戸惑っているマスターの胸に飛び込んで、ぎゅっと抱きついた。
「私、私!」
「怖い夢でも見たのかい?」
アメリアはマスターの胸板に頭をこすり付けるように、何度も首を縦に動かした。むせび泣きながら縋り付く腕に力を込める。すると、マスターの腕も優しくアメリアを抱き留めてくれた。
大丈夫だと安心を保証する声が響く。その声が、この温もりが、何よりも嬉しい。胸につかえていたものを全部吐き出すように、アメリアはわんわん泣いた。こんなに泣くのは久しぶりだ。
しばらくべそをかいたら、少し気分が落ち着いた。マスターもその頃合いを見計らって、肩を抱きながらアメリアを誘う。
「おはいり」
そしてそのまま、ほのかな灯りに包まれた亭主の部屋へと招き入れられたのだった。
初めて訪れたマスターの私室。天井から吊り下げられたランプが、熱い炎の灯りで室内を照らしている。光源石の照明よりずっと暗いが、温かみはこちらの方が上だ。
アメリアは真っ赤な目で、どこか呆けたように部屋を見渡していた。なんだか現実感がない部屋だ、と。
まず壁がほとんど見えない。書棚や、道具棚や、机や、とにかく使える空間は使いきれとばかりに家具が並んでいた。部屋の隅にあるベッドの上方にすら木棚が張り出している有様だ。おかげで随分圧迫感がある。
その上、尋常でないほど雑然としている。普段の店の清潔感からは想像ができない悲惨な状態だ。書斎机の上には書物や使い方のわからない謎の道具が取り散らかっているし、椅子には脱いだベストが乱雑に引っかけられている。棚に入りきらないせいだろう、分厚い本が床にうずたかく積まれて、崩壊寸前の塔を形成していた。しかもそれが何本もある。
意外だった。私室の整理が公の場より多少甘いのは理解できるが、いくらなんでもこれはひどすぎる。はっきり言って汚い。そんな正直な感想が、思わず声に出てしまった。
すると聞いたマスターがむくれた。
「だから君を入れたくないんだよ」
いわく、自室はこれくらいごちゃついていた方が落ち着くのだと。アメリアにはまるで理解できない心理だった。今だって、溢れている本を整理したいし、適当に物が突っ込まれている棚を整頓したい。
そんな心を匂わせてマスターをじっと睨んでみたが、ものの見事に無視される。
マスターはベッドに向かった。その上に散らかっていた書物や着替えなどを適当に床へ退けて、空いたスペースに腰掛けるようアメリアを促した。
そして自分は一旦部屋を出る。
どこに行ったのだろうかと思ったら、すぐに戻って来た。手には白いティーポットと、揃いのカップが二つ、それと三枚重ねたソーサー。その一番上にはハーブがもさっと乗っている。器用に指で引っかけて持ってきたそれらを、書斎机の上に置いた。
机上には小ぶりのオイルランプが赤々と燃えている。剥き出しの炎が、三脚の上に乗せられた小さなポットを温めていた。凝った意匠の施された、短い足つきの銅製ポットだ。細く長い首先から、静かに蒸気を吹き出している。
マスターは慣れた手つきでお茶を用意する。漂って来た香りは、アメリアの記憶にも残っているものだった。これはそう、レインが眠れないと嘆いていた時に出したもの。
ただひとつ違うのは、あの時はミルクで煮だしたのに対し、今はお湯で淹れているという点だ。こればかりは仕方ないだろう、煮出すのには時間がかかるから。
手早く用意されたカモマイルのハーブティは、二つのカップに分けて注がれ、一つがソーサーとセットでアメリアの手に渡る。そしてもう一つのカップを持ったマスターは、古びた安楽椅子に腰をかけアメリアに対面した。
アメリアはソーサーを両手でしかと掴む。上に乗ったカップがかたかたと揺れ、淡い色のハーブティに小波を立たせる。
「すごく怖かったんです。私が、私じゃなくて、たくさんいて……! わけがわからなくて、なんてお話したらいいのかも、わからないんですけど」
「大丈夫。上手じゃなくていいから、思うように話してごらん。一体なにがそんなに恐ろしかったんだい?」
ゆらめく灯りに照らされる主の顔は、声は、優しく頼もしかった。それが恐ろしい妄想の中の暗い影を白く塗り替えていく。このまま不安の種を吐き出せば、この人はそれも白く枯らしてくれるだろう。
「私と同じ顔をした人がたくさんいて、みんな水晶の中で眠っていて。本当はその中の誰かが本物の私で、今の私は偽物じゃないのかって、そんな気がして怖くなって。私はやっぱりいらない子で、水晶の中の人と交換させられてしまうんじゃないかって。そう思って……私は……苦しくて、悲しくて」
「君の代わりはどこにもいない。僕が愛するアメリアという人間は君ただ一人だけだ。どんなにそっくりの紛い物が出て来たって、僕はそれを認めない。本物の君を取り返しに行くさ。どこまでも、どんな手を使ってでも」
優しく静かに断ずる声が暗い妄執を一つ打ち砕いた。だが、まだ次が残っている。
「そのあと、真っ黒の悪魔が出てきたんです」
「悪魔?」
「その顔を見たら、マスターの顔をしてて。声もマスターので。それが襲いかかって来たから、私は、マスターが悪魔なんだと思って……!」
思い出すとまたぞっとする。アメリアは熱に縋るようにカップを手に取り、カモマイルの茶を口に含んだ。ふわりと鼻に抜ける花の香りが、いくぶん気持ちを落ち着ける。
そんなアメリアに対し、マスターが眉を下げて言った。
「ごめんねアメリア。昼間に少し脅かし過ぎてしまったね。そんなに恐怖を引きずるとは思わなくて」
「……マスターは、悪魔じゃないですよね」
「うん。僕はこの通り人間だ。それを証明するのは難しいけれど、僕を信じてくれと言ったら、信じてくれるかい?」
アメリアはこの上なく大きく首を縦に振った。疑うはずがない、マスターがどういう人なのか、親のことよりよく知っている。
マスターは慈愛の笑みを浮かべた。そして静かに命じた。
「君が見たものは全部悪い夢だ。そんなもの、すべて忘れてしまいなさい」
アメリアは涙で汚れた顔を拭いながら、笑顔でうなずいた。少し冷めたカップのお茶を飲む。悪いものから守るヴェールのような優しい香りが体に染み渡った。
しばらくの静寂が訪れた後、マスターがすっと立ち上がった。空気の流れでランプの灯火がゆらめく。
彼は寝台の脇の小卓にあった分厚い書物を取りにきた。そして、歩み寄りざまにアメリアに笑いかける。
「今夜はここで眠りなさい。その方が安心だろう? ここなら紅月の光も届かない」
「月の光が関係あるんですか?」
マスターは頷いた。
刹那、アメリアの中ですべてのわだかまりが解けた。あんな変な夢を見た最大の原因は。
「私、眠る前ずっと月を見ていました。そのせいで悪夢を?」
「そうだね。紅い月は魔の月だ。この世のものと相容れることなき、異質な光源。人でありたいと願うなら決して魅入られることなかれ、さもなくば、夜闇より暗き深淵に引きずり込まれてしまうから」
詩のようにそこまでを語ると、マスターはやれやれとばかりに続けた。
「あの月は生き物の心を惑わすのに長けるのさ。だから紅い月の季節は色々と騒がしくなる」
「そういうものなのですか」
「そういうものだ。そうだと正体がわかっていれば、気持ちもぐっと楽になるだろう? だからもう恐れずに、気楽に眠りなさい」
確かに自然のものだからしょうがないと思えば、悪夢を見ることも諦めはつく。だからといって、すぐに心が晴れるわけではないが。いや、そもそも、すっかり目が冴えてしまっているのだから、このまま寝ろと言われても困る。全然眠くない。
それを正直に伝えると、マスターは困ったように微笑した。
「さもありなん。だが、無理にでも眠った方がいいな。疲れた脳を休めた方が身のためだ」
と言いながら、マスターはアメリアのカップを取り上げた。
茶を注いだあと残してあったティーポットに少し湯を差し、それをアメリアのカップに注ぎ足す。
そこで終わらず、マスターは続けて天井まで届く木の棚の前に行くと、その中にはめ込まれるかたちになっている四角い戸棚の扉を開いた。中には硝子の管が立てて並べてあり、マスターは右端にあった一本を抜き取った。
綿とコルクで栓をされた管の中には、半透明の結晶が輝いている。ちょうど小指の爪ぐらいの大きさだ。その結晶体を一粒取り出し、お茶の入ったカップの中に落とした。
そしてようやく、カップは再びアメリアのもとに戻ってきた。
アメリアは怪訝な顔でカップを見つめた。温かな湯の中に沈むきらめく粒は、みるみるうちに崩壊していく。色や匂いに特別変わったところは無いが、それはそれで逆に気味が悪いような。
「なんですかこれ」
アメリアはすぐ隣に腰を下ろしたマスターに問いかけた。
「夢見をよくするおまじない。大丈夫、危なくはないから」
「……本当ですか」
「本当だ。副作用はないし、無味無臭」
と言っているが、こちらは昼間の失態を見たあと、どうしても疑ってしまう。
だが実際はマスターの言う通りなのである。結晶体はいわば催眠薬、もちろん亭主自ら調整したもの。一粒服用すればすぐに眠気を誘う。ただ、夢見を良くするどころか、夢を見る暇も無いほど深い眠りに落ちるのだが。すっきりとした目覚めになるのはどちらでも同じだから、取り立てて騒ぐ問題ではない。
怪しんでいるアメリアに、もう一度、大丈夫だ怖くないと声がかかる。そこまで言うなら、と、アメリアは恐る恐るカップに口をつけた。
なるほど、味は全然変わらない、薄くなったカモマイルのハーブティそのままだ。喉ごしが少しほこりっぽい気がするが、飲みにくさを覚えるほどではない。ちょうど飲みやすい温度だったのもあり、結局素直に一杯飲み干してしまった。
体が芯から温まり、ふわりと宙に浮くような心地がした。そして瞼が、頭が、一気に重くなる。
思わずアメリアはマスターに寄り掛かった。そしてそのまま崩れるように体を倒し、膝を枕にする。拒まれることはなく、むしろ愛おしげな手が少女の頭を優しくなでた。
「おやすみ、僕のアメリア」
たゆたう意識の中に、マスターの優しい声が響いた。
――おやすみなさい。
アメリアは穏やかな気持ちのまま、再びの眠りについた。その顔に悪夢の影はもはや微塵もない。朝、目が覚めたら、いつもの明るい笑顔が戻っていて、魔性の月夜に見たもののことなど忘れてしまっていることだろう。
いや、そうでなくてはならない。夢は綺麗に忘れてこそ、夢であるのだから。
葉揺亭 スペシャルメニュー
「悪魔の薬湯(失敗作)」
悪魔の血石と呼ばれる材料を主体にした鮮血色の薬湯。
老化防止、疲労回復、滋養強壮、体力増強などなど、不老不死の魔人を彷彿とさせるタフな体を得られる。はずであった。
が、原料の辛味やえぐみでひどい味な上、狙った魔法効果も表れていない。ついでに消化管への刺激が強く、吐き気や痛みを催す。即ち、完全なる失敗作。
なお、「もう二度と作らないで」というアメリアの叱責により、葉揺亭では禁断のレシピとなった。
「とにかく眠りたい夜のハーブティ」
カモマイルを主軸にした安眠効果のあるハーブティがベースである。
やや温めに冷ました茶に、催眠効果のある魔法結晶を溶かし込んで仕上げる。味や香りはほとんど変わらない。ただし、熱湯に溶かすと酷いカビ臭さが出るので扱いに注意が必要。
この魔法結晶は『紫つる草』『眠り花』の精神作用・鎮静効果を持つ草花をはじめ十数種類の草花・鉱石から調合した物。水溶することで魔法として完成し、服用すると間もなく深い眠りに落ちる。
副作用は無いものの、一度の過剰頓服は厳禁だ。




