魔性の月夜に見たものは(3)
広場にたどり着くと、時計塔のたもとに大きな人だかりができているのが見えた。間違いなくあれがクロチェア公の公聴の会場だ。人が声を張り上げて話すのも聞こえてくる。
クロチェア公とは、ノスカリア地方元首、ざっくばらんに言えばノスカリアの周辺で一番偉い政府の人である。元首としては若い方だが、勤勉で誠実な人柄と確かな政治手腕により信望は厚い。そんな彼は年に四度ほど、自分の耳で直接民衆の意見を聞こうとの意図で、時計塔広場で公聴会を開くのだ。
時計塔のたもとに簡易的な論壇を設え、その上でクロチェア公が椅子に腰かけている。背の小さなアメリアでは、集った人々の頭に隠されてはっきり姿が見えない。その場でぴょんぴょん飛び跳ねて、ようやくちらちらとクロチェア公の上半身が見えた。短く切りそろえた銀色の髪、かっちりと型の整った政府人の礼装、きりっとしていて威厳がある。なおかつ綺麗な感じの人だと思った。どことなくマスターに似た雰囲気だが、クロチェア公の方がより爽やかで若々しい印象だ、とアメリアは感じた。
論壇の周りでは剣を腰に帯びた治安隊が警護についていて、要人に危害を加える愚か者が近寄ってこないか見張っている。また檀上には、真っ白のフード付きローブに仮面をつけた、「ヴィジラ」と呼ばれる特殊な武官が、集まった群衆の動向に目を光らせている。
ヴィジラとは異能を取り締まる異能の役人だ。全身を覆い隠すローブと鉄仮面という異様な装いは、彼らの制服として正しく定められているもの。個人を特定されない姿が重要で、その理由は、巷のアビリスタからの贈賄や脅迫を防ぐためとか、嫌異能派からの個人攻撃を避けるためとか、色々とある。だが実効としては、無機質で異形じみた風貌によって民衆を委縮させ、犯罪抑止に繋げられる面が一番大きい。
この公聴会では、集まった人々が壇の下から好き勝手に色々言い、それにクロチェア公が檀上より答えるのが基本的なやり方となる。ただ、述べられる意見の中で特別気になったものは、クロチェア公が指名して論壇にあげ、詳しく聞き取りまたは議論を交わす。時には数人が壇上にあがり激しい討論を繰り広げたり、あるいはクロチェア公もそっちのけの大演説になってしまったりする場合すらある。たとえそんな風になっても、クロチェア公はすべて貴重な意見だとして無碍に扱うことはしない。
誰でも自由参加の会とはいえ、いざ現場に来てみるとなかなか集団の中に入って行きづらかった。群衆の大半が大人で、アメリアのような子供はほとんど居ない。堅気じゃないと露骨に醸している人や、異能者ギルドの紋章を身に付けたアビリスタも紛れている。なにより、すでに熱が最大限に高まり盛んに野次も飛ぶような空気感が、後入りするのを強くためらわせる。
――どうしても聞かなきゃいけない事じゃないし、まあいっか。
おまけに、こんな熱さの中で自信満々に出せる程の高尚な意見でもないのだ。潔く諦めて帰ろうと思う。アメリアは群衆の輪から離れ、帰り道へと足を向けた。
すると、人だかりから少し離れたところに、またもや知り合いの顔を見つけた。街灯に背を預けて佇む、茶色の中折れ帽を被った少年。葉揺亭で顔なじみのアーフェン=グラスランドだ。やや遠巻きながらも、見て聞くに徹するとの形式で公聴会に参加しているようである。手にした木のコップの飲み物を口にしながら、じっと論壇を見つめている。やけに真剣だ。
「アーフェンさん」
「おや、アメリアさん。これはどうも」
声をかけながら近づくと、アーフェンはポーズそのままに、すました笑顔をあいさつに代えた。コップを持った手を下げ気味にしたため、アメリアの目にも中身が見えた。濃い色のお茶、ただし熱くはなさそう。苦そうだ、となんとなく思った。
目線を下にやったのは、ほんとうにちらりと一瞬のこと。しかしアーフェンはしっかり気が付いたし、その意も汲みとった。ふっと気障な笑みを浮かべる。
「やっぱり喫茶店の人だと、他人が何を飲んでいるのか気になるものですか?」
「あっ、いえ、その……はい」
「普通の紅茶ですよ。さっきワゴンを引いて売りに来ていたので買ってみました。正直、失敗でしたよ。異様に渋くてたまりません。きっと大量に煮だしてつくったものを、濾さずに鍋でそのまま冷ましてから汲みわけたのでしょう。まったく、アメリアさんのところとは大違いです。冷めた紅茶を売るなんてひどいものです、愛が感じられません」
「でも熱かったらすぐに飲めないし、コップも持っていられないじゃないですか。普通ですよ」
「……まあ、そうですけど」
お茶に限らず、常温の飲み物を外で売るのは、ノスカリアではありふれた光景だ。特に広場で催事がある時は、多くの店屋が屋台を出したりワゴンを引いたり出張販売にやって来る。調理場や冷蔵庫から離れる都合、作りたての温度を保つのは難しい。また買い手の方も、今すぐ何かを口にしたいとか、手持ちぶさたになっているのが嫌だとか、ゆっくり味わって飲む目的でないことがほとんど。ゆえに味は二の次で、持ち歩きやすく飲みやすいものが好まれる。
饒舌に喋っていたアーフェンが急に黙った。苦虫を噛み潰したような顔で、なおかつどこかきまりが悪そうに目を泳がせている。
アーフェンはノスカリアに来てそう日がないのだから、この町の流儀を知らなくてもしかたがない。「ああ、そういうものだったのですね」と思い込みを解いたうえで軽く流せば終わる話だ。だが、アーフェンはやたら格好をつけたがる少年で、ゆえに自分の見識が間違っていたと素直に認めることをしたがらない。相手に食って掛かり話をこじらせがちだ。
――お茶の話はもうやめよう。
アメリアは面倒を察して話題を変えた。
「アーフェンさんも公聴会に来た……んですよね?」
「ええ、そうですよ」
「どうしてこんなところで聞いているんですか? もっと近くに行けばいいのに」
「……私は、基本的に政府の人が嫌いですから。ほら、これでも一応異能者ギルドの一員なのですよ? あまり公権力とお近づきになるわけにもいきません、当然でしょう」
アビリスタは人でない、何をされても文句を言うな。そんな話をさっき聞いたばかりだから、アーフェンの話すことはアメリアの腑にすとんと落ちた。極力政府と絡むことは避けたいと言いながらも、公聴会でのクロチェア公の発言や、世間の人の求めは情報収集として聞いておきたい。そんなジレンマが、声の聞こえる距離で遠巻きに会場を眺めるとの姿に現れたのだ。
なんだか色々と考えているんだなと、アメリアは同じ年頃の少年に感心した。
「ところでアメリアさんは? 何かクロチェア公に言いたいことがあって来たんですか?」
「えっとですね、悪魔を退治してほしいなって思って」
「あ、悪魔……?」
アーフェンはぽかんと大口を開けていた。そんな彼に、さっきレインに聞かせたのと同じように、昼前の経緯を教えた。
話し終わった時点でのアーフェンの反応は。怖がるでも呆れるでもなく、ふむ、と真面目に考え込んでいるようだった。
「確かに紅い月の季節には魔性のものがよく騒ぐと、様々なかたちで言い伝えられています。また歴史を揺るがすような事件がしばしば起こるとも。マスターの言う通り、魔の者の手で世界が破壊されたとの記述も、神ルクノールにまつわる神話や伝承の中に多々見られるものです」
「詳しいですね」
「たくさんの本を読んできましたから。同世代で私より知識がある人は居ないと思いますよ」
「それで、アーフェンさんは信じますか、悪魔の存在」
「信じます。いいえ、居るものだと思う事とします。『常に最悪の事態を念頭に置き動くべし、さすれば最悪の事態を回避できる』。私が感銘を受けた言葉です」
きりっと決めた顔でアーフェンは言った。アメリアは「怖くないのですか」と喉まで出かかっていた疑問を、口からは出さないようにして飲みこんだ。野暮な質問である。怖いから、恐ろしいから、だから最悪の事態だと仮定しているのだ、この少年は。
「それはさておき、アメリアさん。それ、ぜひクロチェア公に聞いてみてください。どんな反応をするか、私も気になります。アビリスタの仕業だと決めつけこの場で糾弾するか、それとも古代の悪魔だと仮定して至急討伐をすると約束するか、あるいは子供の戯言だと笑いものにするか……この案件をどう扱うかで、クロチェア公の器が一気にはかれます」
「……はあ」
そんなに複雑な話にするつもりはなかったのだけれど。むしろ、そう重い期待をかけられると逆に聞きに行きづらい。
アーフェンはアメリアの気も知らず、神の一手を思いついたかのようなしたり顔をしている。かと言って背中を押すとか、いっそ自分が聞いてやるとか、そういう雰囲気もない。その様がアメリアの意気消沈っぷりに拍車をかける。
と、その時。公聴会の人だかりの中から、
「さっきから聞いていれば! あなた、一体誰に口を聞いているつもりですの!? 無礼にもほどがありますわ!」
と叫ぶ、若い女のキンキン声が轟いてきた。
途端、アメリアの肩が跳ねた。声の主が何者か、知っている。クロチェア公の娘、ソムニだ。父の勇姿を見に来ていても不思議でない、勘違いではないだろう。
ソムニはたびたび葉揺亭に出没する客で、店側からしても随一に印象深い客である。ただし良い意味ではない。ソムニが葉揺亭に足を運ぶのは、マスターへ暑苦しい片恋慕をしているから。それだけならまだしも、何よりいけないのは、性格にも難があること。高飛車、選民気質、傍若無人、我儘などなど彼女を表現する悪口は枚挙に暇がない。アメリアへの嫉妬も露骨で、顔を見れば嫌味ったらしい物言いが飛び出す。もはや迷惑な客を通り越して、天敵だ。
ざわつく群衆を分け入ってクロチェア公に質問をしに行くなら、ソムニの視界に自ら飛び込んで行くのと同じ。それだけでも腰が引けるのに、タイミングも最悪だ。火に油を注いでソムニが大爆発する未来しか見えない。アメリアの心は完全に萎えた。
「……やっぱり、やめます。もう帰りますね」
「えっ」
「悪魔より嫌な人がいるみたいですから。どうしても聞きたかったら、アーフェンさんが代わりに質問しておいてください。私はもういいです。じゃあ!」
アメリアは引きつった笑みと共にアーフェンに手を振ると、ソムニに見つからない内にと急ぎ広場を立ち去った。後には、釈然としない顔で唖然としている少年が残されたのだった。
町を夜の帳が覆った。世界は静けさに包まれ、かつ薄らと紅く染まっている。空に煌々と輝く紅い月によって。
紅い月の夜には魔性のものがよく騒ぐ。それを信じて、ネグリジェ姿のアメリアは葉揺亭の二階にある自室の窓からじっと空の様子を眺めていた。月夜に舞う悪魔の正体を見破ってやる、と。本当に人間じゃない怖いものなのか、それとも誰かの悪戯で危険はないものなのか。
まだ夜は浅い。東を向いている窓だから、空に浮かぶ月の姿もよく見える。今日の真紅の月は一際明るく美しい気がした。本当に何かが出てきそうで、見ているだけで胸がどきどきする。
アメリアは何かに取り憑かれたように、長いこと月を見ていた。
しかし結局、視界の内に特別な異変は起こらなかった。薄らと赤い夜景の中で動いた物と言えば、何度か窓の近くを飛んでいった蝙蝠くらい。ふあ、とあくびも漏れる。
「……もう寝よ」
疲れた目をこすりながらベッドへもぐりこむ。既に重い瞼を静かに閉じれば、すぐに強烈な睡魔に襲われる。月明かりが照らす部屋の中、アメリアはあっさりと意識を手放した。
やがて。誰かに呼び起こされたように、ふっとアメリアの脳が覚醒した。ゆっくりまぶたを開くが、部屋は眠った時と同じで暗く静かだ。まだ真夜中である。
布団をかぶり、再び眠りにつこうとする。しばらく努力したものの、すっかり目が冴えてしまっていて、うまくいかない。
しかたない、とアメリアは上体を起こした。編み癖でウェーブのかかったブロンドは、寝ている間に更に乱れている。それを手で軽くときほぐしながら、ぼんやりと窓の外を見た。
やはり変わった事は一つもなかった。紅色の月明かりに包まれた世界が広がっているのみだ。
ふと喉の渇きを覚えた。あいにく自室に水差しを持ち込んでいない。アメリアはベッドから抜け出して、部屋の外へ向かった。下に行って水を飲もう、と。
部屋から出てすぐに階段がある。階段には小さな光源石の足下灯が取り付けられてあり、足場が見えるようになっている。真夜中に移動する必要が出た時に、アメリアが階段を踏み外して転げ落ちないように、とのマスターの配慮だ。
極力足音をたてないように階段を降りきって、廊下を進み店の方へ。一階は真っ暗だが、いつも過ごす空間だから記憶だけでどうとでもなる。まっすぐ進んだ左側にマスターの私室があり、その次に右側に現れるのが店に続く扉だ。
ちょうどマスターの部屋の前を通りかかった時。暗闇の中に違和感を覚え、アメリアは足を止めた。
空気の流れを肌に感じる。廊下の先ではなく、主の部屋の方から。かの扉は四六時中閉ざされているはずなのに。
夜に目を凝らす。すると、いつもは閉まっている扉が開いているではないか。ちょうどつま先一つ分のわずかな隙間であるが、確かに開いている。
アメリアは吸い寄せられるように扉に手を伸ばした。以前、マスターが体調を悪くした時に、大切な引き出しに鍵をかけ忘れて大騒ぎをしたことがあった。あの時と同じで、また具合を悪くし、ドアも開けっ放しで倒れているのではないか。心配だ。
「マスター?」
呼びかけながら扉を開放する。
その向こうにあったのは、ただの暗闇。……いいや、ただの闇ではない。今歩いて来た夜闇よりももっと黒くて深い闇だ。黒の中に黒が浮いているようにすら見える。
アメリアは目を丸くして呆然と立っていた。その頬を中から流れ出てくるそよ風が撫でる。
――これは、どういうこと?
ここには部屋があるべきだ。それなのに、これはまるで、延々と続く通路のよう。
「……マスター?」
さっきよりも大きな声で呼びかけた。それでも返事はない。
アメリアはそっと暗闇に足を踏み出した。
不思議な気分だ。好奇心や勇気が勝っているわけでもなく、しかし怖いという感情もなく、強いて言うなら誰かに呼ばれているような、磁石に引き寄せられるような感覚だった。
そして前進する。どれだけ歩いても漆黒の空間が続くばかり。先どころか自分の足元も見えない暗闇だ。
無心で、前へ、先へ、深みへ。
すると突然、足がなにかに引っかかって、躓き、転んだ。前に出していた右腕を床に強打し、ぎゃんと悲鳴を上げる。
アメリアはへたりこんだまま、痛みに襲われる腕をしばらくさすっていた。ちゃんと動くし、折れたり挫いたりはしていない。ただ青あざができたくらいだ。ただそれがひどく痛々しい見た目で、普段着ている袖の短いワンピースでは隠れない場所だし、人から見た時にも派手な怪我だと思われそうな有様だ。自分の腕の様子をまじまじと見て、吐息を漏らした。
「えっ」
己の状況を鑑みてアメリアは独り肩を震わせた。どうして怪我の様子が見えるんだ? こんなに暗くて、さっきまで足の先も見えなかった、だから転んだのに。
意識した途端に、誰かが照明を灯したように周りが明るくなった。
アメリアは四方に首を振った。
数多の巨大水晶に囲まれている。自分の体よりずっと大きな水晶が宙に浮くように、周囲にそして延々と遠くまできらめき、幻想的な世界をつくりあげている。その輝石には木の根っこのようなものが這っている。太く強固な印象だが、灰色で生気が感じられない。躓いた原因も、この根っこだったようだ。あたり一面の地面にも太い根が蔓延っている様子が、今となってはよく見える。
そして水晶の中には影がある。中に何か入っているのだろうか、そういう宝石があると聞いたことがある。
期待して注視したアメリアは、しかしすぐに息を飲んだ。
人間だ。水晶の中に閉じ込められているのは、人の形をしたものであった。
また周りを見回す。よくよく見れば、浮かぶ水晶のすべてがそう、中に誰かが居る。誰一人として動きはしない、だが気持ち悪いほどにくっきりと影が浮かんでいる。
なんだ、なんだこれは。心臓を激しく波打たせながら、アメリアは一番近くにある結晶へと近寄った。ちょうど自分の目線と同じ高さにある。
近づくとよくわかる。中に居るのは女の人、いや女の子と言ったほうがいいだろう。柔らかい身体の線をありありと見せた一糸まとわぬ姿で、色の無い長い髪を拡げたまま、身を縮めるように固まっている。
下から覗きこめば顔が見える。思うなりアメリアは片膝をつき実行した。
瞬間、全身を冷たいものが駆け抜けた。心臓もが凍り付いた気がした。
見えたのは自分の顔だった。
他ならぬアメリア=ジャスミナンの顔が、水晶の中のその人にもついている。眠っているように目を閉じているが間違いない、鏡映しの自分の顔を見間違えようものか。思えば、年頃合いも同じだ。髪の毛の長さも、三つ編みを解いた今の髪形も同じ。さっき色が無いように見えたのは光の加減のせいだったか、水晶の中の彼女もブロンドの髪だ。
頭からは血の気が失せ、口の中はからからに干からびる。それで状況を一生懸命飲みこもうとしても、できぬ話。
ふと、恐ろしい空想に囚われた。――私は私でなくて、本当は眠っているのが私、本物のアメリアだ。
認識した途端、自分の存在があやふやになって、そのまま分解され闇に溶けていく。思い出もなにもかも一緒に。そうして自分が居なくなる代わりに、水晶の中から新しい本物の自分が生まれる。そのアメリアは何食わぬ顔で葉揺亭に立ち、マスターに目一杯かわいがられ楽しく暮らしていく。今まで私が築いてきたものすべてを乗っ取って。
――嫌、違う、私はいらない子なんかじゃない!
アメリアは泣きそうになっていた。しかも、自分の代替品は一人どころではなく、数えきれない程たくさん居る。視界に見える限りの水晶にも全部人が入っている。同じ大きさで、同じ姿かたちで、同じポーズの女の子が。
きっと後ろを向いても同じだと、アメリアは蒼白な顔で後ろを振り返った。
するとそこには、水晶の光を背にぽっかりと浮かぶ黒い闇があった。さっきまで何もなかったのに。
アメリアは驚いて悲鳴をあげ、後ろに体を崩し、勢いよく尻餅をついた。
黒は人の形をしていた。闇に浮かぶ、闇より深き漆黒の人影。アメリアの頭をよぎったのは、レインの人形だ。人形劇で何度も見た悪い魔法使い、レインが壊した黒の魔法使いの人形。フードをかぶり裾の長いローブを着たシルエットは、あれと瓜二つだ。
だが、今目の前にいるものは、心を持った人形なんかよりもっと恐ろしいなにか。己にとって有害な存在。何故かその確信があり、自然と体が震え出す。
目深にフードをかぶっているその人は、腰を抜かしているアメリアに近寄ってくる。堂々として悠々とした歩みだ。歩く姿はよく知っている誰かを彷彿とさせる。
――いやッ、嘘、全然違う!
アメリアは己の頭をよぎった影を否定した。目の前の黒い人はただただ恐怖の塊でしかない、優しさに溢れるあの人とは違う。一緒なんかじゃない、絶対に。
冷たい足音が鳴り響く。それから逃げるようにアメリアは後ずさりした。が、すぐに背中が冷たいものにぶつかる。見るまでもない、水晶だ。もはや振り返ってみる勇気がない。水晶の中の自分が青い瞳を覗かせて、こちらを睨んでいる気がするから。
もう逃げられない。ローブの人が、男が、目の前に立った。すうっと腕を広げる。すると風が無いのにローブがぶわっと広がった。勢いよくはためくそれは、あるいは悪魔が翼を広げたようにも見える。フードも変形して角が生えたかのよう。
アメリアは涙に満たされた目でそれを見上げていた。
自分を見下ろすフードの端から、輪郭の一部が覗いている。なぜだ、それは実によく見知った形をしている。――認めたくない。アメリアは目を閉ざした。
すると今度は息遣いが聞こえる。それはすぐに呪詛を発する声になった。身の毛がよだつ重く苦しい声、しかし知っている声だ。――嫌だ、聞きたくない。アメリアは両手で耳を塞いだ。
しかし彼の声は遮られることなく神経に刺さる。目を閉じているはずなのに、悪意に歪んでにやにやと笑うあの人の顔が映像として浮かぶ。
「嫌、やめて……マスター!」
悲痛な叫びを闇に虚しく響かせた。
その瞬間、雷に打たれたかのような衝撃が全身を走り、視界は紅い光に包まれた。




