その心は親心(1)
いま葉揺亭にあるのは、いつもと変わらない平穏な風景である。カウンターの中で退屈そうに座っているアメリアが、あれこれととりとめのない話を店主にふる。マスターはその雑談に興じながら、書物を読んだり、創作茶を考えたり。そして客の姿はない。
正午はとうに過ぎ、しかし日没までにはもう少し時間がある。そんな頃合いだ。働き疲れたからちょっと休憩を、人がそんな風に思う時間帯でもある。
きぃと軋んだ音を立て、葉揺亭の玄関が開いた。
「あっ、いらっしゃいませ!」
迎えるアメリアの声はいつもの接客よりも一層明るく弾んでいた。理由の一つは、暇を打ち破ってくれた神様のごとくありがたい存在であったから。もう一つは、見えた顔が親しい相手のものであったから。
来客は計四人。その先頭に立ち扉を開いたのは、青く長い髪の青年だった。ティーザ=ディヴィジョン、店主の私的な知人でもある。連れ立っているのは仕事場――スラム街にある小さな学校の同僚たちだ。彼らは時々、気分転換という名の茶話会にやってくる。ただ、すべての講師が常勤しているわけでない都合上、顔ぶれはその時その時で色々だ。ティーザが来るのは半分より少なく、どっちかと言えば珍しい方である。
「空いているか? 少し席を借りたいのだが」
「はい、もちろんです。どうぞこちらへ」
アメリアが指し示した、入って左手のテーブル席へ客人はぞろぞろと向かう。最後に入ってきた初老の男性だけは、入ってすぐのところで一旦立ち止まり、マスターの方へ声をかける。
「マスターさん、いつものように珈琲を四つ。みなさんそれでよいですね?」
異議はない。この男性は「校長」と呼ばれる人、その立場ゆえか、皆いつも揃って追従するかたちをとる。
かしこまりました。マスターもそう恭しく注文を承り、早速珈琲豆を挽く準備をする。ミルを降ろすため棚に向いた際に忍び笑いをこぼしたが、それにはアメリアを含め誰も気づかなかった。
四つの珈琲を淹れてテーブルに供した時、それが教師団の茶話会の始まりだ。珈琲の香りと共に広げるのは、仕事の話であったり、日常の些細な事件についてであったり、近頃の町で流れている噂話だったり、色々である。ただ和気藹々とした良い空気なのは、今日に限らず常のこと。
教師団は時計がきっかり一周したくらいで席を立ち、みな揃って職場へと戻って行った。
見送りはアメリアに一任して、マスターは珈琲豆のミルを片づけていた。豆のかすを払い、細かい粉を拭き取り、今日はお前も良く働いたなと心の中で賞賛する。おかわりで何杯出しただろうか。焙煎した豆のストックも底をつく寸前だから、今日明日中に仕込まなければ。そんな風に客商売の男らしい思考と表情を取り繕っていた。
しかし、それはアメリアが玄関を閉めて、窓の向こうにも人の姿がなくなるまでのこと。もう我慢の限界だと言わんばかりに、突然マスターは腹を抱えて笑い声を上げた。
あまりの変わり様にアメリアの不審な目が向く。
「どうしたんですか、急に。一人で楽しそうですね」
「そりゃあねえ。だって、あーあ、あんなにかっこつけちゃって。まったく、かわいいなぁ」
「かわいい、ですか」
「うん。育てた子をかわいく思わない親は居ないよ」
「はあ……そうですか」
アメリアは曖昧な笑みでごまかした。かわいいと言っている対象が誰であるか、それはわかっている。しかし、ティーザに対してかわいいと言うそれ自体がどうもしっくりこない。端整な容貌だし性格もさっぱりとしている男の人、動作や発言も自然なもので変に気取っている風でもない。だから「かっこつけ」ではなく、素直にかっこいいと言えばいいのに。
そもそも実の親子というわけでもないのだし、変な感じだ。昔、一緒に暮らしていたことがあったそうだから、マスターはその時の心持ちを引っ張っているのかもしれない。が、それにしたって歳が近すぎる。同い歳だと言い張ればそう見える外見だし、多少マスターが年上であるとしても、今のアメリアとマスターほどには親子感は出まい。よく子供扱いできるものだ。
まあ、マスターの感性は少々他人とずれているようだから、あまり深く考えないほうがいいだろう。アメリアはそんな事をだらだらと考えながら、銀のトレイを手に、客の去ったテーブルを片づけに向かった。
空いたカップやミルクピッチャーやらをトレイに乗せていく。と、一つだけ飲み残しがあると気づいた。この席は、確かティーザが座っていた場所だ。一度おかわりを出した覚えがある。ということは、頼んだものの二杯目は飲みきれなかったという事か。もったいない気もするけれど、喫茶店ならまあよくある話。急に席を立たなければいけなくなったとか、時間差で満腹感に襲われたとか、事情は人それぞれだ。アメリアは深く考えず、空のカップと同じように下げた。
そして濡らしたクロスに持ち替え、テーブルを拭く。そうしながら椅子にも汚れがないかを確認して――
「あら」
椅子と椅子の間に布の包みが落ちている。長方形で厚みは薄く、紐でくくられている。持ち上げてみても見た印象そのままで軽い。中身は棒状の物や板状の物など色々だ。
「マスター、これ、落し物です。どなたのかは、わからないですけど」
「おやおや。うーん……今すぐ追いかければ間に合うかな」
「じゃあ、私行ってきます。道で見つけられなかったら、スラムの学校に行けばいいですものね」
「道、わかるかい?」
「スラムのすぐ入り口ですよね、行ったことないですけど、きっと大丈夫です。じゃあ、いってきます!」
「気を付けてね。奥に行っちゃだめだよ」
アメリアは笑顔でうなずいて、早速、外へと駆け出して行った。
スラムの方へ行ってはいけないよ、そんなマスターの言いつけを律儀に守っていたから、何年もここで暮らせど話に聞く学校へ行くのは初めてである。
葉揺亭から方角で言えば西へと向かう。この近辺は昔からの宅地で、西へ行ってもそれは同じなのだが、目に見える風景は少しずつ変化していく。戸建ての家が少なくなり、古びた集合住宅が並ぶようになるのだ。さらに進むと、建物の合間合間に廃墟や空き地が目立ち始め、町の空気自体も明らかに変わってくる。どことなく埃っぽい感じに。
やがて、ひたすら西へ進んでいたアメリアは用水路にぶつかった。幅は広く、ジャンプで飛び越すことは運動神経の良い大人でも不可能。深さも相まって、少し恐ろしさを感じさせるどんよりとした水色をしている。上流方向にあるのは崖、そこから流れ出ている水路だ。これはノスカリアの水道整備によって生まれたもの。高台の地下を巡った水路はここに流れ出て、地上を南西方向へとゆるやかに流れた後、最後には町の外にある大きな川へと合流する。
この水路で隔絶された向こう岸は、こちら側とまたガラリと空気が違う。佇む建物のほとんどは廃墟に近く、しかも箱を無理やり積み重ねたような異様な外観をしている。実際には廃墟ではなく、ガラスの無い窓から人の顔が覗いては、消える。昼間だというのに、町全体に暗い雰囲気が漂っている。だが、そんな中でも、薄汚れた服を着た子どもが無邪気に遊んでいる光景は、どこか眩しい。
アメリアの青い目が捉える向こう岸の風景。その街区こそが、ノスカリアの目覚ましい発展から取り残されたものが集う無法地帯、スラム街だ。
こちらとあちらを繋ぐのは一本の橋のみ。用水路沿いに下流へ向かって少し歩けば見えて来た。
「あの橋を渡ってすぐだから……あれかしら」
橋を渡った右手側に、倉庫にしか見えない建物がある。他に人が大勢集まれるような建物は無いから、あれが校舎で正解だろう。外壁は他の建物に比べれば圧倒的に綺麗である。おそらく古い倉庫を改修し、新しく塗り直したのだ。窓もたくさん取り付けられているし、周囲には空地が広くとってあって、そこで遊んでいる子供も見受けられる。
アメリアは少し緊張した気持ちを胸に駆け足で橋を渡り、学校の開け放たれている大きな入口をくぐった。
玄関から右側に廊下が続いている。左側は物置のようだから、ひとまず廊下へと進んだ。角を曲がると、前方に大きな講堂が見えた。入口の扉が開けっ放しで、中に居るのだろう子供の足音と騒ぎ声が聞こえてくる。だが、大人の居る気配はない。
だとしたら、と、アメリアは講堂の手前にある部屋へ向いた。薄い壁で区切られた一室、きっとここが教師陣の待機室だろう。閉まっている引き戸をノックすると、「どうぞ入って」と返事があったので、中へ入った。
応対してくれたのは中年の女性だ。先ほど店にも来ていて、「教師長」と呼ばれていた人だ。
「おや……お嬢さんはたしか喫茶店の――」
「はい。お店に忘れ物がありましたので、えっと、これです」
「ああ! わたしの筆記具だよ、わざわざありがとう」
布包みは無事に教師長のもとに戻り、アメリアのおつかいは終了した。
改めて、ざっと部屋を見渡す。狭い部屋には机が四台、中央に寄せた状態で置かれている。一人の教師が着席し、何やら帳簿をつけている最中であった。他には勉強の道具が集められた棚が一つと、作業に使うような簡素な木の台。それと、椅子がたくさん壁沿いに並んでいる。台上や椅子にも物が散乱していて、なんだか落ち着かない雰囲気だ。片づけたい、とアメリアは思ってしまった。
「お嬢さん? どうかしたのかな?」
「あっ、いえ。えと……ティーザさんはもう帰っちゃったんですか?」
「そうか、お知り合いだったね。彼なら戻ってくるなり子供たちにつかまって、家まで送りに行っているよ。橋の向こうの子たちだから、しばらく時間がかかるだろうね」
「スラムの外からも生徒が来るんですね」
「学ぶ意欲のある人なら、どこに住んでいようと歓迎するよ。子供だけじゃなくて、大人もね。万人に学びの場を、ここはそういう目的で開設された学校なのだよ。ああ、よかったらお嬢さんも一度授業を受けにおいでなさい。あいにく今日は終わってしまったけれど、毎日なにかしらやっているからね」
「はい、ぜひ!」
アメリアにとっての先生はマスターただ一人であった。葉揺亭で拾われる前、孤児院に居た頃は、日々を生きていくだけで精一杯で、勉強らしい事はまったくと言っていいほどしなかったし、望めるような環境でもなかった。だから、文字の読み書き、お金の数え方、生活の知恵、その他諸々、社会常識からどうでもいい知識まで、ほとんどの事をマスターから教わった。
それで不自由した事はないものの、他の大人が一体どんな風に子供にものを教えるのか、とても興味がある。
興味があると言えばもう一つ。
「ティーザさんはどんな先生なんですか?」
ティーザはたまに葉揺亭に顔を見せた時も、聞かれない限り自分の話をしない。昔話に限らず、今の仕事や暮らしぶりの事も。まるでカーテンが閉めてあるよう、その向こうが気になってしまうのは人の性だ。




