そして少年は憧憬を抱いた
「前から気になってたんですけど、なんでいつもその帽子かぶってるんですか」
注文の紅茶が仕上がるまでの間に、アメリアが客の少年へたずねた。客人の名はアーフェン=グラスランド、最近ノスカリアにやってきた元旅人の――本人は今でも旅の途中だと言い張っているが、その実異能者ギルドに属すなどして、腰を落ち着ける方向にむかっている――紅茶が好きな少年だ。葉揺亭にも頻繁に出入りして、今ではすっかり顔なじみであった。
アーフェンは暗い茶色の地に緑のリボンテープを巻いた中折れ帽をいつも被っている。そして店の中でも絶対に脱がない。一度、居合わせた別の客に「人様の前で帽子を脱がないのは無礼だ」と難癖をつけられたが、頑として脱ぐことを拒んだ。なおその場は、マスターがなんとも思っていないことを主張して、大きな揉め事となることは回避された。
ずっと身に着けているからには、大層な理由があるはずだ。アメリアのそんな疑問に対して、アーフェンは帽子を押さえながら、ふっとキザな笑みを浮かべて語った。
「私にとって金銀財宝より大切な物なのです。これだけは絶対になくしたくない、だからこうやっていつも身に着けているのですよ」
「ふふっ。旅の思い出がたくさん詰まっている、とかそういうのですか」
「たくさんと言うよりは、とびきり大事なものが一つですね。ええ、なくしたくないのは帽子自体ではなく、その思い出の方。形なきものこそ価値がある、世の中そういう風にできているのですよ」
「は、はあ」
聞きようによっては上から目線で鼻につく言い回し、それもまたお馴染みになっていた。曖昧な笑顔だけで受け流せる。
――なんでいつもそうやって、いちいち格好つけて喋るんですか。
アメリアは思いこそすれ、口に出さない。こんなことで相手の気分を害しても仕方がないから。マスターの隣で喫茶店の営業を見てきた中で身についた、ちょっとした世渡り術である。
「盛り上がっているところ悪いけど、ご注文の品ができたよ」
そう言って、マスターがカウンターごしにティーセットを出した。白地に鮮やかな緑のラインが入った、揃いの色柄のティーセットだ。今の季節にふさわしい新緑を思わせる緑色であり、同時にアーフェンの瞳の色ともよく似ている。
今日の紅茶はデジーランの新茶である。昨日入荷したばかりの茶葉で、客として飲むのはアーフェンが初めてだ。新茶はこの時季しか味わえないもの、いつものデジーランより更に値が張るけれど、紅茶好きとしてはこの機を逃すわけにはいかない。
まずは味見だ。ポットから一口分だけをカップへ注ぎ、極淡い琥珀色の水色をよく見てから口に含む。口腔に広がる匂い、舌に触れる味、鼻腔に抜ける香り、喉の奥を過ぎる後味、そのすべてに対して神経を尖らせて、深くしっかりと味わう。
はたして、美味の極みであった。無意識のうちに目が蕩け、口角もくっと上がっている。薄く澄んだ色合いに反し、ふくよかな味をはらんでいる。新緑の季節らしいすっきりした口当たりで、喉を吹き抜けるのは可憐な花を思わせる甘い芳香。渋みは少なく、紅茶でありながら紅茶でないような、普通のものとはまったく別次元の紅茶だ。
ふふっとマスターが会心の笑みを浮かべた。
「どうだ。大陸のものもなかなかいい味をしているだろう」
「ええ。中央諸島で馴染みのデジーランは甘酸っぱい芳香の強いものだったのですが、こちらは酸味がない代わりに緑茶みたいな風味があって、しかしほんのりと甘くて」
「今日のは大陸東のタルー山地のやつだ。僕が思うに、今年は最高の出来だよ。去年は収穫が早かったが、そのせいか雑味も多かった。あれに比べると天地の差だ」
マスターも屈託のない笑顔を浮かべながら語る。店主として一足先に試飲は済ませていた。その時に覚えた感動ときたら。誰とも分かち合うことができないのが悲しく、悔しかったほど。アメリアの「ほんと、おいしいですね!」と言うだけの感想が悪いわけではないのだが、この素晴らしき紅茶と、それに対する自分の感動を理解し、共感してくれるのとは別の話だ。
その点においてアーフェンは逸材であった。マスターの言葉を受けた後、またも一口分のみをカップに注ぎ、再度味をじっくりと確認する。目を閉ざし、全身全霊で紅茶の味に浸るようにして。そして、恍惚とした顔で言った。
「ああ本当に感動的ですね。私もそれなりに紅茶は色々飲んだのですが、これほどの物はなかったです」
「そうだろう、そうだろう! わかってくれるか」
「はい。こういう出会いがあると、旅に出て来てよかったと心の底から思えます。やはり書物や伝聞で憧れているだけでなく、実際に経験してみると違うものですよ」
そんな事をのたまいつつ、アーフェンはポットを握って紅茶を注いだ。今度はきちんとティータイムを楽しむ量を入れる。おおよそ八分目、カップの持ち手の上端と同じくらいの高さだ。見栄えのいい上限量でもある。
陶器の保温性はかなり高い。おいしい紅茶だからとたっぷり注いですぐにがっつけば、十中八九舌を火傷する。そうなったら味わうも何もなくなって、せっかくの美味な紅茶が台無しだ。だからカップにはすぐ触れず、粗熱が飛ぶのを少し待つ。別に急ぐ必要もない、喫茶はゆったり楽しめばいいのだから。
その間にアーフェンはアメリアに向かって話しかけた。さっきの話の続きですが、と。
「この帽子は人からもらった物なのですよ」
「なるほど。プレゼントなら確かに思い出がつまっていますよね。誰からなんですか? お友だちですか?」
「いいえ。実は、その方と直接会って話したのは、たった一度なんです」
「ええっ!?」
「ですが、私にとってはとても大事な人です。その人は、私の事を認めてくれた初めての人でした。そして私の憧れる人でもあるのです」
ふっと笑って、アーフェンはカップに手を伸ばした。それを口につける前に、一呼吸の間、遠い目をして紅茶の液面を眺めた。水面にうっすらと浮かぶのは現在の自分の顔、だが彼の目に見えていたのは、在りし日の思い出の幻影だった。今自分の頭の上にある、古びた帽子を被っていたその人の。
かつて感じた憧憬を反芻するように、紅茶と共に口に含む。それは甘美なる味であった。
陶酔状態の本人とは別に、アメリアは、はて、と小首を傾げていた。
「認めてくれた、ってどういうことですか?」
「私の意志を尊重してくれた、私の才能を認めて温かい言葉をかけてくれた、そんな感じです。とにかくそれが嬉しかったんですよ」
「そう言うことでしたら、お父さんとかお母さんだって……」
そこまで言ってアメリアは大口を開けたまま、しまったと声を飲みこんだ。以前、街路を歩きながら雑談した時の事を思い出す。あの時アーフェンは、とかく家庭の事情について聞かれるのを嫌がっていた。これは失言だ。
案の定、アーフェンは眉間に皺を寄せ、きゅっと唇を噛んでいる。顔を伏せ気味にしてアメリアから視線を逸らし、こちらもこちらで反応に迷っている。
マスターは過日に外でかわされた会話を知らない。しかし、人を見る目には一日の長がある。今のわずかなやりとりから、おおよその事情を察した。暗く沈んでいるアーフェンに対して、すかさず甘く柔らかい声音でフォローを入れる。
「子を一切褒めない甘やかさない厳しい親って、結構な割合で居るものだよ。それ自体が悪いわけじゃあないけれど、身近な人に承認してもらえない現実は、子供心にはかなり堪えるもの。だから親のことを疎ましく思うのは、別にいけない事ではない。心が砕けて死んだようになってしまうよりずっとましさ。……まあ僕だったら、一度アメリアに嫌われたら、この先ずっと立ち直れないけれど」
マスターはおどけるように肩をすくめた。隣でアメリアが「嫌いになんてならないですよう」と、小さく口をとがらせたのを温かい気持ちで聞き流し、さらにアーフェンに対して、より長く世界を見てきた一人の大人の立場から言って聞かせた。
「たとえ実の親がどうであれ、身近に君の事を認め、褒めて、大事にしてくれた人が居たのなら、君は十分恵まれていた方だと思うよ。たった一つでも、どんなに小さくてもいいから心の支えになるものがあるかないか、それでずいぶん人は変わってくる。そう思わないかい?」
この問いかけの答えは肯定に決まっている、そうマスターはわかりきった風にたずねた。であればこそ、目の前の少年は使い古しの中折れ帽と共にここに居る。
そして思った通り、アーフェンは弱ったような顔ながらも、こくりと頷いて答えた。
「そう、ですね。あの方と出会っていなかったら、私が旅に出ようと思う事すらなかったかもしれない。直接的ではないにしろ、背中を押してくれたのは、その人からもらった言葉です。様々な事を学べ、たくさん運動して強くなれ、大事な人生なのだから死ぬ気で生きろ。そんな激励の言葉が、私の原動力です」
アーフェンはにっと笑った。少年らしい純朴な笑みだった。
それから一度帽子を軽く浮かせ、また頭にかぶり直す。ぽふっと立ったそよ風に、少々長さがある亜麻色の癖毛がふわふわと揺れた。
「この帽子を被っていると、あの方から勇気がもらえる気がするんです。それに、あのようなかっこよい人になれるんじゃないかって。ほら、形から習うのも大切だと言うでしょう? 仕草とか顔つきとか言葉遣いとか、そういうところから、憧れの姿に一歩ずつ近づいていくのがいい。私はそう思っています」
「はあー、なるほど」
「道理で」
葉揺亭の二人は揃って得心がいったと言わんばかりに頷いた。――やたら着飾った言い回しをしたり、無理に背伸びをした振る舞いをしたりなのは、そういうわけか。
それはさておき。アメリアは屈託ない笑みを浮かべてアーフェンに言った。
「じゃあ、その人にお手紙の一つでも送らないといけないですね。遠く離れた場所でも頑張ってますよ、って」
「……だめなんですよ」
「え?」
「もう二度と会えない、言葉を伝えることもできない、そういう場所に行ってしまったので」
アーフェンは言いながら、ひどく複雑な表情をした。が、あたりがしんみりとした空気に包まれるより先に、ふるふると首を横に振って、また純粋な笑みを見せた。
「だけど、できることなら伝えたいと思っています。あなたのおかげで、今の幸福な時を享受することができています、ありがとうございます、と」
しみじみと語った茶話に終止符を打つように、手にしたカップの茶を飲み干す。少し温み過ぎてしまったが、異邦の地にて今日出会った紅茶は、かように味わっても甘く美味なものであった。
葉揺亭・本日のメニュー
「デジーラン(新茶)」
毎年決まった時期に少ししか出回らない、その年の一番茶を指す。何も加えずに、天然の味を楽しむのが風流。
もともと産地によって個性的な味を醸すデジーランだが、新茶では特にその傾向が強く、また同じ産地でも後の時期に摘むものとはっきり味が変わる。
今年葉揺亭で仕入れたものは、新緑のような香りと果物を思わせるような仄かな甘味が特徴。




