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壁越え来たりし迷い鳥(2)

 少年は手書きのメニューをまじまじと眺めている。冷静を取り繕っているが、内心うきうきとしていると隠しきれていない、気配にありありと漏れ出ている。


 そのまま黙ってメニューとにらめっこしていたが、ルルーの珈琲が出された時に、ふっと顔を上げた。


「そういえば、ここは豆で入れるちゃんとした珈琲を出しているんですね。大陸では初めて見ましたよ」


 言葉尻に引っかかりを覚えた大人たちが、揃って眉目を上げた。少年の喋り方がやや皮肉っぽいのもあるが、その点に対してではない。少なくとも、マスターは。


 この世界にはおおまかに四つの大陸がある。世界地図を描くと綺麗に東西南北に配せるのだが、それらを結ぶ中央に、無数の島々が浮かぶ海がある。エバーダン諸島と称されるその地域は熱帯の気候を持ち、大陸とはやや異なる文化や植生を持つ。珈琲の木を栽培し、嗜好品として飲用するのも一例だ。


 葉揺亭に諸島出身者が来たのは初めてだ。こんな機会はなかなかない。マスターの眼がきらきらと輝いた。


「君、エバーダン諸島の出身なのかい?」

「はい。今は旅の途中で……」

「じゃあ本物の豆の珈琲を飲んだ事は?」

「当然ありますとも。私は珈琲も紅茶も、どっちも好きですよ」

「そうか、そうか。じゃあ、お茶なら何が好きだい?」

「ええと、普段飲むのなら『シネンスのオレンジ・ティ』ですが、『シモン』や『デジーラン』もおいしかったです。まあ、割となんでも飲みますよ、私は」

「『シモン』か! なかなか渋い選択だな。埃っぽいとか煙臭いって言われるんだけど、その香りが良いんだよね。『デジーラン』は諸島だとエルキナ島のやつだろう? いいなあ、羨ましい。あれは本当に極上なんだが、ノスカリアまではまず流れてこない。あれを口にできるのは、完全に上流階級の特権だ」

「やっぱり格別ですよ。特に新茶は素晴らしいです。なんと言うか、味に透明感があるんですよね。そうですね、新芽の若々しさが溶け込んでいる、とでも言うんですかね」

「ああ、とてもいい表現だ。新しく芽吹く勢いはまさに命の輝きと言うべきで――」


 マスターの喋りが止まらない。常連だったらうんざりするようなものでも、少年はきちんと投げ返してくれるわけだから。完全に二人の世界に入ってしまい、振り落とされた周りが何とも言えない空気を醸しているのには、どちらもまったく気づいていない。


「……何を話してるのか全然わからんぞ」

「私もです。というか、マスターとあそこまでお茶の話ができる人、初めてです」


 アメリアまでもが一歩引いて生温かい目で眺めている。ただ、マスターの気持ちはなんとなくわかった。珍しく対等に語り合える相手に出会えて嬉しいのだ。それこそ一級品の茶葉と同じくらい、価値のある経験なのだろう。


「すごいな、君。ええと……名前は……」

「アーフェン……アーフェン=グラスランドと申します」

「アーフェン君。よし、覚えた。それで、今日は何を飲む?」


 さあ自由に言ってみたまえ、望むものはなんでも与えよう。そう店主は胸を張った。


 ところが、注文の段階になった途端、みるみるうちにアーフェンの表情が萎びていった。


「あの……申し上げにくいですが、やはり、のんびりお茶を飲んでいく気分にはなれなくて」

「あそこまで語っといて今さらかい!」

「だったらさっさと帰りなさいよ!」


 即座に飛んできたオーベルとルルーの突っ込み。大声量で放たれたそれは、本人たちが思う以上に聞き手の心をえぐった。アーフェンはびくりと身をすくませ、なおかつ喧嘩をふっかけられたと受け取ったらしい。ぐっと唇を噛みしめ、二人の方を睨み返す。


 一度は静まった刺々しい空気が舞い戻ってきた。さすがに今度はマスターが放っておかない。手を叩いて空気を割る。意識的に声を低くして、お客たち全員にぴしりと言い付ける。


「僕の店で喧嘩はご法度だ。全員、少し頭を冷やしてくれるか」

「悪いけどマスター、アビリスタにしかわからない問題が色々あるのよ」

「ルルー。君の言い分はわかるが、彼にも彼の問題があっての事だ。現に悪い連中に追われていたのは事実、法が彼を守るのも事実」

「だからって、じゃあ、あたしが文句言うのが悪いってわけ」

「いいや。君が怒る理由もわかる。異能の者が恐れられるのは今に始まった事でもないのだし、些細な瑕疵が破滅を呼ぶと言うのももっともだ」

「じゃあ!」

「ここに居る以上、みんな僕の大事なお客様だ。だから僕は、君の気持ちは汲むけれど、彼の事も守る。ただ、この場所をあんまり荒らすようなら、客ではなく敵とみなすよ」


 ふっと意味深な笑みを残してから、マスターはしゃがみこんだ。


 作業台の下にある冷蔵庫から栓のされたカラフェを取りだした。透明な硝子の向こうにたたえられた液体、それもまったく濁りが無い透明の水である。それをグラスに注ぎ、各人に配った。


「ほら、アメリアも」

「え? 私は別に怒ってませんよ」

「知っているとも。でも、飲んでみたいだろう」

「あれっ、ただの水じゃないんですか?」


 そう言って冷たいグラスを受け取ると、恐る恐ると言った風に一口飲む。次の瞬間には、好意的な驚き顔を見せた。


 ただの水ではない。マスターは随分中身の減ってしまったカラフェに栓を戻しつつ、得意気な笑顔をつくった。


「花の匂いがしただろう」

「はい! ほんのりですけれど。なんですかこれ」

「フローラル・ウォーター、花の蒸留水さ。ま、ハーブティと似たようなものだと思ってくれればいいかな。今飲んでもらったのはカモマイルで作った。苛立ちを抑えるのにうってつけのハーブだよ。冷たいから、頭もよーく冷えるしね」


 マスターは茶目っ気のあるウインクをした。


 計らい通り、客人たちの熱は冷めたらしい。各々黙ってグラスを傾けている。特にアーフェンはグラスを握ったまま、非常に暗い顔をしていた。心なしか目が潤んでいるような。


 やがて彼は深呼吸をした。それはどこか途方に暮れた溜息にも聞こえた。これからどうしようかと、迷っているような。


 察したのか、オーベルが咳払いをする。


「なあ少年よ。旅の途中なら、どっかの宿に居るんだろ? さっきの連中にばれちゃいないのか? 大丈夫か?」

「それは……さあ。大丈夫だと思いたいですが」

「うーん、そうか。しかし君は幸運だなあ」

「……何がですか」

「俺は宿屋なんだよ。だから、とりあえずうちに移動してこい。これも何かの縁だ、泊まり賃も割引しといてやるよ」

「えっ。でも、なぜ?」

「うちには頼もしい異能者ギルドがくっついてるからな。そうそう悪い奴らも近寄れねぇし、ついでにアビリスタ同士で交流してみたらいいだろう。なあ?」


 そう言って宿屋の親父はルルーの肩をバシバシと叩いた。彼女はつんとした表情を保っているが、その実、悪い気はしていなさそうだ。


 しかしアーフェンはまだためらっているのか、あいまいな声を漏らすばかり。マスターもオーベルに同感だった。だから後押しをする。


「アーフェン君、悪い事は言わない、甘えておきなさい。オーベルさんの人柄は僕が保証する、頼って大丈夫だよ」

「それはその、ありがたいのですが。その、実は、私、お金があまり――」


 金。それがそもそもの元凶だったのである。アーフェンは頭を抱えながら、すべてを白状した。


 つまりこの少年は旅の資金繰りに困っていた。そんな折にやってきた怪しい儲け話にまんまと釣られ、危うく犯罪に巻き込まれる羽目になった。辛くも窮地は脱したものの、ああやって犯罪集団から追われる身となってしまい、真っ当な労働すら出来ない最悪の事態に陥っている。


 するとオーベルは、少年の頭上にかかる暗雲を吹き飛ばすかのごとく、ガハハと豪快に笑った。


「んなことなら気にするな! どう転んでも払えねえってなったら、マスターから取り立てるだけさ」

「おい」

「あんた、さっきこの坊主のこと守るって言ったもんな! ま、そんな冗談はさて置き。とにかく身の安全が第一だぜ? 生きてりゃ金なんてどうにでもなるって」

「そう、かもしれませんね……」


 茶店には人と人とを繋ぐ力もある。ここで出会ったのもなにかの縁だ。浮かない顔は続いている者の、アーフェンは好意に甘えてみる事にしたらしい。


「ありがとうございます。では、とりあえず今の宿にある荷物を取りに行かないと」

「あたしが付いてってあげるよ。一人じゃ怖いだろ?」

「あっ……ありがとうございます。助かります」


 そうと決まれば善は急げ。三人組はさっと席を立った。オーベルとルルーは、いつもするように代金をカウンターに置く。


 見習って、アーフェンも財布を取りだそうとした。しかしマスターが止めた。あのフローラル・ウォーターは僕の好意の品だ、と。


「その代わり。厄介ごとが片付いたら必ずまた来るんだよ。今度は、ゆっくりお茶を楽しむ気分でね」


 そう伝えると、アーフェンは少年らしい快活な笑顔でうなずいた。必ず来ます、その一言と共に去って行く。



 賑やかだった店内が、波が引いたように一気に静まり返った。平穏な静寂、これぞ葉揺亭らしい。


 疲れた、と呟きながら、アメリアが椅子に座った。大事に両手で持つグラスから、花の香り漂う水を、心と体にしみ渡らせるようちびちびと飲んでいる。


「それにしても、まさか壁の向こうからお客さんが来るなんて。びっくりしました」

「僕だって驚いたよ。まあ、とにかく君が無事でよかった」


 客はすべて尊重し、守る。しかし店主が一番守りたいのは、この店そのものとアメリアの笑顔。それだけは譲れない。


 アメリアがぼんやりと呟く。


「だけど、いいなあ、一人旅。アーフェンさん、私とそんなに変わらない歳なのに」


 こちらはちょっと町の外に出る事すらも禁じられているのに。続けたくなった言葉は飲みこんだ。またマスターの心配性が発動しても嫌だ。


 ちら、とマスターの顔色を伺ったところ、アメリアの発言はさして気にも留めていない。別の話が引っかかっており、窓の外を遠目でぼんやり眺めていた。


「なんで彼は旅をしているんだろうね。生家に居れば安泰は確実だろうに、わざわざ海を越えてこんな遠い場所まで」

「……え?」


 アーフェンは自分の生まれについてはほとんど喋らなかった。それなのに、どうして。アメリアがきょとんとしていると、マスターが静かに言った。


「アメリア、エバーダン諸島には何があるか知っているかい?」

「本物の珈琲豆の木」

「……うん。それも正解だけど。一番有名なのは、今の世界を統べている政府の中枢機関だよね」

「あっ、はい。そうでしたね」

「彼はきっと中枢の高官の家の子だよ。ここに居ると忘れてしまうだろうけど、あの歳ながらにああも紅茶に詳しくなれる環境に居られたなんて、上流階級である証だ」


 なるほど、とアメリアは納得した。ただ。


「だったら何かあるんですか?」

「別に。ちょっとおもしろい子だったなって思っただけさ。深い意味はないよ」


 そう言いこそすれ、心の中ではあれこれ考えてしまう。アーフェンは自分のことを旅人だと言っていたが、あるいは、迷い人なのかもしれない。


――ま。色々と重い物を抱えて道に迷っている子が転がり込んで来るのも、もう慣れたものだけど。


 そんな風に思いながらアメリアを見る。

「……なんですか?」

「いや。彼もここに居付いてくれるようなら、きっと楽しくなるだろうな、って考えていただけさ」


 マスターの静かな声が、店内へ穏やかに染み渡った。


 奇想天外な来し方の客があってから、十日余りが経過した。


 あれからアーフェンが再来する事はなかった。それどころか、現状についてもどうなっているかわからない。毎朝来るオーベルに聞いてみたところ、三日前に「なんとか問題が解決したので」と言って宿を出たきりだと。


「宿代もきっちり払ってくれたぜ。どこで工面してきたかは聞いちゃいけないかと思って、聞かなかったけどよ。いい顔してたから、汚い金じゃないとは思うが……まあ、訳ありの客が突然出て行くなんて、この町で宿屋やってりゃよくあるわ。心配しなくていいんじゃねぇの?」


 禊を済ませて心機一転、次の旅程に入った。そんな見解で一致した。


 少し惜しいな、とマスターは思った。が、こればかりは仕方がない。


「いろんな人の運命が交わる町であるけれども、全部が全部結ばれるわけじゃないものだからね」


 静かな店内で悟りを開いたように呟いた。その言葉は、隣で聞いていたアメリアの心に印象深く残った。



「……運命の交わる町って、かっこいい言い方だなあ」


 青空の下、一人石畳を歩きながら、アメリアは思い出して顔をほころばせた。


 交易都市ノスカリア、数多の人や物が四方より流れ込むこの町は、確かに色々な運命が交わった結果形成されていると言ってもいい。周りに居るたくさんの人々が話す声や、ずらりと並ぶ店屋を見ていると、余計にそう思える。


 アメリアが歩いているのは、時計塔広場から東に伸びる商店街だ。大陸東部へ向かう街道と一体化したノスカリアの商業の中心地であり、商店の半数以上が集中している。


 商店街をくまなく探せばおおよそなんでも手に入る。身近な日用品から高級調度品、方々の珍味に民芸品、武器の類からアビラストーンを使用した便利道具まで。


 もしも賑々しい商店街を散々探しても見つからない物があれば、路地を北側に抜けて、大通りに並行する裏通りを覗いてみるといい。裏通りには少々変わった、言い方を変えれば怪しい店屋が並んでいる。


 ただ、怪しい店があるようなところには怪しい人間もたくさん集まる。例えば声を大にして言えない仕事をしている人だとか、法に触れるギリギリで儲けようとしている人とか。決して治安が良いとは言えない。裏通りには寄り付くな、特に夜は踏み入れるな、ノスカリアで生まれ育った子供、特に女の子はそう親に教えられる。


 例外は東側の端だ。表の商店街から別れた道が合流し、そこから金持ちが住まう高台へと続くゆるやかな坂道がはじまる都合、用心棒を乗せた豪華な馬車が頻繁に通るし、そうでなくとも人通りが多い。よって人目を忍びたい連中があまり寄りつかず、万が一何かあってもすぐに助けが入るような環境になっている。


 今、アメリアが愛用のバスケットを手に向かっているのも、そんな裏通りの東端にある店だ。目的は葉揺亭の命である、紅茶を買うこと。別に裏通りでなくとも扱う店があるのだが、マスターから絶対にここで買えと指定されている。



 やがて商店街の終わりに近づくと、左へ曲がって裏通りへ入り、すぐにある古びた建物の前に立った。「嗜好品販売店『陸の船』」と看板が出されている。


 年季の入った扉を前にして、アメリアは一つ呼吸を整えると、それから店の中へ入った。扉に取り付けられているベルが、軽やかな音色を鳴らして来店を歓迎してくれた。


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