蔦の葉扉の向こう側(1)
ヴィクター=ヘイルは少年の自分を見下ろしていた。あぁ、俺だ。そう思いながら、小汚い服を着て両手を真っ赤に染めた少年を背後から見下ろしていた。
いやに暗い町だ。細い路地の奥は闇に閉ざされていて、何も見えない。
少年は振り返ることなく路地を歩き始めた。だからヴィクターも歩き始めた。
そうして、しばらく。いつの間にか少年の目線になっていた。両脇に並ぶ真っ黒の建物が、とても背が高くなっていて、自分を捕って喰おうとする恐ろしいものに感じられた。
やがてヴィクターは立ち止まった。行く手に誰かが待っている。
真っ赤な人影が闇に浮かんだ。三角に丸を乗せたシルエットで、ゆらりゆらりと幽霊のように揺らめいている。
「人殺しの道を選んだのか。人に助けられた命で、人を殺す道を選んだのか。そんな事のためにおまえは生きようとしたのか、そんな事のためにおまえは生かされたのか」
赤い人が発した詰問は、しかし一人の声でなかった。男も女も、老人も子供も、知っている色々が混ざっている。
うるさい、と思った。しかたなかったんだ、と答えた。
それでも責め苦は止まない。人殺し、ろくでなし、性悪、愚か者。ありとあらゆる罵倒が響く。
「うるさいな! 後悔してないって言ってるだろ!」
ヴィクターはありったけの力で叫んだ。
すると人影が燃えた。あっと言う間に真っ赤な炎に飲みこまれ、声も消えた。
代わりに火の中に真っ黒の人影が浮かびあがった。顔もなにも見えない。だが、笑っているような気がする。とたんに途轍もなく恐ろしくなって、ヴィクターは後ずさった。
「逃げるのか? おまえの選んだ事だぞ。おまえは自ら闇に堕ちた。もう戻れない。おまえはもう、明るい世界には戻れないのだ、ヴィクター=ヘイル」
いやに重々しい響きの声だった。そののち嘲笑が聞こえてくる。
今すぐにでも逃げ出したい。それなのに、ヴィクターは動けなかった。いつの間にか地面が沼のようになっていて、そこに足を飲みこまれていた。どれだけ力を入れても抜け出せず、逆に沈んでいくばかり。
「堕ちたいなら堕ちればよい、おまえの人生はおまえのものだ。どこまでも堕ちて生き、無数の屍に埋もれながらもがき苦しみ、そして孤独に死ぬがよい」
死。その言葉が全身を粟立てた。死ねと言われている、嫌だ、死にたくない!
ヴィクターのもとに黒い影が歩いて来る。こいつは死神か、そんな気がしてきた。だって近寄って来る程に体が寒くなるのだ、命の炎がしぼんでいくように。
目の前まで来てぴたりと止まった影を、ヴィクターは恐々と見上げた。すると真っ黒だった頭の部分にすうっと顔が浮かびあがった。いやに白い顔をしたその男は、優しく微笑んでいた。
「でもね、僕は君が生きて帰ってくる事を待っている。だからいつでもおいで」
その人は手を伸ばしてきた。ヴィクターはその手にしがみつこうと、自分も手を伸ばした。
しかしその途端、その人は背景ごと遠ざかっていった。どんどん小さくなり、あっという間に見えなくなる。
真っ黒の空間に、所在なく手を伸ばしたヴィクターだけが取り残されていた。その目の前で、どこからどう現れたのかはわからないが、ぱたりと音を立てて扉が閉まった。その扉には――。
殺し屋の青年ヴィクターは重い瞼を持ち上げた。
身動きはせず息を殺し、神経だけを研いで自分の状態を確認する。寝入りと同じ格好で、場所も変わっていない。スラムの荒れた廃墟にて、着の身着のまま、壁に背を預け座ったまま眠っていた。これは浅く睡眠を取るための工夫である、日頃と同じだ。
つまるところ夢を見ていたのだ。
記憶を元に構成された虚実入り混じる情景、それが夢の正体だ。と、ある人が――訊ねたわけでもないのに――教えてくれた事を思い出す。そんな細かいことはどうでもいいが。ヴィクターは乾いた喉から息を吐き出した。
「嫌な夢だよ、調子狂うね……」
実を言えば、昨日からもう狂っているのだが。そうだ、だからこんな夢を見たのだ。もとよりぼさっとした頭をさらにかき乱す。
だめだ、早いところ調子を取り戻さなくてはいけない。
ヴィクターは重たげに腰を上げた。吹きさらしの窓から覗く外界はまだ夜が明けて早々といった所だが、構う事は無い。
「行きますか。今日も休みとか、勘弁してくれよ」
独りごちながら行く先は、現実にある夢の続き。目の前に現れた蔦の葉のレリーフが施された扉、その向こうへ。
葉揺亭に今朝一の客が訪れた時、そこはまだ開店準備中といった雰囲気だった。特製の燕尾つき黒ベストを着たマスターが、適当な布きれを持って、燭台についたわずかな埃を拭っていた。
「おっと。さすがに早朝すぎたか?」
「いいや、構わない。準備はできているし、鍵も開けてあったわけだから。これはちょっと気になったから暇つぶしにやっているだけ。アメリアだと背が足りないからね」
ふふっとマスターは笑みをこぼした。ちんまりとした店員が踏み台の上でぴょんぴょん跳ねて、でもうまく届かず、うーうー言いながら高所の掃除をしている姿、そのようなものを思い出したに違いない。現場を見たことがないヴィクターでも、容易に想像がつく光景である。
マスターはその柔和な面持ちのまま身を反転、布巾を手で弄びながらカウンターへ戻る。
「それにしても、君が朝一にやってくるなんて珍しいね。何かあったのかい」
「いや。昨日ノスカリアを出るつもりだったんだが、ここに来たら『今日はお休み』なんて札がかかっててな。だからしょうがなく、一日ずらしたってわけだ」
ノスカリアを離れる前には必ず葉揺亭に立ち寄る。それはヴィクターの中で、ある種の儀式であり、いかなる時でも欠かさない習慣であった。それを乱されれば調子が狂って然るべき。だから、あんなひどい夢を見てしまったのだ、とまでは伝えなかったが。
マスターは軽く眉を下げた。
「そりゃ悪かった。昨日はたまたま出かけていたんだ」
「珍しい。なんぞの悪だくみですかいな」
「人聞きが悪いこと言うなよ。ただお茶を買いに行ってきただけさ。ちょうど新茶がおいしい時期なんだ」
「ふうん」
まるで興味がない。どこへどうやって行っていたのかも含めて。だから自然と気のない返事になった。
ヴィクターはカウンターに並ぶ席の中心に陣取った。まずは、ぐあ、と遠慮のない大あくび。それから背中を丸めて腕と顎をカウンターに預けた。
見えているのはマスターの背中。食器棚に向かって、もう茶の準備に取り掛かっている。
二人の間に注文のやりとりは必要ない。ヴィクターの飲むものは、二つに絞られているからだ。
普段はシネンスなる紅茶を出してもらう。はっきり言って違いがわからないから、一番安くて普通のものでいい。そういう理由で。
そしてもう一つは、うってかわってかなり特別なもの。仕事でノスカリアを発つ前に必ず飲まなければいけないと、暗黙の了解になっている。それがヴィクターの儀式であり、習慣であり、調子を整えるおまじないだ。
今日が後者であることは、改めて強調せずともマスターに伝わっていた。ヴィクターの私品に等しい淡緑色のカップと共に、艶のない黒色のティーポットを食器棚の上方から下ろす。まさに特別な用途にしか使わないポットで、普段は置き物として棚を彩っている。
マスターは道具を作業台に置くと、次に食器棚の引き出しを開ける。左側の最上段、他と違う取手のついた魔法の引き出しだ。
堂々と大きく引き出した中から次々と瓶を選んで抜き出し、ポットの隣に並べた。広口の瓶で液体に浸された指先サイズの胡桃の堅果、浅葱色の粉末、血のように赤い花びら、それとはまた別の朱色をした蕾、そしてとろみのある薄紫の液体。一見するにおいしい飲み物の材料ではないが、実際にその通りだから困る。ヴィクターは、ここからできあがるものは茶ではないと考えている。あれは一種の薬だ、と。ただ葉揺亭が喫茶店であるとの便宜上、言葉に出す時はお茶だとしておく。
マスターも、普通に茶を呈すとなんら変わらない表情で仕事を進めていく。浅葱色の粉末を空のポットの底に敷き、その上にスプーンで取りだした胡桃を、少し高い位置から落とす。ぽとんという音がポットの中に響いた直後、すぐに蓋を閉める。このまましばらく静置しておかなければならない。
マスターの所作をじっと見ていたヴィクターが、間をついて口を開いた。
「なあ。なんであんたは喫茶店なんか始めたんだ?」
マスターはきょとんとして面を上げた。
「急にどうしたんだ」
「少し気になっただけだ。あんたなら他にも色々、なんだって道は選べたはず。店屋をやるにしても、だ。それなのに、どうして喫茶店なんだ?」
「どうしてって言われてもねぇ……」
マスターは手を休めて考え込んだ。
「なんとなく、としか答えられないな。新しく何かを始めて、別の生き方をしてみようと思った。じゃあ何しようかと考えたら、ふっと浮かんだのが喫茶店だった。厳密には、『お茶だな』と言う所からだけど」
「そのきっかけは」
「さあ。忘れたし、深く考える事もしなかった」
きゅっと肩をすくめておどけた表情を見せる。
「難しいよ、動機を明確に言葉で示すのは。僕にそれを聞くのは、君に『どうして人殺しになったんだ』って聞くのと同じさ。そんなの、うまく答えられないだろう」
くくっとマスターは何の気なしに笑った。
一方、ヴィクターは冷や水を浴びせかけられた気分だった。だいぶおぼろげになっていた夢の情景が、また鮮明に蘇ってくる。確かに夢が契機になっての質問だった。その心が見透かされたというのか。それとも、ただの偶然の一致か。
マスターの目はもう別の場所へ向いている。瓶から取り出した蕾をナイフで細かく刻み、引き続き茶の手仕事へ。
答えられないと決めつけられた、その事が無性に癪にさわった。たいした理由もなく、なんとなくで人殺しになったのだろう。そう咎められているようで。
刻んだ花ともう一つの花びらがひとつまみ、手のひら大のボウルに入れられる。その上に薄紫の蜜を一滴。マスターはそこまですると、すべての瓶を片すために食器棚へ向いた。
その背に向かってヴィクターはきっぱりと告げた。
「スラム生まれで何一つ後ろ盾のないガキが独りで生きていくにゃ、こっちの世界に来るのが一番簡単で確実だった。闇の中で生きて、そのまま死んでいくなら、誰にも迷惑かからないしな」
「わざわざ教えてくれなんて言ってない。そんな事、今さら説明されなくたって知っているし」
流れる水のようにさらりと返された。がたん、と引き出しを押し閉める音が会話に割って入る。
再び客席側を向いたマスターは、いつも通り柔らかく笑んでいた。作業台に向かい先ほどのボウルを取り、スプーンで中身をかき混ぜる。最後に垂らした蜜を全体になじませるように。視線も集中させている。
が、最中にふっと顔つきが変わった。唇の浅い弧が、横一線となったのだ。その顔で、でもね、と静かに言葉を紡ぐ。
「何一つ後ろ盾がなかったというのは語弊があるだろう。後ろ盾になってくれるものはすぐ近くにいた。だがそれを自ら蹴倒していったんじゃないか。『私』は知っているぞ、ヴィクター」
マスターは相変わらず手元を見ている。それなのに、ヴィクターは厳しい視線で射抜かれている気がした。いたたまれなくなってつい顔を背ける。
マスターは続けざまに何かを言いかけた。しかしそれが意味のある部分へ入る前に、彼の口は急につぐまれた。
その理由はヴィクターにもわかった。カウンター内にある扉の向こうから、階段を降りてくる足音が聞こえる。お姫様のご登場だ、清らかならぬ話は慎まなければならない。
間もなく扉が開いた。ブロンドの少女が長い三つ編みを揺らし、ひょっこりと顔をのぞかせた。青い目はぱっちりと開かれていて、おはようございます、と太陽のように快活な挨拶をする。
と、客席に座る人物の姿を見て、まずは驚き、続けて嬉しそうに口元をほころばせた。
「ヴィクターさん! 朝いらっしゃるのは珍しいですね、ヴィクターさんも今日は早起きしたんですか」
「まあ、そんなところだ」
「えへへ、私と一緒ですね。じゃあ私、ちょっと朝ごはん食べてきますから、また後で」
そう言ってアメリアはマスターの足下にしゃがみこむと、冷蔵庫からミルクを持ち出し、また扉へ手をかけた。向こうは生活空間、店とは別に小さな台所もあるのだ。
閉めきる前にもう一度店側に笑顔を向ける。そこでアメリアは、マスターが相手をしているポットが特別なものであることに気づいた。それがどんな意味合いか、アメリアもきちんと知っている。にわかに悲しげな表情に転じた。
「……また旅だってしまうのですか?」
ヴィクターは穏やかに笑んだまま、黙って首を縦に振った。
しゅんとしたアメリアの気分につられてか、あたりも少しばかり暗く沈みかける。マスターがボウルの材料をポットにかき入れる音が、空気が静かに固まるのを防いでいた。
「ねえアメリア、早く用事を済ませておいでよ。彼はまだしばらく居るのだし、もうすぐオーベルさんも来るだろう」
「あっ、はい、そうします」
そう言って、アメリアはいそいそと扉の向こうへ消えた。
後に響いたのはやれやれというマスターの苦笑いだ。
「もう何度も経験しているのに、毎度あれだもの。困ったものだ」
「アメリアちゃんは優しいからな。場合によっちゃ今生の別れになるのに、けろっとしてられんのだろう。あんたとは違うのさ」
「まあそうだろうね。……うん、確かに僕は、君がいつ死んでもおかしくない奴だと思っている。それが君の望んだ道なのだともわかっている。でも」
そこで言葉を切ったのは作業に集中するために。沸き立つ湯の入ったケトルを傾けて、ポットに湯を注ぐ。真剣な面持ちだ。細めた目で正確に分量を取っている。
ケトルの細い口から最後の一滴が落ちる。それと入れ替わりに、マスターは中断していた台詞を流した。
「これで今生の別れだなんて自分で認めるなよ。寂しいじゃないか」
ポットの蓋を閉める音がしんみりと響いた。
それから間もなくアメリアが戻ってきた。裏でゆっくり朝食を、という気分ではなかったらしく、頬をぱんぱんに膨らませて口をもぐつかせたまま、おまけに口の周りに細かいパンくずをくっつけての登場だった。
持ち出していたミルクを元の位置へ戻し、口の中のものを飲みこむと、慌ただしく自分用の椅子を動かしてヴィクターの対面に陣取った。
そこからはひたすら質問が飛ぶ。どこへ行くのか、何をしに行くのか、次はいつ戻ってくるのか、そんなような事を色々と、前のめりに。これもまた毎度おなじみの光景だった。
ヴィクターの方は答えられることは素直に答えるが、そうでない事はのらりくらりと適当にやり過ごしていた。時々保護者の顔を盗み見て、さまざまな禁に触れないよう気をつけながら。具体的には、ヴィクターの仕事に関する詳細なやり口や、社会の裏事情、アメリアの好奇心をくすぐった挙句の火遊びに繋がりかねない話題などが含まれている。
こういう時のマスターは、禁句に触れない限り、一歩引いて見守るに徹している。ヴィクターの茶が仕上がるまで暇な手を塞ぐため、手元に常備してある書物を開いているが、耳だけは常に会話の方へ向けられていた。
ただ、今朝はあまりやり取りが深まらなかった。アメリアがひとしきり定型の質問をしたところで、玄関が別のお客を迎え入れたためである。




