葉揺亭の朝(2)
「おはようございます、マスター、オーベルさん」
「おう、おはようさん。……大丈夫かいアメリアちゃん、すごい音だったが」
「平気です、なんでもないです」
笑って答える頬が、ほんのりと照れくさそうに染まっている。
その横からアメリアに詰め寄る者が居た。マスターだ。自分のことを見上げる少女に、苦々しい顔を向けている。雇い主というよりは、保護者の顔つきだ。
「なんでもないわけないだろう、アメリア。さっきの音は何だったんだ。普通じゃない、何かあったはずだ」
「あの、エヘヘ、ちょっと踏み外しちゃいました。慌ててたんです、寝坊したと思って」
「寝坊なんて怒らないよ、いつものことじゃないか。だから、本当に気を付けてくれ。君になにかあったらと思うと命が縮む。……怪我は無い? 足は痛くない? 頭を打ったとか、手をひねったとか」
「大丈夫ですよう。もうっ、マスターは心配性なんですから」
アメリアは呆れたように言って、マスターから目を逸らした。
その大きな目が動きを止めたのは、カウンターの上にあった新聞だ。
マスターは「しまった」と小声で漏らした。がすでに遅い。アメリアは興味津々と言った風に、大見出しとにらめっこしている。
少女も盛りのこの娘は、驚くほどに単純だ。あの鮮烈な文面を見たら、いたずらに不安がるか、あるいは、妙な期待を抱くか。どちらにしろ、騒ぎたてるのは間違いない。マスターは額に手を当てた。
アメリアは後者に転んだらしい。大きな目をさらに見開いて、太陽のように顔を輝かせ、くるりとマスターに向き直った。勢いに乗ってフリルのエプロンがふわりと舞い踊る。
「ねえ、マスター! うちにもギルドを呼びましょう! 喫茶店でも拠点になれます、きっと」
「嫌だよ」
「ええー、いい機会じゃないですか。うちのお茶を飲んでもらえるし、賑やかで楽しそうですし。……そうですよね、オーベルさん」
きらきらとした眼差しが、今度はオーベルへと突き刺さる。
彼は自分の娘を見るような優しい目で笑うと、髭をさすりながら少女の期待に応える。
「おう、そうだそうだ、楽しいやつらだぜ。あいつらを見てると、俺も混ざりたい気分になるねぇ。なんつうの、冒険心というか、男のロマンが刺激されるっていうか……」
オーベルの声が急激に淀んだ。手をついてこちらへ身を乗り出しているアメリアの後ろで、マスターが渋い顔で佇んで、じっとこちらを見ていたからだ。
マスターはこういう無言の重圧をかけるのがうまい。身も細いし、特別厳つい表情をしているわけでもないのに、目つき一つで心から「やばい」と思わせられる。少なくともオーベルは思わせられた。笑顔を引きつらせ、目を泳がせた。遅ればせながら新聞も裏返す。そして、しどろもどろに。
「ああ、いや、まあ。でも、大変は大変だぜ? うん。おっかない揉め事もあるしな。アメリアちゃんには、ちょっと危ないな」
「平気ですよ。マスターが居ますもの」
「まあまあ、そうだが。第一、この店じゃ、ちいと狭すぎるわ」
「カウンターに六人と、テーブルもあるから全部で十四人は座れます。大丈夫です」
「いや、席の問題じゃなくて空間の広さ自体がなあ。だってよお、じっと座ってるばっかりじゃないし、荷物もあるし。だからなんだ、思いつきですぐできることじゃないって事だ」
「うー、でもう……」
「やめときな、アメリアちゃん。ギルドがくっついてるからって、楽しい事ばかりじゃないしよ」
「……残念です」
アメリアは大人しく引き下がった。
しゅんとする彼女の肩をマスターが叩いた。顔にはいつもの微笑みが戻っている。なおかつ何事もなかったかのように言う。
「ねえアメリア、お茶飲む? 僕のと一緒でいい?」
「はい! 一緒で大丈夫です」
お茶、と聞いた瞬間にアメリアの顔は明るくなった。マスターの茶が好きなのは、客だけでなく店員たる彼女も同じだ。
アメリアはカウンター内の隅に置いてある自分の椅子を引きずって、マスターの隣に据えた。店主が茶を淹れる間の仕事は、彼の代わりに客の話し相手になる事だ。
今日はアメリアが話し手になると決めたらしい。作業台に肘をついて両手を組み、その上に顎を乗せ、どこか憂いを帯びた表情で、はあと一息。
「ギルドじゃなくてもいいんですけど、私、もっと楽しい事や変わった事がたっくさんあればいいのに、って思うんです」
「おう、気持ちはわかるわ。毎日毎日同じことの繰り返しじゃ、つまんねえもんなあ」
「そうですよ! そうなんです!」
共感を得られて嬉しいアメリアは、台を両手でぺちぺち叩きながら興奮気味に叫んだ。
マスターとしては聞き捨てならない。たった二人の小さな店、しかも住み込みで働いているのだから、付き合いとしては家族に等しい。その生活をつまらないと言い張られては、まるで立つ瀬がないではないか。
二つのティーポットで湯を介す手はそのままに、マスターは口を曲げ問うた。
「なんだよ、アメリア。僕と一緒に居るのがそんなにつまらないかい?」
アメリアはとんでもないとばかりに首を横に振った。見開かれた目は、嘘をついてはいない。
しかし、小さなうめき声を漏らしながら、人差し指同士を突き合わせて、遠慮がちに言った。
「でも、マスターが難しくて長いお話しを始めた時は、すっごくつまんないです」
「それは……いや、つまらないかどうかは君次第だ。楽しく聞こうとすれば、何だって楽しいものだよ」
「そう、でしょうか……」
いや、つまらないものはつまらない。アメリアは理解を求めるべく、ちらとオーベルを見やった。
彼は小さく頷く。これもまたげんなりした顔をして。
職業柄以上に、葉揺亭の主はよく喋るのである。時には一人で延々語りだし、聞く手がどんな顔をしているかはお構いなし。これがいつも楽しい話ならよいのだが。いかんせん知識の幅が広く深い、どこでスイッチが入るかわからない曲者だ。
常連客は皆、マスターの語りが止まらなくなった時の対処法を心得ている。適当に相槌打ちながら聞き流すか、あるいは強引に話題を変えるか、だ。
オーベルがよく使うのは後者の手である。紅茶の蒸らし終わりを待ちながら、まだ何か言いたげにしているマスターに先んじて口を開いた。
「あれだろ、アメリアちゃんが言いたいのは、いつもの日常になんか刺激が欲しい、みたいな」
「そう、それです! 刺激! マスターだって、いつも同じじゃ退屈しません?」
「別に。何も無い方がいいじゃないか。平和の証だ」
「でも」
「僕は今のままで幸せだから」
きっぱりと言い切って、ちょうどできあがった紅茶のポットを開けた。見慣れた褐色の液体と、嗅ぎなれた渋い香り、いつもと同じでまったく問題ない。
マスターは温めたカップを二つ用意して、紅茶を注ぎ分ける。片方は自分で持って、片方はアメリアの前に差し出しながら。
「この変わらない日常がずっと続いていくって、とても素晴らしいことだと思うよ。……はい、アメリア。熱いから気をつけてね」
「ありがとうございます」
アメリアは幸せ顔でカップを手にした。ふうふうと息を吹きかけて、そっと口をつける。
彼女の様子を横目で見守りながら、マスターはすまし顔で自分も一口。胸のすくような苦味が舌をつき、その向こうからやってくるかすかに甘やかな香り、これがくせになる。そんな今朝の一杯は、オーベルと同じコルブの熱め。
「にっがぁい!」
アメリアの悲鳴に近い叫びが上がった。カップを台上において、舌を出したまま恨めしげにマスターを見据える。涙目だ。
「うー……マスター、これ、なんですか……」
「オーベルさんがいつも飲んでいるやつさ。君の舌には結構苦いとは思ったけど」
「わかってるくせにぃ、マスターひどいです」
「僕のと同じでいいって言ったから」
にやりと笑うマスターにアメリアは反論しなかった。彼の言ったことは間違いないし、相手は賢い大人、屁理屈のこねくり回し、もとい理論武装では勝てない。
アメリアはぷんと頬を膨らまし、シュガーポットから山盛りの砂糖をカップに入れて、苛立ちをぶつけるように激しく混ぜた。
それから台下にある小型の冷蔵庫――焜炉と同じく、冷気のアビラストーンの力を借りた便利家具だ――から、小型の缶に入ったミルクを持ち出して、カップからあふれる寸前まで注ぎ込む。
なお、飲めないから捨てるという発想は、アメリアの中には無い。食べられる物を捨てるなんてとんでもない! そういう価値観が染みついている。
苦い紅茶と必死に格闘するアメリアを見て、マスターは楽しげに肩を揺らしていた。
別に、いつもこんなひどい事をしてはいない。日常に刺激がほしいなんて言われたものだから、ちょっとした悪戯心が湧いたのだ。割とよくある事ではあるが。
そしてマスターとアメリアの睦まじいやり取りは、ある種の葉揺亭名物である。連日通うオーベルにしてみれば、この程度のおふざけはすっかり見慣れたもの。やれやれとばかりに苦笑いして、マスターに語りかけた。
「あんた、そうやってアメリアちゃん構っていれば、そりゃ退屈はしないだろうなあ」
「その通り。オーベルさんみたいに、こんな朝早くからわざわざ来てくれる人も居るわけだしね。これで退屈だなんて、そんな贅沢な話はないよ」
マスターは屈託の無い笑みをこぼした。
いつもと変わらない朝、ゆっくり茶を味わえる平穏な日々、ちょっとした茶話に興じられる相手がいる風景。こんな、なんでもない日常を過ごすことが、どんな刺激的な物語を読むより楽しく愛おしく幸せなのだ。
葉揺亭の穏やかな日常は、亭主のそんな想いを乗せて流れていく――。
葉揺亭 本日のメニュー
「コルブ」
強い苦みが特徴の紅茶の銘柄。ノスカリア周辺地域で少量流通する、通好みの味わいの茶。
普通は沸騰させたお湯を使うと渋くなり過ぎるため、少しだけ冷ました湯で抽出するのがベストである。




