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永遠の夢郷、去りゆくあなたへ(2)

 ごみを裏に置いて来ただけと言うには少し長すぎる、そんな時間をおいてマスターは戻って来た。ちょうど茶が仕上がる頃合いでもあった。彼は何とも言わずに、まずはティーポットの相手をしに向かった。


 注ぎ口にを塞いでいた栓を抜き、淡緑色のカップにでき上がったものを注ぐ。鮮烈な赤の液体は、爆発した火山のように白い蒸気を吹き昇らせていた。それがヴィクターの目の前にやって来る。


「はい、でき上がりだ。前より優しい味に改良してあるから、まあ、じっくり味わってくれ」


 にたりと笑いながらの言葉に、ヴィクターは耳を疑った。紅茶よりもずっと紅い液体、もう何度口にしたかわからないこれは、「永久の魔術師」特製の魔法薬だ。燃え盛る炭を溶いて口に含んだ、そんな下手物の味がする。もちろん最初はまずいと吹き出して文句をつけたが、それは一度たりとも聞き入れられなかった。


 ささやかな不審を抱きながら、ヴィクターはカップを口に付けた。優しくしたとはあくまでもマスターの基準である、地の底以下だったものがようやく地底まで這い上がって来た程度かもしれない。


 一方、マスターはマスターで物憂げな顔をしていた。椅子に座り、両腕を台につき、ぼんやり宙を見つめて。不機嫌を通り越して完全に病んでいる、そう思わせるに十分な姿を晒け出していた。


 そして、彼は不意に呟いた。誰にともなく、宙へ。


「アメリアが居ない世界なんて、いらない」


 ヴィクターは口に含んでいたものを吹き出しそうになった。が、すんでのところで耐え、無理やりに飲み下した。熱いものを飲んだはずなのに、背中が冷たくて仕方がない。


「やめてくれよ。あんたが言うと、洒落にならん」


 真顔でまくしたてたが、対面の男は心穏やかな笑みを返してくるのみ。寒気は一層深まって、ヴィクターは縋るように茶を口にした。味の改良については確かだったらしい、以前のようなひどい味がしない。これなら嗜好の茶と呼んでも差し支えない。


 さて、マスターは。店主らしい朗らかさを振りまきながら、粛々と語った。


「洒落じゃないもの。僕はね、アメリアのためなら何でもできる。あの子の望みならなんだって叶える。いつだって、アメリアの幸せが一番だ。あの子が笑顔を見せてくれるなら、僕はそれだけでいい。あの子が僕を僕として慕ってくれる、ただそれだけで、僕は一人の人として幸せに生きていられる。だから、本気だ。あの子の居る世界はこの私が守る、どんな手を使ってでも」


 ヴィクターは眉間に皺を寄せ瞑目していた。願望を礎にした大言壮語、ただ強い言葉を使った比喩だと切り捨てられればなんて事がないのだが、そうできないのがこの主である。


 ひどく嫌な感じがする、色々な意味で。その中でも一番強く思うのは――ヴィクターは舌の上に赤く熱い茶を転がし、ぼやいた。


「……甘いなあ」

「だって、アメリアだけだ。こんな私を純粋な心で慕って、だから私は――」

「違う、こっちだ」

「あ、ああ」

「あんたの惚気話はもう聞き飽きた。アメリアちゃんがかわいいのも十分知ってる。だから、もういい」


 口の中に残る妙な甘さを吐き捨てるように、ヴィクターは言った。息と共に一旦カップを据え置く。

そう。改良された薬はとても甘かった、以前の味の影は微塵も無く、優しく穏やかにひたすら甘いのみだった。それでいて効果に変わりが無いことは、己の第六感が証明する。


 良い話ではないか? いいや、違う。ヴィクターは感づいていた。この甘さは自然のものではない、と。


「嫌な感じがする。今まで以上に、やばいもん飲まされているような」


 咎めるようにマスターを見つめれば、彼は観念したように肩をすくめて、あっさりと仕掛けを白状した。


「単純に言えば、舌の神経が麻痺しているんだ。その上で感覚をそのものに『甘い』と錯覚させている。まあ、幻術みたいなものかな。本質は前から何一つ変わっていない、焼け胡桃の炭火の味がする代物だよ」


 ヴィクターは脱力した。軽く言ってはくれたが、いかがわしい代物だ。信頼できる人が作った物であるから落ち着いていられるが、そうでなかったら即座に敵対行為を取っていた自信がある。もし最初からわかっていたら絶対に手を出さなかった、こんな甘く穏やかな毒になんて。


 そも、そんなに甘い話があるわけないのである。長年の付き合いだ、そう簡単に味が良くできるのなら、もっと早くにそうしていただろう。


「結局、あんたでも嘘でごまかすしかできなかったってわけね」

「君は真実を知っているからそう思うのさ。何も知らなかったら、ただの甘い飲み物であるとの姿が事実になる。一しかなければ、それで全だ。そうだろう?」

「違いない。しかしまあ、何と言うか、よくもこう悪い事を思いつくもんだ」

「悪、かなあ」


 マスターは頬杖をついた上に顎を乗せ、屈託のない笑みを浮かべた。


「現実世界が直視しがたい苦難のものならば、せめて夢の世界ぐらい幸せなものであっていい。そうは思わないかい?」


 葉揺亭で哲学じみた問いかけがなされるのはままあること。しかし今回ばかりは、ただの自己弁護に聞こえる。ヴィクターはしかめ面で閉口した。


 しかし不敵に笑んだ黒い目が、じっと返答を待っている。独りよがりを避けるため、許しを待っている。答えを聞くまで退かないだろう。


 ヴィクターは精一杯知恵をひねって、「はい」にも「いいえ」にも当てはまらない答えを編み出した。


「あんたの夢の世界は居心地いいぜ。ぐっすり眠りこけていても、なんの心配しなくていいからな。たまにこうやって帰って来るには、ちょうどいい」


 目と目を合わせて返された言葉を、マスターは素直に受け取ったのか。はたまた、都合よく自己解釈したのか、どちらかは不明だが、とにかく彼は笑った。憑き物が落ちたかのような、晴れやかな笑みだった。



 一心地ついた所で、マスターは自分用の紅茶を作った。白いポットにシネンスの茶葉を一掬い、シンプルなものはあっという間に支度が終わった。椅子を引いて深く腰掛けて、細い足を組み、伏し目がちにカップを傾ける。瀟洒で悠然とした様は、「マスター」としての理想像。いつもこうならば文句一つ無いのだが、と対面の男に思わせるものだった。


 そうして、マスターは思い出したようにヴィクターへ語り掛けた。


「今度はどこへ行くんだい?」

「南へ」

「セルリア、オムレード、フェルルナク、メニス、あるいは」

「アスクバーナ。道の最果てだ」

「遠い。そして、そこは、今なお戦と死に覆われた地だ」

「知ってるさ。あくどい連中が山ほどいる」


 だから自分のような者に儲け話が回って来るんじゃあないか。ヴィクターは皆まで言わなかったが、マスターには十分伝わった。穏やかだった彼の顔に陰りが差したから。


 マスターは不意に立ち上がり、店の奥へと姿を消した。立て続けにドアが開閉する音が奥から聞こえた。そして、今度はすぐに戻って来た。その手には水晶らしき物を持っている。


「ヴィクター」


 マスターは立ったままその名を呼ぶと、手にした物を投げて渡した。精度は完璧だ。カウンターの上で大きくアーチを描いて、ヴィクターが慌てて両手を構えた中へとすっぽり収まった。


「いつかの約束の報酬代わりだ。だが、床を焼いた罰として、売って金にする事を禁止する」


 厳とした物言いを聞きながら、ヴィクターは受け止めたそれをじっくり眺めた。


 内部にかすりが散った水晶を、上が細く下が広い十字型に磨き上げた物だ。大きさは、握り拳にぴったり収まる程。軽く傾けると光の反射で表面に虹がかかったように見えて、純粋に美しい民芸品とも思わせる。


 ヴィクターはアミュレットの類だろうと判断した。これと同じような形の物を、ルクノラム教の信徒がしばしば身に着けている。神の加護により、災いを払うと信じて。もちろん、目の前に居る者が教会への帰依を説くとは思わないが。


 なおかつ巷に出回っている、ただの綺麗な石を磨いたアミュレットとは見た目からして重みが違う。それこそさっきの怪しい薬のように、これはまやかしの見た目で、本当はもっと巨大で密度のある物体が手に乗っているような圧を感じる。だからきっと実際になんらかの呪いが込められているアミュレットだ、とヴィクターは察していた。


「……帰って来いよ。また、夢を見に」


 深い息の後、マスターが真に迫った声で言った。星明りの夜のごとき黒い目が静かに相手を見据えていた。


 ヴィクターは苦笑をしながら、与えられた守りを外套の裏地にあるポケットへとしまい込んだ。生きて帰って来たいと願うのは、自分もまた同じである。――いつか古くの遠い日、死にたくないと強く願ったから、今まだあんたの前に生きて居るんだ。


 葉揺亭。甘く優しさ満ちる夢郷。ああ確かに、一時を過ごすにはこの上ない快適な場所である。確かな幸福感を得られるだろう。


 ただ、欲を言うなら。


「どうせ見るなら、ふてくされた野郎と二人きりの夢より、かわいい天使が手を振ってくれる夢のほうがいいもんだ、ってね」

「煽っているつもりか知らないが、完全に同感だよ」


 くっくと笑うマスターには、いつもの余裕が満ちていた。なんの病み気もない幸せに満ちた笑顔である。


 とりあえずは、これでいい。ヴィクターは苦笑を返しながら内に思った。去る前に最低限の手当はできたと思いたい、次に自分が戻って来るまでに、危うい柱が支える夢郷が壊れてしまわないように。

もちろん、いつかは現実を見なければいけないとはわかっている。しかし今はまだ、夢心地に浸っていた方が世界は平和だろう。


 後できる事があるとすれば、もう一つの柱に対する手当だ。


 ――本当は、アメリアちゃんに負担がかからないようにするのが一番なんだが。さて、どうしたものかねえ。


 ヴィクターは一縷の罪悪感を抱きながら考えていた。彼女にとっての平和な日常を守るためには、会うべきか会わないべきか。口出しをするべきか否か。変に甘ったるい薬を飲み、マスターの話を適当に聞き流しながら、ここにいない彼女の事をずっと考えていた。


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