永遠の夢郷、去りゆくあなたへ(1)
陽は高くうららかで、非常に気だるい昼下がりだった。そんな陽気に似合わない、重たい黒のロングコートを着込んだ男が、葉揺亭の窓をこっそりと覗いていた。彼の名はヴィクター=ヘイルと言う。その筋ではそこそこ名の知れた賞金稼ぎ、あるいは殺し屋だ。
「んー、今日も、かあ。しまったなあ、こりゃ……参ったね……」
店内の状況を知って、ヴィクターは元よりぼさぼさの茶色い頭をかき乱した。
窓硝子越しに見えた風景には、店主が一人でうなだれているだけだった。それだけならまだしも、悪魔も回れ右で逃げ出しそうな鬱屈としたオーラを噴出させて座っているのである。
ヴィクターも蔦の葉扉の前を右往左往して、ため息ばかりが口をつく。実は、連日こうなのだ。そして結局顔を出さずに引き返す日が続いていた。先日に小火騒ぎを起こしてから、ほとぼりが冷めるのを待った上で、なおかつ機嫌のいい時を狙って会おうとしているのだが、どうも上手く運ばない。
マスターの不機嫌の原因など一目で明らか、アメリアが不在なのだ。毎日、毎日、毎日だ。日を追うごとに暗さは増している。さらにアメリアが自分の居ない葉揺亭の様子を知るはずないから、これからも状況は悪くなる一方だろう。
ただし、一度客が扉をくぐったら、マスターは一瞬で普段のにこやかな顔に切りかえる。だから彼がこんな風でも、一人で営業をする事に支障はない。一見の客は何も知らずに穏やかな一時を過ごして帰って行き、多少察しの良い常連なら「またアメリアちゃんが居ないからって拗ねちゃって」などと店主をからかって、それで店主はちょっと不満げな顔をして、しかし、それでおしまいだ。入店を尻込みさせる事は無い。葉揺亭の主としていかなる時も客を大切にする、それが彼の矜持なのだ。
早い話、亭主のへそが曲がっている時に厄介な目に遭うのは「マスター」の顔を作ってもらえない類の立場、すなわち客と店主の間柄では終わらないヴィクターのような者だけなのである。気心知れた仲とは、時には面倒なものだ。
ヴィクターは腕を組んで玄関に背を向けて立ち、入るか入らないか悩み悩んでいた。足で無意味なリズムを刻んだり、意味なく手の古傷を眺めてみたり、誰か助け船が来ないかと十字路の方を時々振り返ってはがっかりして。そうして無駄に時間を経過させた後、最終的に中へ入らず退散するのが昨日までのヴィクターだった。
今日は違う、同じようにできない事情がある。ヴィクターは今晩、ノスカリアを離れる。出立前に葉揺亭にて主に会うのは、単なる習慣を越えて一種の儀式めいたものとなっている。やるやらないではまるで調子が違う。殺しの道に生きる男は、ほんのわずかな歯車の歪みが死に直結する事をよく知っていた。
「ったく、しょうがねぇなぁ……!」
覚悟を決めるようにヴィクターは両頬を軽く叩いた。さて、蔦の葉扉の向こうに現れるのは不機嫌な店主か、それとも陰気を背負った――魔術師か。顔を見せた瞬間にいつかのことで雷を飛ばしてくるかもしれない、比喩ではなく実際に。ヴィクターは身の安全に十分警戒し、いつでも逃げ出せるよう身構えつつ、「葉揺亭 営業中」と書かれたプレートがぶら下がった扉を引いた。
外と内とが繋がれて、新鮮な空気と日光が閉ざされた世界へ入り込む。それと同時にマスターがさっと顔を上げた。にこやかで棘のない柔らかい面持ちを作り上げていた。
しかし。逆光の中に立つ黒い影が本当に真っ黒の装束を着ている者であると気づいた瞬間に、マスターの頭から一度去った暗雲が半分ほど戻って来た。
「ああ、君か」
「俺だ。悪かったなあ、鼻の下を伸ばせるような美人のお姉ちゃんじゃなくてよ」
皮肉を利かせても、マスターには鼻でする息一つで返された。これはまともに会話ができるかも怪しい、たまったものじゃない。そんな風に思いながら、ヴィクターは大股でカウンターへ歩み寄った。通りがかりにちらと見た床は当然ながら綺麗に修正されており、雪の季節に誰かがストーブを蹴倒して燃やしたなんて事件は無かったかのよう。
マスターはヴィクターの接近を待たない内に立ち、食器棚に向かっていた。まずは最上段にある彼専用のカップを下ろし――過程で棚の上に飾られているアメリアの人形を長らく眺めていた――、それから続けて下段にある白いティーポットへ手を運ぶ。食器を選ぶ動作には迷いがなかった。
ヴィクターは椅子に座りざまにマスターの背中へ声をかけた。
「今日で発つから」
「……そう。了解」
マスターは手にしたばかりの白いポットを元の場所へ戻し、棚の情報にある特殊加工された黒いポットへ持ち替えた。
この黒く重量のあるポットは、魔力を通さず内側へ凝縮するための細工が施されている。そこへ次々と怪しげな材料を入れていく手つきは、まったくもって魔法使いの所業に相違ない。
そんな事を思いながらヴィクターはカウンターに頬杖をついて、茶、いや特製の薬を準備するマスターをぼんやりと眺めていた。
――「永久の魔術師」、ねぇ。
誰ぞからそんな肩書きを与えられたと、ヴィクターは先日マスターと二人きりになった時に本人から打ち明けられていた。ほとんどは愚痴だった、大事故に遭ったようなものだと不幸を嘆いていた。しかし、実際はその呼称を割と気に入っている、とヴィクターは睨んでいた。そしてヴィクター自身、この上ない好適な名ではないかと感じた。
マスターが茶の素材を扱う手つきはいつもと変わらない。いや、いつも以上に張り詰めた気を滲ませている。顔つきが険しく、暗黒の眼には一切の緩みが無い。普段なら、作業に没頭していても口元には薄く笑みを浮かべているのに。とても気楽に話しかけられる様子ではない、ともすれば周りの音も聞こえていないのではと思わせられる雰囲気だ。ヴィクターは内心でげんなりとした唸り声を上げた。
機嫌が悪いにしても、あまりにも余裕が無さ過ぎる。それは自分を飾らなくてもいい相手に面しているからか? 本当にそれだけか? ヴィクターは肘をカウンターに置いて口の前で両手を組み、じっとマスターを観察する。それは殺し屋として相手を探り隙を暴くのと同じ視線だ。
直感だ。今の店主は、危うい。何かに追い詰められている。
慎重に探りを入れなければならない。ヴィクターは静かにタイミングを伺った。そしてマスターが一瞥もくれないまま頭を上げた時に、わざと間延びした大声を上げ、困ったような顔で頭をがりがりやって見せた。さらに「なあ、マスターよお」と普段はそんな風に呼びかけない風に呼んで、ようやく彼の注意を引き付けた。冷めた黒目がヴィクターを貫いたが、ひとまず彼は軽薄な風を吹かせたままでいた。
「あー、なんだ……この前の事はすんませんでした」
「何が?」
「床、燃やした」
「ああ。平気さ、あれくらいの破れならすぐに修復できた。今は、そんなに怒ってないよ」
マスターはむっとした面持ちのまま、そっけなく答えた。眉間に皺が寄っているのは、もしかしたら本人も気づいていないのか。ヴィクターはげんなりとした音の呼吸を聞かせた。「今は」「そんなに」と言うのなら。
「だったら、その不貞腐れた顔やめてくれよ。俺が何をした? 今日は何もしていないだろ」
「だって、アメリアが居ないから……」
マスターは眉を下げ口を尖らせて言った。その直後、しまったと言う風に目を見開き、不自然な流れでヴィクターに背中を向けた。
――悪さしたのがばれたガキかよ。
ヴィクターは思った。肘をついて頭を抱え、不満げな息を吐きだした。
これが普通の人間ならば、大人気ない愚か者だと唾棄して放っておくだけだ。しかしヴィクターは知っている、目の前にいる者が独善的であるに足る力を隠している事を。今はまだ辛うじて店主としての表面を取り繕っているが、限界を迎えて爆発したら周りにどんな影響が出るか、未知数だ。
さりとてヴィクターも葉揺亭の周囲に愛着がある。だから彼は慎重になっていた。慎重に、ガス抜きをしなければ、と。
マスターは焜炉からケトルを取って、ティーポットへ湯を注いでいる。その必要以上に下を向いた顔へ、ヴィクターは訊ねた。
「アメリアちゃんは、あー、どこへ?」
「……教会だよ」
「教会ぃ? なんでまた」
「特別な説法があるとかなんとか。ひどい話だ、あんな連中より僕の方が、ずっと面白くて彼女のためになる話をできるのに」
マスターはケトルを戻し、続けて広げた材料を元あった場所へと片付け始める。ながらに延々と話し始めた。あたかも感情の堰が切られたような言葉の奔流だ。
「違うんだ、今日に限った事じゃない。ずっと、ずっとそうなんだ。最近は。いつもいつも彼女は居ない。何かと理由をつけて、僕を置いてどこかへ行ってしまう。帰って来ても、前のように外であった事を僕に話してくれない。僕の知らない所で、僕の知らない何かがアメリアに起こっている。僕は、僕は不安なんだ……辛くて、苦しくて、怖くて……ああ、嫌なものだ。昔は孤独なんて平気だったのに。自ら望んでそうして来たというのに。今は、駄目なんだ。アメリアが居ないと僕は生きられない。どうにかなってしまう。僕を独りにしないで欲しい、ただそれだけだ。それなのに、どうして……アメリア……」
切れ目のない一方的な言葉を辟易として聞きながら、馬鹿馬鹿しい、とヴィクターは心中で吐き捨てた。まるで自分が可哀想だとの語り口だ、しかしまったくそうではない。アメリアが居なくて本当に困る状況だというのなら、雇い主の権限で私用外出を控えさせればいいだけの事。店主が毅然とした態度を取り店員にきちんと仕事をさせる、それで何の問題があろうか。しかもこの店主、アメリアの行き先を知っているのだ。つまり、行くのを許可したのは自分だ。単にアメリアにいい人と思われようとして、雇い主としての役割を放棄しているとも言える。
ただ実際、アメリアの行動にも少し疑問はある。彼女にも店員としての自覚があるはずだ。いくら葉揺亭が常に暇な店だと言っても、前触れなく賑わう事はある。アメリアは純粋で、ある意味まじめだ。何も理由がないのに、連日にわたり仕事を放棄してどこかで遊び歩くだろうか。何かあるはずだ、何か考えられる理由は――
「あんたが自分でやらかしたんじゃないか? 何か、無意識に、アメリアちゃんから嫌われるような事を――」
何気なく発した一言が、葉揺亭の時を止めた。唯一動くのは店主の手から滑り落ちた硝子瓶。重力に引かれて床へと向かう。
硝子片が激しく飛び散ると共に、乾いた音が響き渡った。同時に上げられたマスターの顔は、絶望に満ちていた。光の失せた黒い眼が、縋り付くようにヴィクターを見つめる。
ヴィクターは生唾を飲んだ。
「……いや、冗談です。すいませんでした」
その言葉にマスターは明確な不快を顔に示した。しかし、何も言わない。黙ってしゃがみこみ、割れた瓶と飛散した矢じり状の種子とを拾い集める。そうしながら何を考え、どんな表情をしているのか、客席からはまったく見えなかった。
――クソ面倒な人だ!
ヴィクターは声無くしてぼやいた。重い頭を支えるように頬杖をついて、宙を見上げると、視線の先は食器棚の頂上に当たった。そこには店主と店員を模した人形が肩を寄せ合って並んでいる。どんな腕利きの職人が作ったのか、服装に至るまで二人の特徴をよく捉えてあって、魔法で作り出したミニチュアの分身と言っても過言ではない。
人形はいい。いくら時が流れようと不変な物だから。一度仲良しの糸で繋いでしまえば勝手に離れる事は無いし、離す必要も無い。――しかし、人間は違うだろう。ヴィクターは睨むように目を細めた。
すると、ちょうどそこへマスターが立ち上がって来た。はからずともヴィクターのうろん気な瞳を射抜くかたちになった。得も言われぬ空気が流れる中で、ヴィクターは低調に問いかけた。
「なあ。あんたさあ、そんな風でどうするんだ?」
「今度は何が」
「アメリアちゃんだ。あの子は、あんたと違って極まともな人間だ。どうしたって、いつまでも一緒になんて居られやしない。どうしたってな。そんな事、あんただってわかるだろう。あんたが一番わかっていなきゃいけない」
「そう、だね」
マスターはうっすらと自嘲した。手に持った硝子のかけらを集めた黒布の袋が揺れ、儚いさざめきを奏でた。
「だけどそれは、その時になったら考える。でも、まだ今はその時じゃない。その時まではまだ時間がある。アメリアがそう簡単に僕から離れて行くはずないんだ。誰がかどわかそうと、あの子の居場所はここなのだ。ここにしかないんだ」
懇々と語ったそれは、明らかにヴィクターではなく自分へと向けたものだった。なぜなら、言葉の半ばほどにはマスターはもう客席に背を向け、奥の生活空間へのドアに消えていく所だったから。
ぱたん、と静かな音を立てて閉まった扉を、ヴィクターは髪をかきながら渋い顔で見つめていた。逃げていても過去や現実は変わりやしない、隠している業が消えてなくなったりもしない、そんな風に哀れみながら。
「ガキだった俺にそれを教えてくれたのは、あんただった気がするがねぇ」
吹き溜まる澱を吐き出すように、のびやかに独りごちた。




