愛のかたち
葉揺亭の常連客にジェニー=ウィーザダムという女性が居る。大商会の会長秘書として勤める彼女は、常に礼儀正しく仕事熱心、広範な知識を蓄え頭の回転も速い賢女だ。磨かれた銀縁眼鏡の向こうで世間の動向に目を光らせながら、背筋を伸ばし速足で歩く様は男も顔負けの凛々しさである。
ところが、この日葉揺亭にやって来たジェニーはまったく様子が違った。こんにちは、と挨拶をして入って来たまでは普段通りであったが、床を踏む足取りがどうも浮ついている。いつものシャープな足音が無いままテーブル席につくと、今度は持っていた書類鞄を取り落として床に中身をばらまいた。当然拾い集めにしゃがみ込むも上の空という風で、むしろ駆けつけたアメリアの方が慌てているまである。
「どうしたんだ、ジェニー。らしくない。何があった?」
マスターはカウンターから半分身を乗り出しつつ、呆れと懸念が混じった声音で訊ねた。別に何もないわよ、とは言わせないしかめ面でもあった。
ジェニーは集めた書類を抱いて立ち上がった。吐息に苦笑いが混じる。いつになく照れくさそうに肩をすくめ、マスターとアメリアを交互に見た。本当は後できちんと報告するつもりだったんだけれど、と前置きをしてからはっきりと宣言する。
「私、結婚が決まったの」
一瞬、波が引いたように静まり返った。しかしすぐにアメリアの歓声が怒涛のごとく押し寄せた。
「わあっ! おめでとうございます!」
「ありがとう」
「結婚ですって! ああ、私も何かお祝いしないと! 何か、何がいいですか!?」
「気にしなくていいわよ。そんなに喜んでくれただけで嬉しいわ」
飛びついて来たアメリアを、ジェニーが軽くハグした。その間にもアメリアは祝福の声を送っていた。
さて、もう片割れの男はどうしたか。完全に意表を突かれたように、口を半開きにしたまま硬直している。ある意味とても失礼だ。ジェニーは口をとがらせた。
「何よマスター、そんなに変かしら?」
「いや……驚いたんだ。てっきり君は仕事か、会長殿と一生添い遂げるつもりなのだと思っていたから」
「会長は亡くなった奥様の事を今でも愛しているんです。そういうのはやめてちょうだい」
「ああ、そんなつもりじゃなかったんだけど……ごめん、言葉が足りなかった」
眉目を下げながら手を合わせるマスターから、ジェニーはつんと顔を背けた。マスターは恋愛ではなく忠誠心の意味合いで添い遂げると発言したのだったが、ジェニーの厳しい反応を見て、言い訳はやめた。どうやら敏感な部分だ、ともすれば悪口にも近い噂として囁かれた事があったのかもしれない。
仕切り直しにマスターは咳払いを一つ。
「ジェニー、今日の注文は任せてくれないかい? 僕からの祝福だ」
店主の提案にジェニーは気分を直し、快諾を見せてくれた。
その人に合った紅茶を、というアレンジは、言うのは簡単だが実はなかなか難しい。まず題材として抽象的である。個人の性格、行動、外見など何を重きに置くかで方向性が変わって来るし、そもそも味の嗜好に合致させられなければ本末転倒だ。更には日ごとの気分や体調で好みは微妙に変わってしまう。だから会話を交えて情報を聞き出しながら調整していくのが定石だ。
だが、今日のマスターはあえて会話に頼らない事にした。ジェニーとの付き合いの集大成のつもりで挑む。なぜならば、悲しいかな、これが彼女と会う最後になる、そんな予想ができてしまったから。
マスターは材料を吟味するため足下の小さな冷蔵庫を開けた。流れ出した冷気の向こうに見えるのは、イチゴ、イチゴ、イチゴ、イチゴ――こうなるのは時節柄と、何よりアメリアの好物であるから仕方ない。
しかし一口にイチゴと言っても千差万別である。無造作に突っ込まれたイチゴの山のなかからマスターが選んだのは、暗い紫色がかった小さめの粒である。これは黒イチゴと呼ばれる種類で、毒々しい色合いの見た目と裏腹に甘みが強い。今回アメリアが市で買って来た中では一番味が良い種だ。残念ながら買い物をした当人はそれを知らず、「変な色!」と遊び半分で買ってみたものだから、たった二粒しか無い。
その黒イチゴと、イチゴの裏に追いやられていた早生のスグリの房を取り出し、マスターは冷蔵庫を閉めた。それから乾燥品のブドウも瓶から取り出す。なぜブドウか? それは古くより交易商材の定番品だから。正確には、ブドウから製造する酒が、だが。
さて、これを普通にティーポットへ放り込んでも良いのだが、今回はしっかりと味を出したい。だから茶葉と一緒に鍋で煮出して作る方法を選んだ。ただ、イチゴもスグリも煮溶けやすいのが難点だ。ぐずぐずになって台無しにならないよう、マスターはとろ火にかけた片手鍋をじっと見守る。混ぜる等の手出しは必要ない、茶葉に余計な刺激を加えるのは不要な渋みを増すだけである。
鍋と睨み合いをしていると、テーブル席からジェニーとアメリアの話声が聞こえて来た。アメリアが得意の質問攻めをしている。結婚する相手はどんな人なのか、いつどこで知り合ったのか、ジェニーの対面に座って根掘り葉掘り聞いている。
マスターは耳だけをそちらに向け、話を聞く。まず、ジェニーの結婚相手は大陸東方地域の名家の一人息子である事がわかった。ブルドゥール家、かの家は古くより葡萄酒の製造と交易で名を挙げて来た一族である。マスターは鍋に浮かぶブドウの実を見ながら、大正解だと会心の笑みを浮かべた。それと、もう一つの予想もどうやら正解になってしまいそうだと胸中で悲しんだ。
他にも、出会いは商談の場だったとか、葡萄畑の真ん中で婚約しただとか、馴れ初めが赤裸々に語られている。しかしそれはもはやマスターの興味の範疇ではなかった。音として頭の片隅には残しつつ、完成を目前にした茶の味を見る。柄の長いスプーンを使ってそっと一匙。味見して、マスターの笑みはますます深まった。味の濃いフルーツ・ティ、甘いだけでなくスグリ特有の苦みがいいアクセントになっている大人びた味だ。
仕上げにもう一つ。鍋の火を保温できる程度に落とし、マスターは普段あまり開けない引き出しを探りに行った。本当はメジャーなハーブを使う予定だったが、ここだけはジェニーとアメリアの話していた事を受けて急遽変更した。記憶を頼りに、引き出しの一番奥にある古びた紙包みを取り出した。
「よし、あった」
柔らかい紙に包んであったのは、縁がとげとげした特徴的な形の木の葉である。乾燥のためやや緑色が落ちているが、形に損傷はない。これはヒイラギの仲間で、無毒な種である。ジェニーの結婚相手が居る大陸東部地域では魔除けの力がある植物と信じられており、祝い事の場に飾られる風習がある。もちろん婚礼の時も。二人の良縁に嫉妬した悪鬼が不幸をふりまくべく近寄って来ないように、と祈りを込めて。
こういう事があるから何でも収集しておくものだ。マスターはしみじみと思いながら、鍋の中で仕上がった紅茶を硝子のポットへ移し、最後にこの葉を二枚浮かべた。
「さあ。おまたせ、ジェニー」
「あら、なんだかすごいのができあがったわね」
「僕としても手応えがある。会心の出来だよ」
「でもマスター、ちょっと見た目が悪くないですか?」
アメリアの指摘も的外れではない。黒イチゴや干しブドウは言わずもがな、スグリも赤黒い色の種である。紅茶の褐色の中に黒々とした物体が転がっている見た目を、素直に綺麗だと言うのは難しい。木の葉の緑色が生葉なら鮮やかだろうが、生憎くすんでいる。
しかし見た目で計りきれないのが食べ物であり、人間だ。いささか歓迎しづらい雰囲気でも、実は素晴らしい絶品である事は珍しくない。
「大事なのは味だ、案外かわいらしい味がするよ。ジェニー、君みたいにね」
「もう、マスターったら。でも、案外ってのはちょっと失礼じゃない?」
「いや、だって君、商会の中じゃあ結構恐れられているそうじゃないか。僕もそれ、わからないでもないし」
「下を締めるのも仕事ですから。それにしても一体誰に聞いたの? ここに来そうなのが思い当らないんだけど」
「それは伏せさせてくれ。締められると聞いた以上、大事なお客様を売るわけにはいかない」
マスターは冗談めかして肩をすくめた。それからジェニーに再度茶を勧めた。こう喋ってばかりでは、せっかくの紅茶が冷めてしまう。もっとも急かされるまでもなく、ジェニーはポットを手に取ろうとしていたが。
「この葉は、ああ、魔除けのつもりね。マスターらしい演出だわ」
「それを講釈しなくても理解してくれる辺りが君らしい。本当に嬉しいよ」
「香りも素敵。イチゴね、いい季節だわ」
「それと早生のスグリに、干しブドウも入っている。かなり調和の取れた味わいだと思うが、どうかな」
「ええ、おいしい。見た目から意外なくらい甘口ね。……アメリアちゃんが好きそう。飲んでみる?」
「わあっ、いいんですか」
「幸せは分かち合うものよ」
ティーポット一つでおよそカップ二杯分ある。アメリアはマスターも頷いたのを見た後、駆け足で食器棚からティーカップを取って戻って来た。そこへジェニーに注いでもらう。息を吹きかけてから、そっと一口すする。舌に祝賀の茶が流れた瞬間、アメリアは眉目を上げた。
「わっ、おいしい! でも、ほんのちょっとだけ苦いですね……」
「それがいいのよ。食べ物も、恋もね。表したかったのはそういう事かしら? ねえ、マスター」
「君がそう受け取ったなら、そういう事さ」
濁したように言うものの、マスターは得意気に笑んでいた。それを見たジェニーはテーブルの上で手を重ね、くすくすと笑った。
片付けのためにマスターはカウンターへ戻って来た。アメリアはなおジェニーの向かいに陣取ったままだ。ジェニーもそうだが、今日はもうまともに仕事をするつもりがないらしい。ティーセットだけをテーブルの上にし、二人ですっかり話し込んでいる。
ふとアメリアが桃色の吐息を吐き出した。
「いいなあ、結婚ですって。いいなあ」
それは恋に恋するようなもの、別に意中の相手がいる訳ではない。ただ純粋な憧れゆえの発言だ。聞いてしまったマスターも――願望混じりに――そうだと判断した。
しかしジェニーはそうは取らなかったようだ。ませた娘のような顔つきになり、アメリアへ問いかける。
「あら。アメリアちゃんも好きな人が居るのかしら?」
「えっ。えーっと……私は、その、愛とか恋とか……まだ、よくわかんないですし……将来はそのう……やっぱりわかんないです」
アメリアはあたふたと手を振り、青い目を泳がせている。口からは力の抜けた失笑が飛び出した。
マスターは手を止め、彼女の様をじっと見ていた。すると宙を彷徨っていたアメリアの視線が意図せずかち合った。瞬間、ずっと間抜けたようだったアメリアの顔が強張った。凍り付いたまま瞬きを繰り返し、あれは必死に小さな頭を働かせている顔だ。先日の恋文騒動の事でも思い出したのだろうか。
マスターが何か言う前に、アメリアが急に冗談めいた顔つきになった。無理矢理話を転ばせに来たのは明らかで、マスターは思わず苦笑いした。そこへアメリアの過剰に明るい声が飛んで来た。
「ねえマスター、愛って、何ですか?」
刹那、マスターの時間が止まった。
愛とは何か、愛ってなんだ、愛しているのか、愛されているのか。マスターの頭の中には、その言葉が山彦のように反響した。幾重に響く音は、しかしアメリアが奏でるものとは違う調子をはらんでいる。
重なる、外からの声と、内からの記憶が。アメリアの無邪気な青い目の向こうに、遠きに見た真摯な眼差しが幻影として現れ、重なっていく。
やめろ。
マスターは己の内から押し寄せて来るそれを、意識の外へ追い出そうとした。だがそれはなお、心臓をちくちくと苛めて来る。
それとは何だ。後悔だ。過ちだ。罪悪感だ。その問いに対する正しい答えを持っていなかったがゆえに、手からすり抜け消えていったすべてだ。突き放して来たすべてだ。
永遠に解けない呪いだ。
積み重ねた後悔がこちらを見つめて咎める。お前は何も変わっていない。――違う。
渇望し、求め、触れた所で、どうせまた自ら手を放すだけだ。――違う。
本当は気付いている。彼女は今すぐにでもお前を――違う!
――違う。それは「僕」じゃない。僕は違う、僕はもう答えを間違えずにいられる。
「……マスター?」
アメリアの怪訝な声が過去からの幻影をかき消す。そう、ここに居るのは彼女だけだ、彼女だけを見ていればいい。同時に、いつの間にか消えていたマスターの微笑みも取り戻す。幾ばくかの自嘲も含めて。
愛とは何か? 何をすればいい? ――簡単な事だ、わかっている、今度は間違えない。マスターはさっと立ち上がった。
「アメリア、おいで」
アメリアを手招きしつつ、自らもカウンターの外へ歩み出る。首を傾げながらも素直にやって来たアメリアと出会ったのは、ちょうど客席側へ出たところ。お互い向き合って足を止める。
「あのう――わっ!」
不思議そうに見上げていたアメリアの体を、マスターは一息にかき抱いた。強く、強く、強く。彼女の背中に回した腕と、頭を抱え込む腕とで、しかと存在を包み込む。
本当に小さな体だ、少しでも強い風が吹けば飛ばされてしまいそうに。本当に細い体だ、少し強い雨に晒されればたやすく折れてしまいそうに。しかし驚く程に温かい、寒く暗い夜に見つけた灯火のように。心の底から愛おしい、この存在が。
愛とは何か? それは言葉で表すものではない。愛しい君の悲しみも苦しみもすべて受け止めて、あらゆる脅威からその身を守り、そして世界の闇に飲まれてしまわぬよう二度その手を放さない、そんな巨大な想いを一言で語る言葉など、この世界のどこにも無いのだ。あらゆる言葉を尽くさずとも、ただ黙って一つの行動を取るだけ。
――アメリア。君は僕の愛そのものだ。
腕の中でアメリアがもがいている。薄い胸板に押し当てられた口からは、いまにも窒息しそうなくぐもった声がこぼれている。
マスターは少しだけ腕の力を緩めた。するとアメリアはほとんど突き飛ばすようにして、腕の中から脱出した。ほのかに赤みを帯びた顔をしかめて、口をへの字に結び、上目遣いで睨みつける。
「マスター、苦しいです! 死んじゃう!」
「はは、ごめんごめん。気持ちを込め過ぎた」
マスターは悪戯っぽく両手を上げると、上機嫌で手近なカウンターの客席へ腰を降ろし、足を組んだ。一方のアメリアは不機嫌な面持ちのまま、ジェニーの居るテーブル席へ戻って行った。それを見たジェニーはくつくつと笑っている。
行動に注釈を加えるよう、マスターは口を開いた。
「愛とは何か、それは言葉では言い表せないことなのさ。辞書的に与えた定義など、それは一側面だけを切り取っただけに過ぎず、本質とは程遠い」
「同意するわ。人を愛するって、単純な事じゃないのよ」
「むー……」
アメリアは納得いかない表情で机に頬杖をつき、あらぬ方向を見やった。無理もない、とマスターは苦笑した。
「君は若い、今はわからなくって当り前だよ。いつか自然に理解できる時が来るさ」
その言葉はアメリアに届いたかどうか。彼女は窓の外を眺めたまま返事がない。代わりにジェニーの小さな笑い声が響いた。
「ねえマスター。私はあなたが博識で、人生経験も豊かな人だと理解しているわ。でも、ひとつだけ言わせてちょうだい」
「なんだい?」
「過剰すぎる愛情表現は、受け取る方に食あたりを起こす事もあるわよ」
「そうだろうか」
「そうよ」
「なるほど。勉強になる、心の隅に留めておくよ」
そう言ってマスターはジェニーに対して肩をすくめると、立ち上がってカウンター内の定位置へと戻った。
――適量がわからず飢えさせた挙句に壊すより、食あたりで済むならずっとましだと思うが。
反論は背中を向けた心の中でのみ行った。議論を深める気がなかった。そんな事をしてしまえば、追いやった幻影が再び己を捉えにやって来るだろうから。
機嫌を損ねていたアメリアだったが、ジェニーと話す事で気分を上向きにしたらしい。先ほどより多少声量は小さいものの、ご機嫌な話声が葉揺亭に戻って来た。
それを軽く聞き流しながら、マスターは自分用の紅茶を用意していた。そして機をうかがっていた。きっとアメリアは気づいていない、訊ねてもいない、だからジェニーに言質を取りたい事がある。一つの確信に近い予想を確かめるのだ。
そして女子二人の話が途切れた時。マスターは自分のティーカップを手にし、カウンターの中で立ったまま、あたかも今気が付いたようにジェニーに問いかけた。
「ああ、ジェニー、そうだ。君は向こうの家に嫁ぐ事になるんだよね」
「ええ、そうよ」
「と言うことは、ずいぶん遠くに行ってしまうんだな。寂しくなる、もう会えないなんて」
ここでアメリアが度肝を抜かれて目と口を丸くし、ジェニーを見つめた。開いた口が塞がらない、なおかつ言葉も出てこない。マスターが思った通り、まったく察していなかったようだ。結婚相手は遠く大陸の東の名家の一人息子、そうわかった段階で想像はつくのだが。
しかし、マスターの予想をまったく裏切って、ジェニーも意表を突かれたように当惑していた。
「待って、私、ノスカリアから居なくなるなんて一度も言っていないわ」
「え? でも相手は東方名家のブルドゥールの一人息子なんだろう? 当然、家を継ぐわけだから――」
「ああ! そう、当然そう思うわよね。説明しないと」
今度はマスターが眉を顰める番だった。困惑のまま手を滑らさないようとりあえず紅茶を下に置き、腕を組んだ。
ジェニーは意味深に笑い、テーブルに手を重ねて話す。
「会長がね、私が近くに居なくなるのは困るから旦那の方をノスカリアへ連れて来るって言い張って。それで向こうの商社や農園、醸造所、その他全部丸ごとラスバーナ商会が買い取って傘下に収めたの」
「は!?」
「もちろんブルドゥールの名前は残る形で、ね。そして彼自身はノスカリアへ住居を移す。屋敷の建築にかかる費用も、会長が出資してくれたわ」
「待ってくれ、僕は商売には詳しくないが、それがとんでもない話だってのはわかるぞ。とても道理が通らない」
「甘いわね。やる事なす事すべて豪快で、破天荒で、型破り。それが私の敬愛するラスバーナの会長よ? 道理として通ったから、こうやって報告できたのよ」
ジェニーは事もなげに笑っていた。今もなお彼女に刺さる葉揺亭の二人の視線は信じられないとの気持ちに溢れているが、ジェニー本人は意に介していなかった。
確かに結果だけを会長目線で見るならば、有能な部下を失わず、なおかつ彼女に幸せを与えられる最高の手である。だが、思いついたからと言っておいそれとできることでは無い。伝統ある名家が持つあらゆる権利や財のすべてを傘下に加えるため、商会の長が果たしてどれほどの金と力を費やしたのか。全容はとても想像できないが、ただ、商会の命運すら変わってしまいかねない途轍もない事であるとは容易に察せられる。
そこまでしてラスバーナの主は、ジェニーのために尽くしたかったのだ。よく働く大事な秘書への信愛のかたちとして。参った、とマスターは内心で腰を抜かした。
「……ラスバーナの会長さんって、すごいんですね」
「ええ、とっても。でも、そこまでされたら、私も今まで以上に応えないといけないから。大変なのはこれからね」
まるで困ったようにアメリアに言うものの、ジェニーの笑顔はまったく困っていなかった。幸福に満ちていて、見ている方の口元を緩ませるような、そういう笑顔だった。
「だからマスター、忙しくなって頻度が落ちるかもしれないけど、これからも変わらずよろしくね」
「ああ、こちらこそ。それこそ……過剰な愛で食あたりを起こして休みたい時でも、ぜひ来てくれよ」
葉揺亭 本日のスペシャルメニュー
「イチゴとスグリの祝福の茶」
大人な女性の恋愛の成就をイメージした、スグリのほろ苦さがアクセントの甘いフルーツティ。
液面に浮かべた葉は、古くより伝えられる魔よけのおまじない。
彼女の進む未来の幸福を願う、マスターの思いが詰まった品だ。




