清香散歩(2)
改めて棚を見渡す。明るい光の中に並ぶ色彩豊かな香水瓶は幻想的な世界を醸し出す。窓越しで見た時とも大違い、透けた光が壁に虹色の色彩を描いて世界観が広がって見えるし、なによりそれが手を伸ばせば届く距離にあるのだ。アメリアは花に惹かれる蝶のごとく、魅惑的な棚の真ん前へと進んだ。
しかし近づいて初めて気づいた。香水瓶の中は空だ。あれ、とアメリア小首を傾げていると、フララが理由を説明してくれた。彼女の話を簡単にまとめると、この店では客からの注文後に調香し、好みの瓶へ入れて渡しているそうだ。
「香りは簡単に飛んでしまうし、時間で変化もします。だから、なるべく新鮮な物をお渡したくこうしています。それに、好きな香りも似合う香りもお一人それぞれ微妙に異なるから、作り置きではなかなか対応できないんですよ」
おお、とアメリアは感嘆の息を漏らした。共感できたのは、葉揺亭でも似たような事をしているからだ。ブレンド・ティの茶葉は注文されてから配合するし、マスターはお客の好みに応じて淹れ方も食器も変える。珈琲だって面倒でも一杯ごとに豆を挽く、その方が風味がいいからだ。
喫茶店と香水屋、まったく別物に見えて根にある心はよく似ているのだ。それを感じて、アメリアは嬉しくなった。
「あっ、だからお茶の道具も少し扱っているんですか。同じ風に香りを楽しむ物だから」
「そうですね。紅茶に興味が?」
「はい! 私、喫茶店で働いているので」
「あら素敵。でしたら茶葉も見本に出していますから、ぜひ見てみてください。当店の紅茶は、香水の原料と同じ香油で匂いがつけてあります」
「ええっ!?」
フララが示したのは、茶用品がある棚の脇にあった丸いサイドテーブルだ。クロスがかけられた上に展示用のティーセットがあって、その周りに紅茶の葉が入った小さなジャム瓶が並べてある。アメリアは瓶を手に取ってしげしげと眺めた。なるほど、ラベルには果物や花の名前が書かれているが、そのものの影は一切見当たらない。
リンゴとラベルがされた瓶の栓を取り、匂いを嗅いでみる。すると、果実そのものを混ぜ込んだ場合よりずっと強い香りが鼻をついた。これが香油の紅茶、アメリアは熱っぽく感嘆の音を漏らした。
そして、ふと思い出した。クロチェア家の茶会に行った時に、見た目は普通の紅茶なのに強い柑橘系の香りを持つ物があった。あの時はそういう種類の樹が世の中に存在すると思ったが、もしかしたら、あれも香油で匂いを付けてあったのだろうか。
――もしかしたら、ここに同じ物があったりして。
お金持ちの秘密を暴くような愉快な想像を頭の片隅でしながら、アメリアは並んでいる瓶を片端から開けて嗅いでいく。その姿を、フララが微笑みながら見ていた。
「気になる物があったら言ってください、試飲で用意します」
「いいんですか!? じゃあ、この甘い花のと、それからオレンジのを!」
「うふふ、かしこまりました」
そう言ってフララは、店の隅にあるカウンターでアビラストーンの卓上小型炉に火を点け、強めの魔法火の上に水を汲んだケトルを置いた。
お茶を淹れるのにお湯を沸かす所から始めると、それなりに時間がかかる。しかしアメリアは待ち時間をまったく苦と思わなかった。なにせ店内には楽しいものが溢れ返っている。一つ一つ見ていたら、むしろ時間が足りないくらいだろう。
いまアメリアが注目しているのは、茶用品の棚の一番上にある茶器だった。金属で出来たそれは底が平らで円筒形、注ぎ口と反対側に持ち手が付いている、明らかにティーポットの仲間だ。それまではいい。
おかしいのは、ポットがなぜか二段重ねになっている事。下の段にあたるポットの蓋代わりに、もう一つポットが乗っている。謎だ。まさかフララが遊びで重ねたなんて事も無いだろう、そもそも初めからそう誂えたとしか考えられないぴったりさだ。
アメリアが上を見上げて疑問符を大量に飛ばしている事に、フララが気づいた。目線を追って合点すると、すかさず説明をしてくれる。
「それは、東の大陸で商会が買い付けて来た品ですよ。あまり見かけないでしょう? 下でお湯を沸かしながら、上でお茶を蒸す。最初は少しのお湯で濃く淹れて、後はお湯を差して好きな濃さで何杯も飲むって仕組み。現地は一日中お茶を飲んでいる文化なの」
フララの許可を得て、アメリアは棚から二段ポットを取り出した。海の向こうからの舶来品。異郷ではこれを使ってどんな人たちが、どんな茶話を楽しんでいるのだろうか。金属の反射面にうっとりとした顔を映しつつ、二段のポットを食い入るように眺めまわした。
それにフララの説明以外にも使い方は考えられる。例えば下の段と上の段で別々の紅茶を淹れてもいいし、下では熱々のお湯を沸騰させつつ上ではミルクティをゆっくりじっくり煮出すとか。想像を重ねると、実際に試してみたくなって仕方がない。
どれだけ見ても値札はついていない。さぞ高価な物だろう、持ち合わせで足りるだろうか。そんな事を考えていた。そう、アメリアはもうこのポットを手から離したくなくなっていた。茶の事になると欲が沸いてしかたない、マスターにそっくりになってしまった。自分で自分を笑った。
それにしても、だ。フララの店を見渡しながらアメリアは嘆いた。
「マスター、絶対こういうお店気に入りそうなのになあ」
「いつでも連れていらっしゃって」
「そうしたいんですけど、マスター、色々難しくって……」
「あらあらそうなの。うーん、マスターさんは男の人かしら? もし結婚していたり恋人が居る方だったら、確かに気をつけた方がいいかも」
「えっ、なんでですか?」
そもそもマスターが外に出ないのが問題なのだが、アメリアは口に出すことをやめた。なぜ結婚した男性ではだめなのか、そこが気になってしまう。するとフララは悪戯っぽく笑いながら教えてくれた。
「ここで香水の匂いをたっぷり服につけて帰るでしょ? すると、奥様に怒られちゃうの。『あなた、私以外の女と遊んできたのね!』って風に。かわいそうに、奥様への贈り物を探しに来る方も多いのに」
「わあ、ひどい勘違い!」
「そうなの。前はね、それで大喧嘩になっちゃって、必要なくなったからって香水を返しに来た方もいたのよ。ほっぺた両方を蜂に刺されたみたいにぱんぱんにしちゃって」
フララが顔の横の空中に両手を挙げて見せる。本当だったら、哀れな紳士は顔が三倍の大きさになってしまった計算だ。想像してアメリアは腹を抱えて笑った。嫉妬と誤解、ある意味不幸な話ではあるが、まったくの他人事だとただの滑稽話だ。
ただし、滑稽話で笑えるのはそれが他人事だから、だ。
「そんなに変なにおいをさせて。一体、どこで誰と何をしてきたんだ?」
夕暮れ時、浮ついた心で蔦の葉扉をくぐったアメリアに、鋭く苦い一声が突き刺された。
う、とたじろぎながら、アメリアは自分のワンピースの袖を鼻に寄せた。少し袖を揺らすと多様な花の香りが立ち昇る。フララの好意に甘えて色々な香水を試させてもらったのだが、少し遊び過ぎたかもしれない。鼻の良いマスターには無秩序な香りは耐え難いものであるだろうに。
それにしたってマスターの態度には辟易するが。経緯を聞く前から、あたかも大罪人を裁くような厳しい顔。半分腰を浮かせ、今にも外へつまみ出さんと迫って来そうな勢いだ。
アメリアは困ったように息を吐き、すまし顔でカウンターまで歩きながら事実を述べた。
「高台にある香水屋さんに行って来たんです。あ、これ、マスターへのお土産です」
「どうしてそんな所へ。今日は図書館へ行くと言っていた、図書館は高台に行くまでも無い」
「その前に偶然レインさんと会って、高台のお屋敷まで荷物を運ぶお手伝いをしたんですよ。その帰りに寄り道しただけです。私の事はどうでもいいので、ほら、これ見てください」
アメリアはマスターの隣で両手に抱えて来た包みを開いた。リボンがかけられた綺麗な布の包装で、中から現れたのは例の二段式のポットである。アメリアがひどく気に入っているのを見たフララが、「それでは、サシャ様からの贈り物はそれにしましょうか」と提案してくれたのだ。さすがに気が引けたものの、曖昧に返事をしている内にフララは包装を始めていた。だから、値段はあえて聞かないようにした。
ぴかぴかと輝かしい舶来のポット、一目みればマスターも気に入って機嫌はすっかり直るだろう。包みを解いて現れたポットの胴に、アメリアの得意気な顔が映り込んでいた。
しかし。ポットを触る前にアメリアの両手首がマスターにわしづかみにされ、そのまま引っ張られ、正面に体を向けさせられた。突然の強引な仕打ちだ、アメリアの心臓が激しく跳ねた。
表情をこわばらせて目だけを丸くする。そんなアメリアの顔は、マスターの眼中にはなかった。彼は不快感を露わに、アメリアの胸に留まる白いリボンを睨んでいた。もともとひしゃげていたリボンは、夜闇のごとく暗く鋭い目にさらに萎縮し枯れ落ちてしまいそうな程に見えた。
「……へたくそ」
マスターは小さな声でそうぼやいた。アメリアは目に見えて困惑した。しかしマスターは構わず、眉間に深い皺を刻んだままアメリアの胸へ両手を伸ばしリボンを外した。両端を引いて解いた後、二度三度と指でしごいて皺を伸ばし、その場で結び直した。そうしてあっという間に、全体の均整が取れてぴしりと伸び引き締まった、美しい白のリボン飾りに作り変えて見せた。
生まれ変わったリボンは、アメリアの胸の上に戻された。元々の残念な姿とは別物だ、生き返った花のようにきらきらと咲き誇っている。それを見て、清々したと言う風にマスターがにっと笑んだ。
「あのマスター……一体なんなんですか?」
「己の身を飾るにふさわしい物そうでない物、君も見極められるようになるといいだろうね」
「はあ……」
なんとなく釈然としない思いはあったが、アメリアはとりあえず言葉を飲んだ。せっかく直った機嫌を悪くさせたくない。事実、マスターはアメリアが何と言う前に、手をポットの方へ伸ばしている。
「ああ、なかなかおもしろいポットだ。このまま二段重ねて使うのか?」
「ええ。上で葉を蒸して、下でお湯を沸かすらしいです」
「それ以外にもできるな。上下で熱の周りが違うのを利用し、適温が異なる二種を同時に煮出せる。もっと単純に、僕が飲みたい物と君が好きな物とかね。ああ、二人で使うのにぴったりだ。さすがアメリア、いい買い物をする」
「それは――」
サシャさんからの贈り物なんです、と言いかけて途中で飲み込んだ。せっかく上機嫌な所に、彼の精神を削る名前を出すのはどう考えても悪手だ。
しかし半分ほど出かけた言葉だ、それが淀んだ事にマスターは眉を顰めた。怪しまれている。だからアメリアは慌てて取り繕った。
「それだけじゃなくて、一人でも二種類のお茶が同時に飲めますよ。ミルクティとフルーツ・ティのどっちにしようか迷っても、これで解決です。ゆっくり飲んでも片方が冷めちゃったりしません、最高ですよ」
「まったく、君は欲張りだなあ」
そんな言葉にアメリアは悪戯っぽく舌を出した。それがマスターの穏やかな笑いを誘い、ひいては葉揺亭の空気を柔らかく彩った。
思い立ったらすぐにやってみる、それが葉揺亭の二人の共有理念だ。時は夕暮れ、閉店の片付けを進める中で、舶来のポットはさっそく焜炉の上にかかっていた。上の段ではフララの店で買ったリンゴの香油の紅茶――これは正しく購入した物である――が蒸らされて、下ではアメリアの大好物であるイチゴを加えたミルクティが煮出されている。火はミルクを沸かし過ぎないよう細められていて、そのため上段も香りが飛びすぎない適度な高温に保たれている。
「マスター、客席のお掃除終わりました。玄関の鍵もかけちゃいますね」
「うん、頼むよ。ちょうどお茶も仕上がる所だ」
「わあ!」
アメリアはいそいそと仕事を終えてカウンターに戻って来た。シンクの隣に焜炉がある。手を洗う最中から、リンゴとミルクの混ざった甘やかな匂いが漂って来てたまらなかった。さらにマスターが自分用にレモンをスライスしているから、爽やかな香りも入り混じって来る。
清らかな香りと共にあった思いがけない散歩道。最後を飾るのは、夕暮れのティータイムの優雅な香り。
葉揺亭スペシャルメニュー
「リンゴのフレーバーティ」
香油(香料)を用いて着香させた紅茶。果実や果皮を混ぜ込むよりも強く、凝縮した香りがする。
また舌で感じる味をほとんど変化させないのも特徴。




