かくも愛しき自然の恵み(1)
夕暮れ間近の葉揺亭に、目が覚めるようなミントの香りが漂っていた。それに紛れて、少しばかりの土の香りも。森の狩人、ハンター=フォレウッズが来店すると立つ薫りだ。
この老翁は雪の盛りにはほとんど森へ入らない。厳しい自然が牙を剥き、その割に得られる恵みが少ないからだ。森が寒さで眠る時期はハンターも休業し、ちょうど今くらいの、昼間ぽかぽか暖かく植物が芽吹き始める季節に再開する。狩人業は自然と共にあるのだ。
今日は葉揺亭から採集依頼をしてはいない。純粋に今季最初の仕事を終えた後の一服のため来店している。そんなハンターに、どうだろう、とマスターが声をかけた。
「今年は雪が多かったですが、森に影響は?」
「いくつか古木が倒れておった。奥の方は残雪も多い、少し草木が動きだすのが遅れるかもしれん。だがまあ、いつかの乾いた年よりはましだ」
「すると氷去草の塔が立つのも遅いかな」
「またお前さんは、古い言い回しを使うのう」
ハンターは片口を上げて、小さく肩を揺らした。
「陽は出ておったから、例年通り伸びておったぞ。街道沿いの日当たりの良い場所では、もう咲き始めたわ」
「うーん、そうか。葉の風味は咲く前が良いんだ、苦みが抑えられていて。塔が立ち始めて、蕾が見えるか見えないかの時期が一番僕の好みです」
「そう遠回しに言わんでも。ちょうど今くらいだ、明日また採って来よう」
「いや、続けて行かせては悪いかと思ったんですが」
「あんなもの、門から出たすぐに山ほど生えておる。欲しがる者も大しておらん。わざわざわしに頼まなくても、アメリアちゃんでも取って帰って来られるだろうて」
からからと笑うしわがれ声に反応して、窓を拭いていたアメリアが振り返った。
「えー? じゃあ、ハンターさんについて行ってもいいですか?」
「うむ、よいぞ」
「わあっ! ありがとうございます!」
スカートを揺らしながら、アメリアはカウンターのハンターのもとへ駆けた。雲一つない空に輝く太陽のような、そんな笑顔と共に。
だが当然、店主は曇り顔をしていた。良いわけがないだろう、そんな無言の訴えがありありと書いてある。
アメリアは少し声のトーンを落としつつ、上目遣いでマスターに訊ねる。
「マスター、ハンターさんにお誘い頂いたので、ご一緒したいのですが」
「だめ。そもそも誘われたのではなく、君が押しかけたんだ」
「でっ、でも! 私が森に行ければ、マスターだって楽になりますし!」
「行かせない。危ないから」
腕を組んでしかめ面のまま、マスターはぴしりと言い張った。ノスカリア東部の森は広大で、怖い魔獣も住んでいる。そんな場所に華凛な少女が踏み入るべきではない、常識だ。マスターの主張はこうだった。
だが、それにはハンターの方から反論された。
「お前さんは勘違いしておる。何もそんなに深入りする話ではない。ノスカリアの門から出て目の前がもう森だ、街道も森の真ん中を突き抜けておるのじゃぞ」
「そんな事は知っているよ」
「だったら何が危ないものか。そんな入口から危険だと言うなら、街道も門も閉鎖されるわ。東寄りに住んでおる子供なら、門の外へ花を摘みに行くのもままある事よ」
珍しくマスターが言葉を詰まらせた。ハンターの言う事は、現実を踏まえたまったくの正論である。子供がいきなり一人で出かけるのならともかく、信頼のできる熟練者が一対一で伴っているのなら問題は起こらないだろう。
「そっ、それでも僕の知らない所で何かあったら大変だ。それに、ハンターさんに迷惑がかかる――」
「そのわしが構わんと言っておるのだ。それともなんじゃ、お前さん、わしのことを侮っておるのか。娘っ子一人の面倒も見られんと」
「そうじゃないですけれど……」
「ならばたまにはよかろう。アメリアちゃんにも町の外を見る機会はあるべきよ。どうせお前さんが連れて行く事はないだろう」
ハンターの隣で、アメリアもぶんぶんと首を振って肯定している。
頭が痛い。マスターは額に手をやった。しかし、考えても正当かつ論理的に二人を止める方法が思いつかなかった。
結局、マスターが折れた。だけど、くれぐれも安全に、あんまり奥に行かないように、危ない真似はしないようにと、しつこく繰り返した。もっとも当のアメリアは喜びに支配されてまったく聞いていなかったし、ハンターからは「お前さんは過保護すぎるわ」と呆れられる始末だった。
翌早朝。約束通り、アメリアはハンターと一緒に、ノスカリア東の大森林へと向かっていた。まだ太陽も低く、風も冷える。そして空気が静まり返っている。空気にあてられて、アメリアは無駄に口を開くことをしなかった。
ノスカリアの町と外の境界を示す門を抜けると、街道の両側に人家の代わりに豊かな緑が広がるようになった。街道は石を敷いて整備されているから、歩くのには町の中とまったく変わらない。この辺りは都市のすぐ近くの切り開かれた森だ、それでもアメリアには新鮮で雄大な自然に見えた。様々な鳥のさえずりとハンターの大きな背負い鞄が揺れる音を聞きながら、辺りをきょろきょろと見まわしながら歩く。バスケットを持つ両腕に無意識のうちに力がこもって、胸元に抱き寄せていた。
「今の内から肩に力を入れておったら、無駄に疲れるだけだぞ」
ハンターが苦笑まじりに声をかける。アメリアははっとして、照れ気味に笑った。
「なんだか不思議な感じで。ほとんど買い物に行くのと変わらない格好で門の外に出ただけなのに、いつもと全然違う景色ですから」
そう、服も靴も本当に普段通り。バスケットもいつも買い物に使っているものだ。昨日のうちにハンターに確認したが、それで良いと言われたのだ。奥深くに入るわけではないのだから、下手に着慣れない服装をする方が危ないと。持ち物もバスケットだけ、他はハンターの方で支度をしてくれた。老翁は背負い鞄と腰に大小のナイフや草かきを帯びた、それなりにしっかりした装備だ。
本当は、と、ハンターが唸るように言う。
「ナイフの一本くらいは持っていた方が良かったがのう。刃物を持たせるなんて言えば、あの若造の事だ、過敏になって大反対だっただろう」
「でも、お店でもナイフは使いますよ? 料理だってしますし」
「料理のナイフとは全然扱いが違うのだ。ナイフ一本あれば藪を刈ったり、枝を払ったり、材を加工したり、色々できる。もちろん、いざという時の武器にもなる」
「ああ……。それは確かに、マスターは怒りますね。自分でもだめです、怪我しそうです」
武器と聞いてアメリアはどきりとした。生きているものに向けて刃を持つ、想像した事もなかった。できればこれからもそんな必要がなくあって欲しいと思った。
「さて、道端の氷去草は少し時期が行き過ぎておるのう。この辺りから森の中へ入って行くとしようか。良いか、アメリアちゃん」
「はい!」
さっき一瞬抱いた恐れはもう吹き飛んだ。並ぶ木立の方面へ、初めてみる世界へ、浮き立つ心は抑えられない。
多彩な木々が入り乱れる森の中は、町とも街道沿いともまったく異なる空気が漂っていた。薄暗くひんやりとして、しかし透き通っている。先の季節に落ちた葉の隙間から、新しく柔らかい緑が芽吹いて輝いている。上を見上げると、新芽や花蕾を宿した枝が空に伸びている。季節が進めば、空は緑に覆われて見えなくなるだろう。
アメリアからすると周り一面落ち葉の床、それがどこまでも続いている風景なのだが、ハンターの目には道が見えているらしい。木々の間を縫って凹凸も少なくしっかりした地面をたどり、アメリアを先導しながら森の中へと進んでいった。
しばらく行くと、朽ちかけの倒木があって少し明るく開けた、小さな広場のような空間にたどり着いた。周りに比べて日当たりが良いためか、一帯だけ若草の勢力が強い。木漏れ日もはっきりと目に見えて、なんだか幻想的な情景だった。
「さあてアメリアちゃん、氷去草がどれかわかるかのう」
アメリアは広場にある緑を見比べた。よく見れば、何種類もの植物がここにある。葉揺亭でのマスターとハンターの会話を思い出す。氷去草は「塔が立った」と表現される姿で、今は蕾が出来ている頃。その話に当てはまる草は。
「あっ、これですね!」
目星をつけた植物のもとへ、他の小さな草花を踏まないようにして駆け寄る。地面にしゃがんで手で引き寄せたその草は、アメリアの手と比べても華奢な雰囲気である。地面からまっすぐ上に伸びた茎に、スペード型の葉が互生している。先端に行くほど葉の密度が高く、そして頂上にまだ小さな蕾がついている。蕾の先は薄桃色に色づいている。
アメリアが得意げに見せつける草を確認して、ハンターは深くうなずいた。
「うむ、それだ。それよりもう少し若い、背がそこまで伸びていない段階のものが、亭主の好みの状態だ」
なるほど、とアメリアは手の氷去草を見直した。マスターは蕾が見えるか見えないかと言っていた、だからはっきり色まで出はじめているこれは、少々通り過ぎてしまったのだ。理解したアメリアは、しゃがんだまま辺りを見回す。
そうと思ってみれば、この付近で目立つ草はほとんどが氷去草だ。成長段階が少しずつ違うから、別の草に見えるだけで。本当に違う種類の植物は、まだ芽生えて間もなかったり、地面を這うように育っていたりだから、氷去草ほど目につかないのだ。
嬉しくなったアメリアははしゃいだ声を上げながら、ほとんど地べたを這って移動し、次々と氷去草を手折っていった。マスターからはほんの十本もあればいいと言われていたが、なにせ取り切れないくらい生えているのだ、それにせっかく来たのだし、と夢中で草を集めて、アメリアの持って来たバスケットはすぐに底が見えなくなった。
その光景を静かに見守っていたハンターが、ここに来て一つ忠告した。
「アメリアちゃん、無駄に採りすぎないようにの。必要な分だけを貰うのが、森に対する礼儀よ」
「でも、こんなにたくさんありますし。今しか採れないのですから」
「しかし、そうは使わんだろう。持て余して、粗末に扱うのはいかん。亭主が十と頼んで来た、ならば一年かかっても十しか要らんのだ」
優しくも厳しく叱咤する声に、アメリアは手を止めて静かに頷いた。ここはアメリアの知らない世界、不文律があるのならまず従うべきである。森に溶け込む翁の佇まいが、それを物語っていた。
アメリアは立ち上がった。軽いバスケットの中で緑色の草が大きく跳ねた。やる気満々で来た割にすぐ用事が済んでしまった、物理的にも収穫が少し寂しい。なんとなく気が沈む。
そんなアメリアの胸中を見て取ったハンターから提案がされた。
「せっかく来たのだ、他にもよく頼まれるものを見て回ろうか。耐寒性のハーブなら今でも採れるし、イチゴ類でも早いものは花がつき始めたかもしれん」
「ほんとですか!」
そう、森の恵みは一種類ではない。色々なものを少しずつ、必要なだけ分けてもらう。それこそ豊かな付き合い方だ。
ハンターと共にアメリアは森を進む。あれは冬菫だ、それが黄金草のロゼットだ、これが一番早いイチゴの花だ、などと教えを受けながら。ハンターに言わせると、まだ「寂しい」森らしいが、アメリアにはおもちゃ箱のように楽しい物だらけだった。初めて見る物も、知っている物すらも、何もかもが新鮮だ。だって町の中で見る草花と、自然の中で見る草花はまったく印象が違うから。飛び回るように歩き、草花を摘んで歩けば、あっという間にバスケットは満員御礼となった。
――まだ森の入り口なのに。奥まで行ったら、どんなになってしまうのかしら。
だいぶ歩き、奥の方までやって来た風ではあるものの、実際は木立の向こうに目を凝らすと街道が視認できる程度の距離でしかない。ハンターは街道からの距離は保ちつつ町から遠ざかる方角へアメリアを案内したようだ。街道と反対側は、どこまでも遠く深く木々が連なっていて奥が知れない。
アメリアはその思いを率直にハンターに尋ねた。もう少し奥へ行ってみたい、と。すると老翁は苦笑して答えてくれた。
「確かに貴重なものも色々ある。が、人の歩く道から遠ざかるほど、人を襲う獣に出くわす可能性も高い。人が歩くように整えられておらんから事故も起こりうる。手練れでも命を落としかねんのだ、今のアメリアちゃんが入って行くには、うむ、難しいのう」
豊かな森は数多の生き物を育む。それは、必ずしも人間に有益なものばかりではない。ノスカリア東の大森林の奥地には、血の気の多い魔獣――人間で言う異能者にあたる獣だ――が幾種か生息している。植物にすら異能じみた現象を引き起こす種がある。日常人が立ち入らないゆえに、未知の怪物や、超常現象の噂もある。彼らは積極的に接触して来ずとも、自分の領域を外から侵されれば黙ってはいない。ゆえに知識も力も無い人間が踏み込むべきではないのだ。
そもそも欲に駆られて人外の領域に踏み込む危険を冒さずとも、森は人間の手に届く場所に十分な恵みを与えてくれる。そうハンターは笑って、アメリアの足元にしゃがみ込むと、落ち葉の下からに頭を出していた山菜を草かきで取り、彼女のバスケットに差し入れた。




