ひみつのおてがみ(2)
「……ごめんなさい」
気つけ薬になる程に強くレモンが香る店内で、アメリアはマスターにしゅんと頭を下げた。続けてカウンターに居るアーフェンにも同様に。アメリアの悲鳴で急を察し、彼は臆せず階上へ駆けつけた。そして腰を抜かしたマスターを支え、店へ戻って来たのである。それからマスターの指示でアメリアが三人分のレモンティを淹れ、ひとまず心をリセットし、今に至る。
店主は両手で髪をかき上げながら、深く詰まっていた息を吐いた。右手で頭を抱えるように肘をつき、小さくなって椅子に座るアメリアに向かって懇願する。
「本当に勘弁してくれ。心臓が止まるかと思った。いいや、止まったね」
「だって、こんなくだらない嘘でそこまで怒るなんて思わなくて」
「人を楽しませようとする嘘は良き冗談としてとらえられるが、困らせようとの悪意があってはいけない。そんな物はただの嫌がらせ、笑い話にはならない」
「悪意は、無いです。たぶん」
「多分だって? 自覚が無いならなおさら悪い。素直に心の赴くまま行動するのは君の美点だ、しかし、時には行動の前に立ち止まり、俯瞰して結果を見通す事も身につけるべきだ。君自身を守るためにも」
「でもう……」
アメリアの視線がマスターのそれの下方でうろつく。言おうか言わまいか、躊躇っているのは明らかだ。マスターは顔をしかめて、あえて黙った。
胸の前でゆるく握った手指が、一定の律動を刻んでぱたつく。マスターの無言の詰問の中で揺れた振り子は、正直に言う方向を指し示した。そして、アメリアは申し訳なさそうな顔で、なおかつ消え入りそうな声で真相を呟いた。
「でも、最初に言い出したのは、ティーザさんなんです」
「な、に?」
ひっくり返った声を一つ残したまま、三度マスターは間抜けた顔で固まった。彼の事はよく知っているし、非常に信頼している。生真面目で嘘などつかない、特に人を傷つけるような嘘は。信頼していた、それなのに。
マスターは形容できぬ呻き声をあげて、頭をかき乱した。突然椅子から立ち上がり、天井を仰いでカウンターの中を歩き回り、そしてまた不意に着座する。そしてじとっとアメリアを見て、
「どういう事だ」
と。そんな過去に例が無い店主の困惑っぷりに若干引き気味になりつつ、アメリアは事の次第を白状した。
アメリアが最近頻繁に顔を出すスラムの学校では、授業としては一般常識のような内容を教えている。だから自分が熱心に学習するよりは、特に自分より年下の子を相手にして教える側に回る立場になりがちだ。
先日の字の読み書きの授業が好例だった。アメリアの周りにもたくさんの子供が集い、アメリアの書いた字をお手本に、文字の書き方を練習したものである。
そして、件の手紙の送り主はその時の一人だった。一生懸命練習した文字でたどたどしくつづられた手紙には、字の書き方を教えてくれた事への感謝が込められていた。「ありがとうおねえさん」と。
たったそれだけの些細な出来事。しかし、それがアメリアには天へと昇るほど嬉しかったのだ。自分が人に喜びを与えられる、誰かから慕われる、そちら側の人間になったのだ、と。
それが初めて葉揺亭に秘密を持ち帰った日だった。マスターに言えなかったのは、単純に恥ずかしかったから。マスターからしたらアメリアだって子供の内だ、こんな事で舞い上がっているのを、それこそ子供っぽいと笑われそうで。大事な気持ちを誰にもからかわれたくなかっただけで、秘密を作るに一切の邪念はなかった。
あの後、アメリアは手紙の返事を書いて渡した。好きな物はなんですか、将来の夢は。秘密にするから手紙に書いて教えて欲しい、と。さながら先生になったように。手紙のやりとりが読み書き練習になればいいと思ったのだ。
そして返事の返事が今日の手紙である。相手の子は顔を合わせるなり小恥ずかしそうにして、手の中で皺が寄ってしまったそれを渡してくれた。
今度の手紙は前回よりもずっと長く、なおかつ子供らしい無垢な願いが一面に詰まっていた。授業が終わって人気の少なくなった教室で読んで、アメリアは思わず笑みをこぼしていた。そして何度も何度も読み返した。
ティーザに見られたのはそんな様子だった。一人でじっと立っているのに、表情をころころ変えて異様に楽しそうな様子、傍目に見て疑問だったのだろう。近寄って来た彼は、どうしたのかと率直に訊ねた。
アメリアは手紙を胸に伏せ、内緒だと伝えた。自分とあの子の秘密のやりとりだ、先生であるティーザにもこれは見せられない、そうきっぱり言い切った。もちろんマスターにも秘密だ、手紙の事は一切言わないで欲しいと更に念を押した。
『わかった。秘密なら仕方がない』
その一言のみでティーザはあっさり退いた。どこぞの店主とまるで違う態度に、アメリアは密かに胸をなで下ろした。
その上で、彼は背を向ける前に、何かを思いついたように眉を上げた。そして、ふっと不敵な笑みを浮かべてこう続けた。
『もしあいつに見つかった時は、恋文だとでも言ってやれ。きっと酷く取り乱すだろう。たまにはあいつもからかわれる側になってもいいさ』
「……あの子は、いつの間に、僕を陥れるほど偉くなったんだろうなあ」
マスターがこめかみを震わせながら乾いた笑い声を上げた。この感情すらも向こうの策の内だろうと思えば、ますます腹が立ってくる。自分の足の上に置いた手の爪は白くなっている。心なしか周りの空気までもが黒く色づいているような。
「だけど、ティーザさんも本気で嫌がらせをするつもりじゃあなかったと思います。あくまでも、私の秘密を守ろうとしただけで。ねえ、そう思いませんか? アーフェンさん」
「えっ、ま、まあ。仲が良い知り合い同士なら、ほんの軽い冗談のつもりかと」
「軽い!?」
そこには明確な怒気が滲んでいた。アメリアもアーフェンも思わず肩を震わせた。が、その矛先は別、裏で糸を引く首謀者に向いている。
「軽いどころか、考えうる中で最悪な事をやったのだ。それもただの愉悦のために。まったく、ただじゃおかない……代償は高くつくぞ」
目をぎらつかせて呪詛を吐くマスターを見て、二人の少年少女は完全に引いていた。
「……いくらなんでも、そこまで言いますか? ご友人なんでしょう?」
「マスター、大人げない」
そんな呟きは、燃え盛る火に抱かれた店主には聞こえていない。手のつけようのない状況を前にして、アメリアとアーフェンはお互い困ったように顔を見合わせ、やたら酸っぱいレモンティをすすりながら、時間が解決するのを待つしかできなかった。
それから再び時は過ぎ、小雪ちらつく木花の日。今日は店内に二つの人影があった。
「寝ていなくて大丈夫か?」
「全然大丈夫です。マスターはおおげさなんですよう」
と言いながら、アメリアは鼻の奥でぐずついた音のくしゃみを一つ。顔も少々赤らんで、早い話が風邪気味である。
アメリア自身は今日も学校へ行くつもりだったらしい。だが、マスターが断固として止めた。弱っている時は休養するに限るし、行った先で風邪を蔓延させるのはなお悪い。アメリアには軽い風邪で済んでもでも、他者に移れば重い病魔に変貌する事があり得ると、マスターは経験上から知っていた。各方面へ気を使っての制止だ、悪戯の件での遺恨で止めているのではない。
アメリアはひどく残念がっていた。手紙のやり取り自体はマスターに止められなかったから、翌日には手紙の返事を書き、ついでに手製の焼菓子までつけて相手に渡してあった。今日には返事が来る頃合いだった、今も学校でアメリアを待っているだろう。
体はここにあるが、心はここにあらず。潤んだ目で窓越しに灰色の空を仰ぐ憂悶の少女の姿は、まさに恋煩いをする生娘のそれ。カウンターから彼女を眺めるマスターは、ひたすらいらぬ気を揉まされていた。
そして時が夕暮れに片足を踏み入れる頃。カウンターでマスターとの歓談に興じていたアメリアが、ふと窓の外を見て、途端に目を丸くした。
「あの子……」
つられてマスターも外を見る。今日一日変わらない軽い雪が舞う風景、そこに起こった変化、正体は横の縁から覗いた人間の頭だ。暗い髪の小柄な女の子。マスターと目が合った瞬間に、その顔は怯えるように引っ込んだ。
「例の手紙の子です」
もしやと店主の中によぎった予感を、アメリアが立ち上がりながら肯定した。そして小走りで駆けて、外に飛び出した。
マスターはゆっくりと後を追った。開けっ放しの玄関から一歩引いた位置で外を覗き、二人の会話を傍観する。
着古した服に身を包み寒さに身を縮めている少女は、アメリアから中に入るよう誘われても首を横に振っている。手は後ろに組んでいて、何かを隠して持っている。
アメリアは膝を折って目線を合わせると、鼻をすする娘の頭に手を伸ばし、いつも自分が店主にされるように優しく撫でた。
「どうしたの? よくここがわかったね」
「先生にきいた。……今日はなんでこなかったの?」
「ごめんね、ちょっと風邪なの。みんなにうつしちゃったら、大変だから」
「そっか」
スラムの娘は少し恥ずかしそうに顎を引く。それからもじもじとしながら、後ろ手に隠していた物をアメリアに差し出した。
「……ん」
「私に? 何かしら」
アメリアは両手を開いてそれを受けた。
小さな手に、もっと小さな手が乗せた物は、不格好な指輪だった。白い粘土で型を作り、磨いた小石を埋め込んである。環の形は楕円形に歪んでいて幅も不均一、いかにも子供の工作だ。しかし温かみに溢れていた。青灰色の石はどんな宝石より美しく輝き、乾いた粘土にはどんな金属よりも重みを感じた。
「きのう学校でつくった。この前おかしもらったから、あげる」
「ありがとう、大事にするね」
言葉に違わず、アメリアは宝物を包み込んだ拳を胸に寄せて抱いた。
「もう、いくね」
気恥ずかしそうに、しかし嬉しそうな色をにじませながら、スラムの少女は後ずさった。
「ちょっと待ってくれ」
呼び止めた声は、始終を見守っていたマスターのものだった。玄関口の柱に背を任せ、人好きのする笑みを浮かべている。
「ねえ、君。一つ頼まれてくれないかな?」
小動物を撫でるような優しい声だ。それで手招きをする。じっと見ていたスラムの少女は、おずおずとだが寄って来る。
アメリアは不審に思ったらしい。疑り深い目でマスターを睨んでいる。睨まれた方はあえて彼女を見ないようにしていたが。
アメリアの勘は冴えていた。先の悪戯の事、マスターはまだ根に持っていたのである。ただし反撃の対象はアメリアではないし、ましてこの初対面の無知な娘ではない。許しがたいのは、度の過ぎた冗談を吹き込んでおきながら結果すらも見に来ない不届き者である。
マスターはベストの裏から蝋で留めた封書を一つ取り出し、少女の手に渡した。元々はアメリアに預けるつもりで用意した物である。
「このお手紙をティーザ先生に渡して欲しいんだ。僕は……先生の先生だ。そうやって言ってくれれば伝わる」
「わかった」
不敵に笑む店主に向かって彼女は何の疑念も抱かず頷き、手紙を受け取った。そして大事に握りしめ、雪のちらつく街に駆け足で消えていった。
アメリアの手で玄関が閉められ、葉揺亭の内と外とが完全に遮断される。その途端にアメリアはマスターをしかめっ面で見上げた。
「ちょっと、マスター! あれ、なんのお手紙ですか!」
「秘密だよ。なあに、悪いものじゃあない」
「絶ッ対、嘘ですよね。絶対に良くないものです。きっと呪いのお手紙です」
マスターは答えない。満足そうに悠々と歩く燕尾の背を向けたまま。アメリアはなお騒ぎながら追いすがる。
カウンターの入り口あたりで、店主は前ぶれなく足を止めた。とっさの反応が間に合わず、アメリアの鼻が黒い背中に衝突した。ふにゃぁと妙な声が彼女の口から漏れた。
「そんなに聞きたい?」
「はい。怪しいですもの」
「じゃあ、一つだけ、教えてあげるよ」
マスターは妖しげな薄ら笑いを浮かべた。すっと指を立てた指を一定の拍に合わせ動かし、同時に音を一つずつ紡ぐ。誰かさんと同じように。
「こ、い、ぶ、み。……恋文さ」
「はあっ!?」
アメリアが息の切れた魚のように口をぱくつかせる。力なく垂れさがった手の間からは、大事な指輪すら取り落とされそうであった。昔から知っている親子のものだと聞いていたのに、それが恋人同士だと言うのなら、天地が逆転する程に話が違ってくる。
いい反応だ、とマスターは失笑した。
「嘘……」
「残念、僕は嘘をつかない。じゃあもう、すべて教えてしまおうか」
マスターはウインクを一つ見せてから、飄々とした口ぶりで己が書いた文をそらんじる。一言一句を選んで綴った文言は、一文字たりとも記憶から欠落していない。
「『私の可愛いティーザちゃん。君が私の心を弄んだせいで、どれだけ苦悶の日々を過ごしているか。顔すら見せてはくれない君のことを想い、また君の胸中を想像し、この身は独り震えるばかり。話したいことは山のよう、近くに必ずいらっしゃい。いつまでも待っています』……ほら、どこからどう聞いても恋文だろう? 文面だけなら。震えているのは、怒りに、だけどね」
くっくと笑うマスターの顔は悪魔のようであった。アメリアは明らかに引いている、いや、理解が追い付いていないようだった。やがてマスターの言う意図を理解すると、白いまま引きつらせていた顔が一転して真っ赤に染まった。
「あっ、もう! 本気にしたじゃないですか! マスターの馬鹿っ!」
混乱の渦から解放されたアメリアは、脱力してその場にしゃがみこんだ。マスターが腹を抱えて笑っていても、もう構う気力すらわかない。
「もう……なんだか頭が痛くなって来ました」
はああと深く湿った息を吐きだし、アメリアはふらふらと立ち上がった。熱っぽくぼんやりとした顔のままマスターの横をすり抜けて、私室への道を歩む。
「マスター、私、少し、寝てます」
「……大丈夫か? 階段は上れるか?」
「平気です」
「後で風邪薬を持っていくよ。水分補給も大事だ、何か希望は――」
「大丈夫ですから。小さな子供じゃないんだから、一人で休めます」
アメリアはぱたんと後ろ手でドアを閉め、店を出て階段を上って行った。
「……少しまずかったかな」
マスターはがりがりと頭をかいた。普段なら軽く流せる冗談も、心身の調子が悪い時には深い傷になってしまう。アメリアが風邪気味である事を途中から失念していた。
ため息をついて、店の方へ向き直る。誰もいない、一人きりの葉揺亭。耳が痛い静けさに包まれて、空気は寒々しく肌に刺さる。店主の背中にざわりと怖気が走った。
普段なら軽く流せる冗談も、心身の調子が悪い時には深い傷になってしまう。アメリアの事ではない、自分自身だ。
マスターは近頃、漠然とした不安に包まれていた。この孤独な静寂が永遠となってしまう、そんな懸念に駆られていた。
アメリアの嫌がる事はしたくない、籠入りの荒鳥として彼女を一方的に愛でたいわけではないのだから。しかし目一杯甘やかし、彼女の好きなようにさせておいても、そうすると今度は離れて行ってしまう。だから秘密を作られるのが怖い、自分の知らない所で彼女が変わってしまうわけだから。そして、アメリアを自分から引き離そうとする物すべてが恐ろしく、許しがたい。
マスターはベストの胸の辺りに手をやった。この裏にさっきまで手紙を隠していたから、今は隙間を感じる。しかしそんな物理的なものではなく、近頃この辺りにつかえている何かがある。これが具体的に何なのか、うまく言語化できないし、ティーザに意趣返しを仕掛けても結局解消できなかった。
さらに、親指の先で感じる違和感。
「……ああ」
ベストの縁に爪で引っ掛けたようなほつれができていた。接客を行う者にとって、身だしなみが整っている事は最重要事項だ。毎朝念入りに確認している、今朝もチェックした。だが、その時は気が付かなかった。後からできたのだろうか、それとも見つけられなかったのか。
マスターはうなだれて、再び悩まし気なため息をこぼした。小さな綻びから巨大な物が崩壊する、歴史上多々ある事だ。ひどく、ひどく嫌な予感がする。
――人が望む永遠など、幻想だ。それでも……。
口を真一文字に結び、マスターは面を上げた。そして遠く外を見やる。いつの間にか寒風は激しく荒れていて、窓越しにも唸るような音が聞こえて来るようになっていた。単に日が暮れる以上に暗さも増している。そして冷えも。花咲く暖かな季節は目の前に迫っている、将来名残雪となる今季最後の大雪が今宵訪れるかもしれない。
「アメリアに、暖かくして眠るよう言わなければ」
風邪をこじらせないように。要らないと言われたが、温かい飲み物も枕元に置いておこう。彼女が寝て起きて、真っ暗な真夜中に手にしても温かいように、ちょっとした魔法をかけて。そうすればきっとアメリアも喜ぶはずだ。そして彼女が自分に向けてくれる笑顔こそ、マスターの心の風邪に効く唯一で最高の薬だ。
外がどれだけ荒れても明日もいつもと変わらない朝が来て、アメリアが花咲く笑顔を見せてくれる。二人並んだ葉揺亭の日常が続いていく。それを夢想して、マスターは食器棚に向かった。
葉揺亭 本日のスペシャルメニュー
「竜骨茶」
西方大陸北部の高山地域にわずかに生息する緑竜の外骨格を煎じて茶に仕立てたもの。
ただし緑竜の各部位は通常食用にはしない。毒は無いが味に劣る。口に含む利用は魔術的な性格が強い。
かなりの希少品ではあるので、その点に価値を見出せるか否かだ。
ちなみに「竜の種類が変われば多少の味は違うかもね。ま、だからといって美味しくなるとは思えないけれど」と店主の談。




