葉揺亭の朝(1)
朝露にしっとりと濡れる街道の交差点の町、ノスカリア。交通の要所として歴史深く、大陸の中央で大きな都市圏を築いている。
町の北西に位置する住宅区域、その北側に切り立った崖のふもとにて、とある店が目を覚ました。朝日を正面から受ける二階建ての木造の家屋。暗い色合いに塗られた玄関扉が、静かに口を開けた。
中より押し開けられた隙間から、白い長袖シャツを着た男の腕が伸びて出た。その手は把手の下部、フック状の部分に、紐吊りのプレートを引っかける。と、あっという間に引っ込んだ。同時に扉も静かに閉まった。
葉が茂る蔦のレリーフが施された玄関扉の上で、『葉揺亭』と彫られた木のプレートがゆらゆらと揺れていた。
葉揺亭とは店の名。ここは知る人ぞ知る、商業の大都市ノスカリアにおいても唯一無二である喫茶店だ。
店の内装は暗色の木目を基調とし、全体的に落ち着いた雰囲気を醸している。この時間帯はカーテンを開けた窓から朝の日ざしが差し込んでいる他、燭台を模した壁の照明も点けているため、快適な明るさがある。
そんな空間に、ぽこぽこと湯の沸く音が静かに響きわたっていた。
玄関から向かって奥に店内を横切るカウンターがある。その内側で葉揺亭のマスターは開店の支度を進めていた。最後の段として食器棚に被せた埃避けの布を退けていたところだったのだが、湯の音が勢いを増したのを聞くと、黒いベストから垂れる燕尾を翻し、焜炉の火を弱めに向かった。
オーブンと一体になったこの焜炉は、アビラストーンと呼ばれる魔法の石を利用した、魔法火の焜炉である。つまみ一つで火加減を調節できて扱いやすいうえに、定期的に石へ魔力を充填することでほぼ永続的に使える、非常に重宝する道具だ。湯を沸かしっぱなしにしておく喫茶店の営業には欠かせない。
沸騰した湯が保温できる程度に火を細めると、マスターはそのまま焜炉の前で店内をぐるりと見渡した。開店作業もあらかた終わった、後は取り払った布をしまうだけ。
仕事を完了すると、マスターは腕を真っ直ぐに上げ、ぐっと体を伸ばした。それからシャツの襟を整え、ベストも裾を引っ張ってぴしっと伸ばし、ついでに黒く艶やかな髪も手で撫でつける。色白の顔には人好きのする穏やかな微笑が浮かんだ。
身繕いも完璧で、後は来客を待つのみ。マスターは男性ながらに品のあるしなやかな所作で椅子を引くと、カウンターの内で悠々と腰をすえた。
葉揺亭は客の多い店ではない。
最大の要因は立地だ。ノスカリアの商業は東側に重心を置いている。特に町の中心位置の、ノスカリアの象徴たる時計塔が建つ広場から、大陸東部へ向かう東門に至るまでの区域は、あらゆる種別の店屋が並ぶ商店通りを形成しており、市民も商人も旅人もそちらに多く集まる。
対して葉揺亭があるのは広場より西側、しかも大通りから深く入り込んだ住宅が並ぶ区域で、おまけに袋小路の最奥にあるときた。開業の条件としては劣悪、他にいくらでも選択肢はあるのだ、普通はこんなところを選ばない。
だが、この店主は普通でなかった。賑々しい都市内の辺鄙な場所、その点が逆に気に入った。理由を聞かれるたびにマスターは、「趣味のような店だから」と答えている。
そんな立地難にもかかわらず、開店から年数を重ねた今では、足繁く通ってくれる常連がついている。今マスターが待っているのもその一人だ。
彼とはもう年単位の付き合い。毎朝必ず一番に、しかも広場を挟んだ南東部から、わざわざ時間をかけて来てくれる。彼が来ないとマスターの、いや、葉揺亭の朝は始まらない。
マスターが所在なげに頬杖をついていると、ようやく玄関の扉が開いた。
逆光の中に浮かぶ小太りのシルエットを見て、マスターの漆黒の目に光が灯った。もとより老けた顔ではないが、一層に若々しさが溢れ出す。いっそ少年のようだ。
「おはようございます、オーベルさん」
「おう、おはようさん」
髭面の男はあくび混じりでそう言うと、カウンターを挟んだマスターの目の前に陣取った。着席するなり、小脇に丸めていた新聞を広げて読み始める。ノスカリアでは幾種か新聞が発行されているが、今日持って来ているのは一枚刷りの速報性が高いもののようだ。
紙面に目を落としたまま、注文は無い。だがそれも常である。オーベルが朝一で飲む紅茶はいつも同じものに決まっているから、必要がないのだ。マスターはさっそく仕事にとりかかった。
さて、葉揺亭のメニューの主力は紅茶とハーブティだ。それ以外のものはほとんど無い。珈琲や果汁といった飲み物は多少存在するが、料理、お菓子、その他食事は皆無だ。
その代わり、紅茶の種類が尋常ではない。単に紅茶と言っても、樹種の違い、産地の違い、あるいは配合の違いなど、色々な違いがあり、それらが多岐にわたり店に所蔵されている。加えてハーブ類も多種多様、客に見せるメニュー表にも載りきらない取り揃えで、この店に世界中の茶を集めたのではないか、と思えるほど。
その中でオーベルが好むのは、「コルブ」と名付けられた、ノスカリア近辺ではややマイナーな種の木から摘んだ茶葉だ。
コルブは熱湯で淹れると苦味がひどく出てしまうのが特徴で、普通は少し冷ました湯を使うことで苦さを抑える。ところが、オーベルはこれを「熱め」と指定してくる。苦みを抑えておいしく飲めるぎりぎりの熱さを狙う。このさじ加減はとても難しく、毎朝マスターは腕を試されていた。
マスターは沸騰する湯を上品な白いティーポットに移しとった。それから、同じ型のティーポットをもう一つ用意し、そちらにコルブの茶葉を保存缶より掬い入れた。
そこで一呼吸だけ待つ。それから、はじめのティーポットの湯を、茶葉の入ったポットへと注いた。このひと手間で生まれる絶妙な温度の低下、それが幾度も実践して見つけた分水嶺だ。これより少しでも湯温を下げると、オーベルには「ぬるい」と言われる。
湯の準備さえ上手くいけば安心、あとは茶葉から旨味が抽出されてくるのを待つだけだ。短ければ薄いし、長ければ濃くなりすぎるから、頃合いを見計らうのは重要である。
ただ、毎日のことだから、マスターの身には時間感覚が染み込んでいる。目安の砂時計も使わず、正確に飲み頃を見極めた。
ポットの蓋をつまみあげると、色の濃さが均一でないのが見える。これを正すため、銀のスプーンで静かに一かき。これで濃い褐色の紅茶が完成だ。かすかな蒸気と共にふわりと鼻を抜けた芳香に、マスターは顔をほころばせた。
通常はこのままカップとセットにして客に提供する。ただ、オーベルを相手にした場合は、もうひと手間かかる。
用意するのは、湯通しして温めたティーポット。あとは簡単、ストレイナーで茶葉を濾しながら、ポットからポットへ中身を移す。理由も単純明快、オーベルが自分でストレイナーを使うのを面倒がるから、それだけである。
さらにサービス、一杯目のみはマスターが手ずからカップに注ぎ入れ、半分ほど中身が残るポットと並べ、カウンター越しに差し出した。
「はい、おまたせ」
マスターの落ち着いた声をスイッチに、オーベルは新聞を横に置いた。のっそりとした手つきでカップを取り、口をつける。
瞬間、オーベルの纏う空気がしゃんとした。コルブのきりりと締まった苦い味わいは、目覚ましにうってつけなのだ。
舌を焼きそうなほどに熱い茶を、オーベルは黙してすすった。そして。
「ま、今日もうまいわ」
髭を揺らしながら、オーベルは口角を上げて呟いた。
ここまで、毎朝お決まりのやりとりである。うまい、その一言も聞き飽きるほど回数を重ねているはずなのに、まったく嫌にならない。それどころか、このたった一言が、マスターにとっては至上の喜びだ。一日の始まりがなんと心地よいことか。
「そりゃ、どうも」
言葉にすると淡泊でも、マスターの顔は満足に笑んでいた。
オーベルの滞在時間は決まっていない。稼業の宿屋が忙しい時はとっとと切り上げるし、逆に、妻と喧嘩した翌朝などはいつまでも帰ろうとしない。彼の気が向くまで、ひたすらのんべんだらりとくだらない雑談に興じて過ごす。
この朝はマスターがオーベルの持ち込んできた新聞に目を止めた。版が乱れたのか、見出しの文字が一部飛び跳ねている。これは目をつぶるべきご愛嬌なのか、はたまた危急を表現する手法として狙ったものなのか、色々と考えられる。が、そこはさておき。
大きく記された見出しはこう語っている。
『ギルド設立制限緩和へ。抗争は不可避か』
今日の世で単に「ギルド」と言った時は、「異能者ギルド」を指しているのが暗黙の了解だ。
さて、異能者とは。書いて字のごとく、一般人と違う不思議な能力を持つ者のことである。彼らは、このイオニアンの世界に為政をなす統一政府の法規の下で「アビリスタ」と名付けられ、人間とは明確に区別した、怪物化物のごとき扱いがされる。うち一つが、人間社会中で能力を行使することへの厳しい制限だ。超人的な特殊能力は、普通の人間が対抗できない脅威にもなるゆえ、人間社会を維持するにはやむを得ない措置とされている。
そうした世の中で、アビリスタたちが能力をおおっぴらに使いつつ営利活動をするための互助組織、それがギルドである。ギルドの看板を掲げるには政府からの開設許可が必要。今回はその認可基準を緩和した、という話だ。
現在ノスカリアには、既に大小二十近くものギルドが存在する。制限緩和となれば、さらに新興ギルドが乱立するだろう。かといって、仕事口が比例するわけではない。パイの奪い合いが必至だ。そうなると、一般市民にも影響が出るのが社会の常である。
マスターは来たる未来を予測して、眉をひそめた。自分に火の粉がかかる心配ではない、気がかりなのはオーベルのこと。彼の宿屋は、とあるギルドの本拠地となっているのだ。
「ねえオーベルさん。それ。大変なことになるんじゃないかい?」
「んー、ああ、まあ、なんにも無いとは言いきれんけどよ。たぶん、うちはあんまり変わんねえよ」
ずず、とオーベルは茶をすする。言葉に違わず不安の色は一切なく、落ち着いたものだ。
「中堅も中堅だからなあ。下剋上狙って変に火をつけようとする連中でもないし。ぽこぽこできた小さいとこが、上の連中に洗礼という名の新人潰しをかけられて終わり、だろうよ」
「まあ、そんなものか。戦国乱世、まず狙われるのは弱小国と相場が決まっている」
「そうそう。こんな煽り気にして取り乱したやつが負けだ。第一、おまえさんなんか一番心配しなくていいタイプじゃないか。外も出歩きゃしないんだから、やつらの戦いにうっかり巻き込まれることもない。いいじゃねえか、引きこもりは気楽でよ」
オーベルの皮肉めいた笑いには、苦笑で返した。
ところで、実は葉揺亭にはもう一人店員が居る。住み込みで働く彼女は少しお寝坊さん。そろそろ起きてくる頃合いだ。
待ちがてら、自分も一服しよう。マスターはポットを取り出すべく、立ち上がって食器棚へと向いた。
が。はっと思い当ることがあり、すぐオーベルに向き直った。
「ねえオーベルさん、その新聞、伏せておいてくれないか。アメリアが見たら――」
その言葉を遮るように、壁を隔てた店の奥から衝撃音が響いた。ドア一枚はさんで聞く限り、小柄な誰かが床に尻餅をついたように聞こえたが。
男たちが顔を見合わせたまま唖然とした。すわ、一大事か。
血相を変えたマスターは、すぐさま扉へ向かって回れ右。
その時、扉が奥より控えめに開けられた。続けて、隙間からはにかんだ笑顔の少女が、緑色のワンピースをひらつかせて飛び込んでくる。一本の三つ編みにしたブロンドの長い髪に、澄んだ青い目。この少女こそ葉揺亭の看板娘、アメリア=ジャスミナンである。




