さっき飼い犬を安楽死させてきたので代わりにタワシを散歩させてくる
さっき家で飼っていた犬を安楽死させてきた。
特に何もせずにぼーっとしていると、夕方になっていた。そろそろ散歩の時間だとリードを用意しようとしたところで、家の中が静かなことに気がつく。
「……そっか、もういないんだ」
うるさいほどせがんできた声も、玄関でお座りして催促する姿もない。
小学校の頃、両親が連れてきたのがあいつだった。お互いにチビだったときから12年間一緒にいたことになる。
脳の病気にかかり痙攣ばかりして失神しては失禁を繰り返していた。
冬に入ってからは一日中寝てばかりだった。
食事もとらないし、大好きなお菓子をあげても食べようとしない。
水だけ少し飲んで、まったく動こうとしない。
苦しそうに呼吸する姿が最期に見た姿だった。
リードを持ってからっぽの犬小屋の前に立つ。うれしそうに尻尾をふりながら駆け寄ってくる騒がしい声や足音はいつまでたっても聞こえてこない。
ぽっかりと空洞になった犬小屋の前でばかみたいに突っ立ってた。しょうがないから、外の水洗い場に転がってたたわしにリードをつなげた。
金具のとこがかっちりかみ合ってさ、こりゃいいやってなんかうれしくなった。
真っ赤なリードをひっぱると後ろで茶色いたわしがひきずられてるんだよ。
なんだよこれ、ばかみたいだよな。冷静じゃない頭でも今の自分がおかしいとわかる。ほら、すれちがった女子小学生が変な目でみているし。
自分が何をしているのかよくわからないまま、あの子と一緒に散歩した道をたどっていた。
夕陽が沈みはじめ周囲の景色がぼんやりした頃、 リードを握る手が急に重くなった。振り向くと、ぴんと伸びたリードの先に何かがしがみついてた。
夜の闇が滲み出したような真っ黒な犬がたわしにじゃれついていた。大きくて丸い、それがなんという犬種なのかはわからない。犬の種類にはあまりくわしくなかった。
もっと遊ぼうとばかりに、舌を出した間抜けな顔つきで俺を見上げてくる。
その首元には真っ赤な輪っかが巻かれている。名前が彫られたプレートには『ペロ』と書かれていた。
周囲を探してみたが飼い主らしき人物は見つからなかった。すでにあたりもすっかり暗くなる。
とりあえず預かっておくことにした。ペロも私を気に入ってくれたのかしっぽを振りながらついてきた。
こんなときどうやって飼い主を探せばいいかわらなかったので、家の前に張り紙をしておいた。
「ごめんください」
張り紙の効果はあったらしく夜になると飼い主がきてくれた。年配の女性だった。
ペロがうれしそうに玄関まで駆け寄る。彼女もやさしそうな手つきで頭をなでた。
それから、彼女は礼を言って連れて帰ろうとした。
「どうしたんだ? ほら、おうちにお帰りよ」
背中をそっと押すが黒い犬は玄関から動こうとしなかった。
「いまからむかうのは家じゃないのを、この子も察しているのかもしれませんね」
家を空ける事情で誰かに預ける予定なのだろう。蛍光灯の白い光に照らされた彼女の顔色は青白い。もしかしたら長期入院を控えているかもしれない。
「少し遠いところに行かなければいけなくて」
さしでがましいとは思ったが、預かろうかと申し出た。彼女は少し迷った素振りを見せてから『お願いします』と頭を下げた。
その日から夜になると来客があった。
最初にきた女性の旦那さん。
中学生ぐらいの男の子とその姉である女の子。
彼らは別々にやってきた。
飼い主たちとペロの話をした。
彼はやんちゃな子で仕事から帰ってくると遊べとせがんできた。飼い主一家も休日になるとドッグランに連れて行ったりするそうだ。
「そっか、遊び足りなかったんだね。お兄さん、遊んでくれてありがとう」
みんなうれしそうにペロをかわいがる。だけど、彼は誰にもついていこうとしなかった。
夕方、玄関前で吠える声がした。
差し込む夕陽の中で、リードを咥えてお座りしていた。
「散歩? うん、いこっか」
遊ぶのが好きな犬だったが、どうしてか散歩には行きたがらなかった。
リードを首輪につなげて家を出る。ひさしぶりの感覚になつかしさを感じた。
散歩のコースを考えるが、結局、十数年の習慣に従っていつもの道順になった。
夕暮れ時の散歩。真っ黒な体毛は薄闇の中で溶けてしまいそうだった。すれちがった女子小学生がリードの先を不思議そうに見ている。
散歩コースを半分まで消化したとき、すでに周囲はとっぷり暮れていた。ひさしぶりの散歩のせいで感覚が狂っていたのかもしれない。
そろそろ、飼い主たちがペロに会いに来るかもしれない。彼らは決まって夜になってから訪ねてきたから。
急ごうかと思ったとき、それまでおとなしかったペロが急に走り出す。
「お、おい、ちょっと待ってくれよ」
ぐいぐいとリードを引っ張られて、黒い大きな体に引きずられる。こんな夜に飛び出したら危険だと必死に引きとめようとした。
しかし、その力が急に緩んだ。
「ここは……?」
そこは交差点だった。
ガードレール脇には花が置かれている。他にもお菓子やジュースのペットボトルがそっと並べられていた。
思い出す。一週間ほど前に起きた事故のことを。あおり運転が原因らしく、全国にほうじられた。それがこの場所だった。
巻き込まれた乗用車はひどい有様で、その中には一家四人が乗っていたらしい。
ペロはぺたりとお座りをして何かを待っているようだった。
「……もう、いいの?」
さっきまでそこには気配はなかった。声がした方を振り向くと、ペロの飼い主の一家がいた。
ペロが一声鳴く。そしてこちらを見た。
一家もこちらにぺこりと頭を下げた。
それっきりだった。
リードの先には何もつながれていなかった。
家に帰ると庭先につくった小さな墓の前で膝を曲げる。リードをそっと墓前に供えた。
手を合わせて、心の中で別れをつぶやいた。