第十一話 『温もりと優しさに満ちた部屋』
“その現象”は、『極寒の竜アブリシア』の“残り香”だともいわれていた。
彼が封印地である『アイスマウンテン』に存在していた当時、同大陸の『コンフィエス大陸』ではそのアブリシアが発していた冷気の影響を大きく受けていた。
万年雪に覆われ、住むのに適さない大陸だったのだが、アブリシアが討伐された現在、コンフィエス大陸を覆っていた冷気は日に日に弱まりつつある。
そうした自然環境の変化は七竜が倒された封印地各地に広く現れており、時には奇跡的な確率で予想外の気候変動が起こることもある。
解き放たれたアブリシアの冷気=“残り香”が、同じく解き放たれたシアレイヴンの風気=“暴風”に飛ばされ、遠く離れたオブリビア大陸の“ある街のみ”にその影響が現れたのだ。
濃縮された冷気に覆われた街は一瞬にして冷え込み、季節的に真夏であるはずなのに、空気は乾燥し水溜りには氷が張り巡らされていく。
多くの現象が偶然重なり合って起きた奇跡の事象、“スポットゼロ”現象が観測されたのは、世界的に見てもその日が初めてである。
「…マジかよ…」
マンションの一室。
自身の部屋から見える街の風景を一望していたシグは、驚きを隠せなかった。
「昼間はあんなに暑かったのに…街が全部雪に埋もれてやがる…」
暗くなった空には雪雲が浮かんでおり、そこから粉のような雪がしんしんと降り注いでいる。
道路や民家の庭では、業者か誰かが炎の魔法を使って除雪作業をしているようだ。
「こんなこともあるものですね」
窓際に立っていたシグの背後から、サイラの声がした。
「私も驚きましたよ。急に冷え込んできたから」
「いや、驚いたってさ…」
風呂上りのシグは、バスタオルで濡れた髪を拭きつつ背後を振り向く。
「さ、できましたよ」
そういうサイラの目の前にあるテーブルには、煮えたばかりの鍋があった。
その鍋はコンロにかけられぐつぐつと音を出しており、中の野菜類はとろとろで、肉や魚もお湯の中で躍っている。
「お前…知ってたのか?」
シグは目を丸くさせたままきいた。
「今日、この街に“スポットゼロ”現象が起きるってさ。誰かから聞いたのか?」
「そんなわけないじゃないですか」
取り皿や箸を用意しつつサイラは突っ込む。
「今回の気候変動は天気予報士ですら予測不可能だったらしいですし、奇跡的な確率で起こった事象なんですから。分かったとするならば、“未来視”のできる方や占い師ぐらいですよ」
「いや、だったらなんで鍋なんだよ」
シグはすぐさまそう突っ込み返す。
「こんなバカ暑い日に鍋なんてする奴いねぇし。知ってたとしか思えねぇじゃん」
「たまたまですよ。今日は鍋かなって閃いただけです」
「うそつけっ! お前ってそういう意味不明な行動嫌うじゃん!」
「そうでもないですよ」
「いやだってお前が昔…」
「それより食べるんですか、食べないんですか」
サイラにじろりと睨まれ、シグは言葉を詰まらせる。
「た…食べるよ…」
確かに必要のない押し問答だと思い直したシグは、バスタオルをそのまま首にかけつつテーブルの前まで移動した。
ちなみにそのテーブルは一人暮らし用なので小さく、前面はテレビに接しているため、サイラと隣り合って座るしかない。
窮屈そうに一つのテーブルにかけ、同時に鍋からダシの効いたいい匂いが漂ってくる。
真夏からいきなり真冬になったため、当然部屋には暖房器具など用意していない。
サイラが気を利かせて“バリア魔法”を使ってある程度部屋を密閉してくれたが、それでもまだ寒い。
だから、湯気の立つ鍋はとても温まりそうで、そして美味しそうだった。
サイラが用意してくれた漬けダレは二種類あり、魚粉や練りゴマを使ったこってり系と、あっさりとしたポン酢系がある。
どちらもしっかりとした味がついており、鍋のスープと合わさると何ともいえない風味が鼻腔を駆け抜けていった。
うめぇ、と思わず率直な感想を口にしたシグは、火傷に気をつけながらも次々と具材を口の中に放り込んでいく。
「いや、マジでうめぇわ」
何度も料理を褒めるシグだが、「そうですか」とサイラの反応は味気ない。
「この料理ってどっかで学んだのか?」
気にせずシグが尋ねると、「エンジェ族ならば、冬物料理が得意なのは普通のことですよ」、とサイラは答えた。
「我々の故郷は万年雪に覆われたコンフィエス大陸にあるのですから。お料理も自然と体の温まるものになっていっただけのことです」
「へー、なるほどなぁ」
「ちなみにシメはどうします? 麺類にお雑炊、どちらもご用意できますが」
「うどんだうどん! んでうどん食った後に雑炊にする!」
体が温まってきたからか、シグのテンションはやや高い。
「炭水化物ばっかり…太りますよ」
サイラは相変わらず冷静に突っ込むものの、ちゃんとうどんとご飯を用意してきてくれた。
それからしばしお互い特に会話もなく、身を寄せ合って静かに鍋をつつき合う。
部屋にはテレビの賑やかな声しか聞こえず、何とも穏やかな時間が流れていった。
鍋の中にあった食材はどんどん消えていき、そろそろシメに入ろうかというときだった。
「いいもんだな」
美味しい鍋料理ですっかり上機嫌になったシグはいう。
「面倒だから基本メシは外か出来合いのもんばっかだったんだけど、食材を買ってきてイチから作ったもんって、何だかやたら美味く感じるよ。健康的な気もするし」
「当たり前ではないですか。栄養面においても節約の面においても、自炊以上に効率的な方法はありません」
サイラの冷静な台詞に、「いやそうなんだけどさ、やっぱ面倒じゃねぇか?」、とシグはいう。
「安い食材探し回って、その食材から何を作れるか考えなきゃなんねぇ。健康だっていうのは分かるけど、面倒さが先に出てきて出来合いもんでいいやってなっちまいがちじゃん」
「そのような方が多いから、現代病なんて言葉もできてしまったのでしょうね。嘆かわしいことです」
サイラは無表情に鍋から具材を取り出し、静かに食べ進めている。
「いや…何が言いたいかってーとさ、面倒なことは無理してしなくていいんだぞってことを言いたくてさ」
やや遠慮がちなシグの台詞を聞き、サイラの動きが止まる。
「無理して?」
彼女は真横にいたシグを見る。少し怪訝そうな表情だった。
「いや、ウチに越してきてからずっと動きっぱじゃん、お前」
サイラの視線を気にせずにシグは続けた。
「プライベートのお前って“外面”と違って割りとずぼらだし、休みの日はずっと寝てんだろ? なのにウチに来てそんな調子じゃ、後々がしんどいだけだって思うんだけど。動いてくれるのは正直ありがたいんだけどさ」
サイラの普段を知ってるからこその、シグの心配だった。
「確かに、シグさんが整理整頓のできる方なら、私も楽にできたんですけどね」
サイラはため息を吐いてから食事を再開する。
「気にしないでください。生活環境を整えているだけで、ある程度片付いたらこれまでのような生活態度に戻させてもらいますから」
「そう…か?」
「はい」
「でも傍目には少し無理してるように見えたんだけどな…」
そんなシグの呟きを聞いて、またサイラの動きが止まる。
「…まぁ、居候の身ですから」
彼女はいった。
「シグさんの生活にお邪魔させていただいている身分として、最低限のことはさせていただいているだけです。私はパートで時間もありますし」
きっとそれが本当の理由だったのだろう。
誰かの世話になるという経験が乏しい分、お礼の方法を色々と調べていった結果、相手方の生活をサポートするというメイドのような役割をすべきだと考えたのだ。
自身がずぼらというのはサイラ本人も認めてはいるが、かといって居候させてもらっている相手に何から何まで世話になる図太さはない。それはさすがにエンジェ族としてのプライドが許さなかったのだろう。
が、そんなサイラの気持ちをシグが知る由もない。
「無理なら無理でいいんだぞ?」
シグはシグで、頑張りすぎているサイラのことが心配だった。
「これまでの生活なんて簡単には変えられないんだからさ、面倒なら面倒でいいんだよ。毎日のメシは全部お前に任せてるけど、別に出来合いの惣菜やコンビニ弁当だって俺は文句いわねぇしさ。そこまで金に困窮してるわけでもねぇからもっと楽に…」
「私が好きでしてることですから、放っておいてください」
遮るようにぴしゃりと言われ、シグは途中で言葉を詰まらせてしまう。
「私が勝手にしてることで、シグさんには何も影響がないでしょう? 居候させていただいてはいますが、プライベートにまで口出しされるいわれはないですよ」
そう言われては、シグはそれ以上何も言えない。
「まぁ…『フュリエル』がそれでいいなら…いいんだけどよ…」
ぽりぽりと頭を掻き、シグは鍋の中にある具材を全て空ける。
鍋のシメの準備に取り掛かり始め、そんな彼の横顔をサイラは俯き加減で見ていた。
またやってしまったと、サイラは思った。
また強がってしまった。
弱い部分を見せまいと、今更隠す必要もないのに強がってしまった。
元来の性格によるものなのか、これまでの生い立ちがそうさせたのか、なかなか素直になることができない。
シグは自分を心配してくれているというのに。居候だからといって気負う必要はないと、優しい言葉をかけてくれているというのに。
夕方のあの公園で、名前すら知らないある人物に相談してしまったが…“壁”を作っているのは、きっとシグではなく自分だ。
「お、そろそろ炊き上がったかな」
蓋を閉めた鍋からぐつぐつと音がし始める。
「んじゃ適当にぶっこんでいくから、もうちょっと待ってくれな」
シグはテーブルの端に置かれてあった生卵に手を伸ばそうとする。
目の前を横切ったその彼の腕を、サイラはおもむろに掴んだ。
「んおっ!?」
まさか掴まれると思ってなかったシグはびくりとする。
「な、なんだ? まだ卵は早かったか?」
驚いた彼の視線を受けながら、
「シグさん…教えてくれませんか」
やけに真剣な表情になって、サイラは尋ねた。
「どうして私を受け入れてくれたのですか?」
「…あ?」
「普通は嫌じゃないですか」
真顔のまま彼女は続ける。
「自由気ままに暮らしていたところに、突然厄介な人が転がり込んできて。おまけに生活態度についていちいち突っ込んでくる。プライベートな時間ですら他人の存在がちらつくなんて、普通は嫌じゃないですか」
夕方、“不可思議な女”に思いをぶちまけろと言われたからかも知れない。
それとも鍋料理でお互いの距離が近づいたせいかも知れない。
いまこのタイミングならばと、サイラは思い切って疑問に思っていたことをシグ本人に言ってみることにした。
「何故なのですか? 私が天涯孤独だから、憐れみで受け入れてくれたとか?」
いくら空気が読めないシグでも、さすがに冗談で答えられる空気でないことだけは分かった。
「…あ〜…」
コンロの火を止めたシグは、そのまままた頭を掻きだす。
「まぁ、そりゃ? 憐れみの気持ちが全くないといえば嘘になる…わな。お前の生い立ちとか色々知ればさ」
そこでサイラが何か言おうとしたが、「でもな」とシグが再び先制した。
「お前が色んな才能を持ってることは知ってんだ。情報整理やら事務仕事やら、目立たないけどおかげで俺もカインも何度も助けられた。その恩返しの意味もあるし、優秀なお前の能力を野ざらしにするのはもったいねぇって思いもある。これは以前にも言ったことだと思うけど」
シグはさらに続ける。
「当時お前がどんな思いでいたのかは分かんねぇけどよ、俺とお前は昔もいまも苦楽を共にした仕事仲間だと思ってんだ。ぶつくさいいながらも結局は俺の仕事に協力してくれて、楽させてくれた。そんなお前が恥を忍んで俺を頼ってきてくれた。ここで突っ返すわけにはいかねぇだろ」
「…ですが、迷惑では…」
サイラがそういいかけた瞬間、シグは彼女の顔を真正面に見据えた。
「フュリエル、いいか。この際だからはっきり言っておく」
逆にサイラの腕を掴み、シグはいった。
「過去に何度も脳筋だの何だのお前にバカにされて、俺も多少ムカついたことはあったけど、お前のことそこまで嫌ってねぇから」
「え…」
「確かに小言は多い。けど言ってることはその通りだと思うし、文句を言いながらも面倒ごとは率先してやってくれている。正直助かってるよ」
長年の付き合いで、シグは嘘が苦手だということを知っていたサイラだからこそ、その台詞が本心だということが伝わったのだろう。
サイラの両目が見開かれる。
シグから助かってると言われるとは思ってなかったのかもしれない。
「面白いことが好きだからな、俺は」
シグは笑う。
「毎日の生活環境をがらっと変えてみるのもアリかなと思ったんだ。共同生活なんてまだ始まったばっかだし今後どうなるかは分かんねぇけど、お前を受け入れた以上俺から追い出すようなことをするつもりはねぇから、そこは安心してくれ」
ふと彼の表情は挑戦的なものになった。
「俺としちゃ、俺の日々の生活態度に辟易として、お前の方から出て行く展開を予想してんだ。だからどっちが先に根を上げるか勝負といこうじゃねぇか」
喧嘩っ早くて粗雑だが、人情味があり面倒見もあるシグ。
だからこそ、彼が率いる『ジャッジメント』部隊の部下たちは全員彼のことを慕っている。
そのことを良く知るサイラだけに、出て行くことを予想している、というシグの台詞は半分が嘘だということを見抜いてしまった。
きっと、自分が本当に出て行こうとしたら、シグは恐らく引き止めるだろう。そういう男なのだ、彼は。
「いいん…ですか?」
俯いたまま、サイラは小声でいう。
「身寄りがなく、日々の生活やレギリン教の“工作活動”に必死だった私は、誰かを好きになった経験もそんな余裕もありませんでした。私の過去も本名も全てを知ってしまったあなたを前にして、私がどうなっていくかは私自身ですら分からない。あなたに縋り、日々の生活をひどく締め付けるほどに依存してしまう可能性もある。それでも…いいんですか?」
サイラ自身、若干の恐怖はあったのだろう。
シグの日常に異常なまでに干渉し、沢山の迷惑をかけてしまうことになるかもしれない。
彼のやりたいこと、したいことを妨害し、彼の足かせとなってしまうのかもしれない。
これまで誰かに頼ったことがなかったサイラだからこそ、シグへ多大な負担を強いてしまうのではないか、という恐怖心があったのだ。
「ん〜まぁ、依存症レベルのもんになると、ちっとは困っちまうとは思うけど…でも軽いもんなら別にいいんじゃねぇか?」
頬を掻きつつ、シグはいった。
「どんな奴であれ、人は一人じゃ生きてけないんだしさ。頼ることも依存することもそんなに悪いこととは思わねぇよ、俺は。俺が住居を提供して、お前は家事をしてくれている。見事な助け合いで、俺は悪くないと思ってるよ。それに…」
シグの手が動き、サイラの頭にぽんと置かれた。
「お前が…フュリエルが作るメシってマジでうまいからな。それだけで毎日のモチベが上がるよ。これは意外で嬉しい発見だった」
「………」
サイラから返事はない。
ずっと俯いたままだったが、その両腕が突然シグの胴体に回された。
「おっと…?」
急に抱きつかれ驚いたシグだが、サイラの体が小さく震えているのが分かり、彼からもそっと抱き返す。
外は相変わらず吹雪いているが、全く寒くなくなったのは、きっと鍋料理のおかげだけではないのだろう。
「…あ〜…ついでに、もう一つ言っておくとさ…」
ややいいづらそうに、シグは続けた。
「その…想定外の“ハプニング”とか色々あっても、え〜と…お、お互い、節度を持って…な?」
「…ハプニング?」
サイラの体がぴくりと反応する。
「い、いや、ほら、い、一応さ、俺とお前は男と女なんだし…」
そこから先のことをはっきりといえず、ごにょごにょ口ごもらせていると、
「バカじゃないですか?」
サイラは、ぱっとシグから離れていった。
「シグさんには金銭面やその他諸々の余裕がありそうだったので、私はそこを頼ったに過ぎません。別の“何か”を期待していたのですか? ムッツリスケベ」
「なっ…!? ばっ…!!」
シグの顔面が真っ赤に染め上がる。
「き、期待とか微塵もしてねぇっつの!! 俺はあくまで一般常識的な話をしてるわけでな…!」
「脳筋のあなたが常識という言葉を口にしないでもらえませんか? 知恵の輪がどうやってもほどけなくて、筋力で全て真っ直ぐに捻じ曲げていったことがあるくせに」
「い、いつの話をしてんだよ! それとこれとは…!」
「あ、もうおうどんが炊けましたよ」
「聞けよ!!」
一人で取り乱すシグをそのままに、鍋の蓋を開けたサイラはお玉でうどんとスープをかき回し、薬味も投入していく。
「あーくそ…やっぱお前を受け入れたの失敗だったかな…」
そんな“冗談”を飛ばすシグの声を聞きながら、鍋のスープを味見したサイラの口元には笑みが浮かんでいた。